以前、「日米同盟の正体 迷走する安全保障」孫崎享著(講談社現代新書)という本を紹介させていただいた。前回のレポートを補強する内容の本なので、改めて紹介させていただきたい。

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*元外交官(元駐レバノン特命全権大使)天木直人氏のブログより

『驚愕の本がまたひとつ出た。元駐イラン大使であり、現防衛大学校教授の孫崎享氏の手による「日米同盟の正体 迷走する安全保障」(講談社現代新書)という近刊書である。

この本の何が驚愕なのか。それは、日本を守ってくれているはずの日米安保体制(日米同盟)が、国民の知らない間に、完全に米国の戦争協力の道具に変えられてしまっている現実を白日の下にさらしたからだ。

この本の何が驚愕なのか。それは、国会承認条約である日米安保条約が、2005年10月29日の「日米同盟:未来のための変革と再編」という一片の行政合意で、いとも簡単に否定されてしまった事を国民に教えたからだ。法秩序の下克上だ。

この本の何が驚愕なのか。それはもはや米国にとっての唯一、最大の脅威は、中東の「テロ」であり、これからの日米同盟とは、米国の「テロ」との戦いに日本がどうやって協力させられていくかという事でしかない、その事を明らかにしたからだ。

この本を書いた孫崎氏はキャリア外交官として任期をまっとうした元外交官だ。

国際情報局長という幹部職を経歴し、駐イラン大使を最後に退官した後は、防衛大学校へ天下って今日に至っている人物である。その経歴を考えるとまさしく、権力側に身を置いて、権力側について飯を食ってきた要人である。日本政府の安全保障政策を担ってきた一人である。その彼が、日本の国是である日米安保体制の正体を明らかにし、もはや日米同盟は空洞化していると公に宣言したのだ。これを驚愕と言わずして何と言うのか。

おりしも今日3月23日の各紙は、22日に神奈川県横須賀市で開かれた防衛大学校の卒業式の模様を報じている。そこで麻生首相は、相も変わらず日米同盟の強化を訴えている。その光景を報じる写真の中に、あのブッシュの戦争を支持し、この国をブッシュの戦争に差し出し小泉元首相の姿がある。おまけに来年2010年には日米安保条約改定50周年記念を迎え、政府、外務省の手によって盛大な日米同盟万歳の合唱が繰り返されようとしている。

壮大な茶番劇である。この本をきっかけに、日米同盟見直しの論議が起こらないとウソだ。対米従属から永久に逃れられない。この国に将来はない。』

小生がこの本を読んで一番吃驚したのは、本当は、これほどの経歴の人でありながら、日本人には、この程度の戦略的思考能力しか持てないのかということであった。日本に「戦略思考能力がないと明言するキッシンジャー」という項目がこの本のなかにあるのが皮肉である。しかし、日米安保条約が終わっていることを外交の専門家が明らかにした意味はあまりにも大きい。是非、心ある人には、読んでいただきたい本である。

本を読む時間のない人のために内容を紹介させていただく。以下。

 

(1)変質させられた日米安保条約

日米安保条約は、2005年10月29日の日本の外務大臣、防衛庁長官と米の国務長官、国防長官との間の合意文書「日米同盟:未来のための変革と再編」によってとって代わられた。これまでの日米安保条約での極東条項は破棄され、米戦略に従って世界中に自衛隊を派遣することに合意した。しかし日本政府は、残念なことだが、国民に対しては、何も変わっていない、これからも変わらないといい続けている。

民主党政権になってもこのことは、全く変わっていない。

(2)米国に従うことが、日本の戦略になっている

従来から日米は「同盟関係」といっても、実態は「米国が重要な案件を一方的に決めているだけ」(守屋元防衛次官)であり、それに日本が従ってきただけの関係である。日本政府が「独自の国際貢献策」として進めてきた自衛隊のPKO、人道支援、災害援助活動への派遣ですら、

「・・・(1990年代初期、日米安全保障面の責任者である国防省日本部長 の任にあった)ポール・ジアラは論文『新しい日米同盟の処方箋』(1999年) で次の説明を行なった。

『PKOや人道援助、災害援助などの分野は政治的に受け入れやすいこともあり、共同で行なうことは同盟の結束を促す上でよい機会である。人道支援などで作戦を日常的に行なうことは、はるかに緊張度の高い有事への作戦の準備としても絶好の訓練になる。このような活動で求めるものは有事と共通である・・・』」

米国は、イラク戦争への協力から、アフガニスタンへの自衛隊派遣の模索に見られるように、日本に海外派兵に必要な軍事力とそのための政治環境を整えさせたうえで、これを積極的に米国戦略の中で活用していくという姿勢が明確である。

そしてこの傾向は間違いなくオバマ政権に継承されている。自民・民主いずれも程度の差はあれ、この傾向に従っている。

実に、自衛隊を使った「人道援助」すら、米国によって仕組まれたというのである。

(3)「国益のため」という日本政府の説明さえ、米国の戦略に付き従うための方便に過ぎない

日本人は安全保障問題を軍事的、戦略的に考える事ができないので、経済を絡ませて説得すればいい、と米国は考えている。

「シーレーン防衛構想」やイラク派兵で、石油に依存する日本は中東問題に貢献しなければならない、などというキャンペーンがその好例である。

・日本では国際政治の神様のように見ていたキッシンジャーは、1974年に鄧小平に次のように述べた。

「日本はいまだに戦略的な思考をしません。経済的な観点からものを考えます」

・また別の機会では、側近に対してこう言っていた。

「日本人は論理的でなく、長期的視野もなく、彼らと関係を持つのは難しい。日  本人は単調で、頭が鈍く、自分が関心を払うに値する連中ではない。ソニーのセールスマンのようなものだ」

・著者がハーバードで学んでいたとき米国学者はこう言った。

「日本人は安全保障論の本質はまったく理解できない。この議論では猿みたいなものだ。」

・日本のある自衛隊幹部もこういっている。

「ワシントンのある大学院のセミナーで第一次・第二次大戦で主要国がいかに効果的に戦争を遂行したかを点数付けした。日本は、作戦・戦術レベルでは高いものの、軍政(ポリティコ・ミリタリー)・戦略的レベルでは極めてお粗末だった。  今日でもその傾向はまったく変わっていない。自衛隊の軍政的センスについても   国際的に高いと言えない。…単純に言えばただ訓練のみをしていれば、冷戦時代は済んでいたのである。しかし陸で匍匐前進の訓練ばかりを、海で面舵、取舵ばかりを、空でドッグファイトばかりをやってきた自衛官に、諸外国の防衛交流の場で英語の討論に加われと言われても無理な話である」

・対日工作は米にとって難しい作業ではなかった。戦前では真珠湾、戦後も吉田内閣など、さまざまな形で政権に影響力を行使してきた。

(4)80年代、日本の軍事力の積極利用へ米戦略は転換した

第二次大戦以降、米国は、

①日本の負担で米軍基地を日本に置く、

②日本は西側陣営につく、

③日本には自立した攻撃能力を持たせない、

ということを基本にしてきた。

この流れを変えたのは80年代からの「シーレーン防衛構想」による対ソ核戦略への自衛隊の組み込みである。レーガン時代、対ソ核戦略で優位に立ちたかった米は、オホーツク海でのソ連ミサイル原潜を封じ込めるために、日本の軍事力を積極的に利用するという方向転換を開始した。この口実に、石油タンカーへのソ連潜水艦の攻撃を阻止するという時代錯誤の荒唐無稽なシナリオを示したら、経済問題に弱い日本は簡単に信じた。統幕議長ですら真の意図を理解できなかった。米国は内心冷笑していただろう。

(※「大韓航空機撃墜事件」もこの海域での制空権確保上喉から手が出るほど欲しかったソ連の迎撃態勢の情報を得るために米が仕組んだ謀略だという説も根強いことも心ある日本人は知るべきだろう。)

(5)謀略は米国の外交戦略の基本だ

米国の重要な外交は謀略でつくりだされてきた。南北戦争も真珠湾攻撃も9・11も、それをきっかけに国民を戦争に駆り立てる謀略だった。トンキン湾事件、ノースウッド作戦。「北方領土問題」でも米はみずからの立場をわざと曖昧にし、最初はソ連に対日参戦を促す手段に使い、戦後は日本とソ連・ロシアを永久に争わせる手段とした。それが米国の戦略だった。しかし謀略は悪ではない。謀略に引っ掛かる方が悪い。

(6)現在の米軍事戦略は、ソ連崩壊後90年代に作られたものを踏襲している

ソ連崩壊後、米は強大な軍事力を維持する口実を探していた。イラン・イラク・北朝鮮が悪の枢軸と名付けられ、その「脅威」にあげられた。同時に2正面で大規模作戦を展開する能力を保持する基本戦略が作られた。唯一の超大国としての米国の地位を保持し、このために集団的国際主義は排除する。さらにクリントンの時代に「ボトムアップレビュー」が出されて、その後の米の戦略の中心になっていく。軍事戦略では政権の違いは無関係。イラク攻撃は91年から戦略課題になっていた。

日本に対しては、もちろん、この体制に沿ったように防衛大綱を作らせる。細川政権時代にスタートした防衛問題懇話会の「樋口レポート」は多国間枠組みの安全保障政策であった。中心になったのは西広整輝元防衛事務次官だが、これをジョセフ・ナイが中心になって押し潰し、そのかわりに95年に「新防衛大綱」を作らせた。武村官房長官を切ったのも小池百合子氏が証言するように、米の圧力であった。この「新防衛大綱」が10年後に「日米同盟」合意に行きついたのである。米は長期戦略で対日政策をすすめている。

(7)オバマはブッシュの政策を踏襲している

日米安保では米軍基地の取り扱いが最大の焦点だった。しかし日米同盟では、自衛隊がどう動くかが焦点になっている。そして現在の米国の安全保障政策の要は中東政策である。オバマ政権もブッシュの政策を継続している。その米国と軍事的一体化を進める日米同盟強化が、国益になるのか。日本国民のためなのか。日米関係を変えるカギは中国の存在。日本にとっても米にとっても中国の存在、それとの戦略的関係が今後大きな要素となってくるだろう。

(8)大義もないまま、米国はアフガニスタン戦争を継続・拡大している

イラクに大量破壊兵器がないことをブッシュは知っていながら戦争を始めた。そしてそれが明らかになってからも戦争は継続された。なぜか。一つは軍事力を維持するためである。もうひとつは米議会でのイスラエル・ロビーの影響力の大きさである。 後者がイランへの絶えざる攻撃計画の源泉になっている。

オサマ・ビン・ラディンとの戦争はとっくに終わっている。ビン・ラディンはサウジへの米軍駐留に反対して対米戦争を呼びかけた。2003年米軍はサウジから撤退を完了した。しかし米はテロとの戦いの対象をアルカイダではなくハマスやヒズボラ、タリバン等を対象にすることに切り替え、それらを支援するイランへの戦争準備、アフガニスタンへの戦争拡大につき進んでいるのが現状である。

(9)米核戦略にある差別的本質

米の核戦略の論理はジョセフ・ナイの論理に見られる。

「日本軍と米軍の死傷者の比率は当初南方で10対1、硫黄島で5対1、沖縄で3対1。本土上陸では2対1が予測された。…2対1は許せない。この論理が原爆投下の最有力の口実だった」これがレイシオ ratio の思想である。

たとえば、1945年8月の日本に対する原爆の投下は、こう説明される。「原爆投下はジャスティス(正義)であるかどうかは分からない。しかしラチオ、レイシオにはかなっている」と、なぜなら、原爆投下のお陰で、さっさと戦争を終わらせることができたのだから。そして、そのことで更に10万人は死ぬはずだったアメリカ兵の命が助かったのだから、と。これが、レイシオ ratio の思想である。

トルーマンの発言

「相手が獣だったら、獣としてあつかったらいい」人間なら核攻撃での相手の被害を考慮すべきだが、悪の枢軸国への攻撃は検討すべき。これが米国の論理である。

対イラン・北朝鮮への核攻撃計画もこの論理で作成され、ブッシュのもとで態勢が作られている。

10)著者の結論は?

孫崎氏は、日本の進むべき道として、核武装にもミサイル防衛にも否定的で、敵基地攻撃論も否定している。北朝鮮だけを相手にした軍事手段を国の防衛の中核にすべきではないとして、安全保障という全体を見ずに部分だけの効用を論じてはならないと主張している。日本は戦争をしてはならない国であり、日本には近隣諸国からの攻撃を封じ込める強い抑止力がある。それは非軍事の分野、日本の経済力であると主張している。そして日本は以前のような全方位外交に戻るべきだと説いている。日米安保は維持しても極東中心にし、米との距離を置いて、国連や、NATOのような多様性のある西側の同盟国との関係を強化すべきだとも主張している。この孫崎氏の主張は議論の分かれるところだろう。しかし、米国の言いなりになっているだけでは、日本の未来を切り拓くことはできないことだけは、確かだ。

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孫崎 享(まごさき・うける)プロフィール

1943年旧満州生れ。東京大学法学部中退。外務省入省、情報調査局分析課長、在カナダ大使館公使、総合研究開発機構(NIRA)部長、駐ウズベキスタン大使などを歴任。93年夏、中央アジアのウズベキスタンに初代大使として赴任。すでに大部隊を送り込んで威容を誇る欧米諸国の大使館を尻目に、当初独りきりでホテルに仮設大使館を開くことから始めたが、またたくまに数々の日ウ共同プロジェクトを実現、ウズベキスタン政府をして「最も信頼できる国は日本」といわしめた“手品師”のような外交官。その秘密の一端は『Voice』(95年12月号)「大使の使い道教えます」で披露した。いわく、外交は外務省だけの専売特許ではない、工業製品をつくるように対外関係のベルト・コンベヤーをつくる必要がある、云々。氏の才能は文筆をふるう際にもいかんなく発揮されて、『日本外交-現場からの証言』は第二回PHP山本七平賞を受賞した。

天木直人(あまぎなおと)プロフィール

1947年山口県下関市生まれ。洛星高等学校から京都大学法学部入学。大学の2年先輩で外交官試験に合格していた竹内行夫の奈良の自宅に尋ね、外交官試験について調べ、大学在学中の1969年、外交官試験に合格。大学を中退し、上級職として外務省に入省。同期に谷内正太郎、田中均、高須幸雄、藤崎一郎、重家俊範など。

1970年から米国研修。ハーヴァード大学留学を経て、オベリン大学卒業。その後、イェール大学ロースクール聴講生、ナイジェリア勤務などの後、1985年10月から1988年7月までの外務省中近東アフリカ局アフリカ第二課長時代に南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)問題に取り組み『マンデラの南ア 日本の対応』を出版、印税は同国に寄付。内閣官房内閣安全保障室内閣審議官、駐マレーシア公使を経て、駐オーストラリア公使、駐カナダ公使、駐デトロイト総領事、2001年より駐レバノン日本国特命全権大使。2003年に外務省を退職。

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