11月 122007

先週の11月11日の日曜日、天皇皇后両陛下は滋賀県・大津市に行幸された。(この様子を小生はNHK総合テレビで見ていた。)琵琶湖で行われた「第27回全国豊かな海づくり大会」の式典にご臨席されるためである。



注目すべきは、天皇陛下はご挨拶の中で、自からが皇太子時代に米国から持ち帰った外来魚のブルーギルが琵琶湖の生態系を脅かしていることに触れ、「心を痛めています」と述べられた。「当初、食用魚としての期待が大きく、養殖が開始されましたが、今、このような結果になったことに心を痛めています」

そう語られた。このことの意味は大きい。

「何をそんな大袈裟な。自然科学者でもある天皇陛下が、その意味で純粋に心を痛められて発したにすぎないのでは?」と思われるかもしれない。しかし、決してそうは思えない。

確かに、象徴天皇制の下、天皇陛下は一切の「政治的発言」を行う権能を持たない。天皇陛下のみならず、皇族が全体として憲法学上、いわゆる「人権」の範疇外(市民ではない)とされ、日本の政治プロセスから隔離されるべきものとされてきた。天皇陛下が行うことができる国事行為は制限列挙であり、例外を許さない。

しかし、だからといって皇族の方々の行為が、事実上の政治的インパクトを与えないというのはむしろ逆であろう。事実上のインパクトをあまねく日本社会全体に与えるからこそ、天皇陛下と皇族の方々による行為はまさに「伝家の宝刀」であり、容易に抜かれるべきものではないとも言えるのである。

憲法は「社会統合のためのプログラム」であると読むルドルフ・スメント流の解釈をとった時、その一翼を現実に担うのが君主制なのだ。そのことを無視して憲法論を語ることはできず、また日本国の象徴としての地位(日本国憲法第1条)はまさにこの統合機能が具現化したものとしてみなされるべきものなのである。



とりわけ、国家としての日本国が大混乱に陥るといった意味での「国難」に際して、天皇陛下が持たれるこの事実上の役割が持つ意味合いはとてつもなく大きい。そして、古来、日本にとって「国難」とは多くの場合、聖徳太子の時代から外国からくるものであった。とりわけ、陰で英国フリーメンソンに操られたとは言え、明治維新というプロジェクト自体が「国難」への対処法であったことを踏まえれば、その後の日本における「国難」とは、結局のところ、資本主義化という意味での近代国家システムが欧米より浸透していく過程で、国家としての日本が名実ともに揺さぶられる場合のみを指すというべきであろう。そして、この意味での「国難」を排するために天皇陛下が抜かれる「伝家の宝刀」、それが陛下のお言葉だと考えるべきなのだ。

そう考えた時、どうしても考えなければならないことがある。

「今、はたして日本は『国難』に襲われているというべきなのか?」

「天皇陛下が嘆かれている『外来種』とはいったい何を指すのか?」



天皇皇后両陛下、そして皇族の方々が常に「日本国」の行く末を案ずることだけが仕事だという前提に立った時、今回のお言葉から私たちは何を思えばよいのだろうか。

ここで思い起こさなければならないのが、「一億総アメリカ化=白痴化」を押し進めようとする国内勢力の手によって、象徴天皇制であれ、「天皇制」そのものの事実上の廃絶がここにきて急激に画策・進展してきたという事実である。そう言った意味で、まず話題にすべきは朝青龍問題だろう。(以下、行政調査新聞より引用)



7月10日から17日まで、浩宮皇太子殿下がモンゴルをご訪問。このとき皇太子殿下は朝青龍の父君とお会いになられ、親交を深められている。そして皇太子殿下ご帰国の1週間後に、朝青龍のサッカー問題が暴露されたのだった。骨折を理由に巡業に参加しなかった横綱が、母国モンゴルに帰ってサッカーに興じているとは、そもそも何なのだ。大相撲を嘗めているのか、日本の国技を馬鹿にしているのかといった批判が続出。週刊誌もTVも、連日のように朝青龍問題を取り上げた。

その朝青龍問題もどうやら下火になった秋場所の9月22日。日ごろから大相撲が大好きだと公言されている愛子さまをお連れになって、浩宮皇太子ご一家が大相撲をご観戦された。天皇陛下、あるいは皇太子殿下が大相撲をご観戦されることは、決して珍しいことではない。愛子さまがご観戦されたのも今回が2度目である。

天皇陛下、皇太子殿下がご観戦になられた当日、陛下が退席されるまで、一般客は足止めされる。それは従来からずっと行われてきたもので、何も指導や放送がなくとも、誰もが頭を下げ、拍手で陛下ご一行が退席されるのを待つのが当然のことだった。 ところが今回のご観戦の最後に、足止めされたごく一部の客から「もう来るな」といった心ない野次が皇太子ご一家に向けて飛ばされている。皇太子ご一家に対して公然とこのような野次が飛ばされたことに、疑念を感じるべきであろう。

その2日後、時津風部屋の序ノ口力士、斉藤俊さんが親方の暴力により死に至ったという悲惨なニュースが明らかにされた。

斉藤さんが死亡したのは6月26日のこと。この力士についての情報は、すでに一部週刊誌にも載っているが「札付きの不良」だったという説もある。親方は「マリファナをやっていた」と言っているが、これは確認されていない。ただし、中学生時代から陰湿なイジメを繰り返す途轍もない不良で、親も諦めていたような人間だったとの情報もあるのは事実だ。

死んだ者の悪口を書き立てることは気持ちの良いものではない。また、たとえ本人に落ち度があろうと、死に至るほど陰湿残虐な暴力行為というものは決して許されるものではない。だが6月の事件は、時津風部屋と親との関係においては、一応の決着を見ていた。なぜ皇太子ご一家が大相撲ご観戦をされたことに合わせて、3カ月前に起きたこのような醜聞が暴露されなければならないのか。

皇室の権威失墜を狙って勢力が動いているという推測が成り立つ。(引用終わり)



現在、日本の有名出版社が現在の皇統の正統性に大きな疑問符を投げかける著作の刊行を画策しているとの情報もある。一つは、新進気鋭の日本史学者(専門は江戸時代)によるものであり、もう一つは(驚くべきことに)旧宮家にもつらなる人物で、言論人として突如浮上した人物の手によるものだと聞く。とりわけ、前者はかなりの策謀とでもいえるものであり、過去5年間にわたって執筆が続けられているものである。その誤った意味での「実証性」が、天皇家に与えるインパクトはテキストを読まずとも十分に予測がつく。

米軍は現在でも日本のメディアをつぶさにウォッチし、コントロールしている。

上記の出版社はいずれも、こうした米国の情報工作機関による「非公然活動(covert action)」の対象、いや、その隠れ蓑となって活動してきたものである。すなわち、

1)まずは若手言論人候補を拾い、

2)彼らが得意な分野でどちらかというと「愛国的」な書物を書かせ、ヒットに持ち込み、

3)「若き言論人」として各種の媒体へと売り込みをかけ、

4)ある程度の影響力を持つようになった段階でいよいよ「本当のメッセージ」を彼らの本として出す

という手法をこれまで何度となく繰り返してきた出版社である。表面的には、こうした動きは単なるマーケティング(つまり純粋な私企業としての行為)のように見えるが、実際のところは、個別具体的な指示を米国の情報工作機関から受けての作業であることはいうまでもない。そうした出版社たちによる動きなのである。今回の出版計画2点が、米国の意向によるものであることを前提としてまずは考えるべきなのだろう。

他方、ふと見ると、日本のすべてがここに来て流動化する一方なのである:

◎「大連立」の試みに見られるとおり、日本の国政の主は永田町の住人たちでもなく、ましてや日本国民でもないことが露呈した

◎経済はというと、5期連続で並み居る日本の大手企業たちが黒字決算を出してきたにもかかわらず、為替レートの乱高下にあわせて株式マーケットは翻弄され、「不安定」そのものといった状況になってきている

◎メディアについても、いわゆる往年のトークマスターたちの抱えるテレビ番組です ら視聴率低迷は免れず、ましてや印刷メディアにいたっては「公称」と「実態」の かい離がもはや隠せず、企業間の統合すら緊急の課題になりつつある



明らかに「国難」というべき状況に他ならないのである。そのようなタイミングであるからこそ、先に述べたとおり、昨年、いやもっと前の段階から、今年の秋に皇室をめぐる「衝撃本」の出版が画策されていたのであろう。

そう考えると、今の日本で起きていること、その全てが「あらかじめ決められていたこと」のような気がしてくるのだから不思議である。

政治、経済、そしてメディア、さらには皇室をめぐって今、起きているすべてのことが、実際には米国と密接不可分であることが明らかになりつつ今であってもなお、金科玉条のように「日米同盟神聖論」を語る自称「知識人」が後を絶たない。その内の一人曰く、「アングロサクソンは戦いに負けたことがない。日本はアングロサクソンと手を組まなくてはダメだ」という。



焦土と化した日本。その中で「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」ことによって再スタートを切り、現在の繁栄を私たち日本人は手にした。

だが、その過程において、「B51」から降り立った米国人たちは、当然のように日本社会をアメリカ化し、その仕組みが無意識に再生産されるシステムを構築していった。

「完全に去勢され、米国の対日政策をめぐる真実を語らない大手メディアたち」

「親米を語れば食い扶持が守れると信じて疑わない『知識人』たち」

「一昔前の米国モデルを持ちこんでは日本で高値売り抜けを狙う元日本人留学生たち」

「「B51」に機銃掃射されたことを忘れ、ひたすら装備の米国標準化(下請け化)をはかる自衛隊員たち」

「欧米の微妙なバランスを渡り歩くのではなく、米国閥(アメリカンスクール)だけが伸張する外務省」

・・・・などなど、例を上げればキリがない。

しかし、いかに62年前のあの時、それまでのシステムが強制終了となったとはいえ、その後にとりいれられたものは所詮、「外来種」にすぎないのだ。そして、それがどれほど我がもの顔をして跋扈していたとしても、在来種(日本人そのもの)の存立すら危うくするのであれば、徹底して駆除すべきなのである。そのことは、自然界に最終的には包含される人間界においても全く同じなのではないか。

このままいくと世界情勢は惰眠を貪っている日本人にとって想像もつかない「大転換」を迎えることが予想される。

(1)日米首脳会談(11月16・17日)において福田康夫総理は1985年のプラザ合意以来の「円高誘導」を強要されるだろう。しかも、米軍がイラン空爆をする際には2003年のイラク戦争前のような為替介入(戦争費用を事実上日本が負担すること)まで約束させられるはずだ。

(2)12月初旬には偽りの中東和平を演出、原油に代わりゴアが「不都合な真実」で画策した「原子力」が前面に躍り出ることになるであろう。

(3)それとほぼ同時期に、北朝鮮問題を巡るこれまでの米国発の北朝鮮の核実験等の発表がすべて「虚偽」であったことが明らかになるのではないか。





天皇陛下が口にされた「外来種」というお言葉を真摯に受け止め、日本国、日本人を夷敵から守る堅い決意をしないと我らの存続は難しいのではないかと思われる。

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