7月 272012
*素晴らしい日本人の物語を紹介します。
「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人 重松髜修(まさなお)物語」
田中秀雄=著
(草思社)
是非、お時間がある時に読んでいただきたい本である。一読していただければ、戦後、巧みに語られた、つくられた、流布された物語の中に散りばめられた数々の嘘に吃驚される方も多いのではないかと思われる。相も変わらず、韓流の時代劇が、天下のNHKで恒常的に放送されている。残念なことだが、これらのドラマは、朝鮮社会の真実の歴史を伝えるものでは全くない。
もちろん、韓国の人々が自分たちを美化する気持ちはよくわかるが、こういったドラマを日本の公共放送であるNHKが取り上げることにはもっと、節度をわきまえるべきではないのか。誰でも少し、本を読めばわかることだが、朝鮮の人々は、日本の江戸時代よりはるかに強い身分社会のなかで、陸続きの中国に属国として搾取されてきた哀しい歴史を持っている民族である。
そのために民族意識を維持するために意図的に国をあげて反日教育をやるしか、現在、国家としてのアイデンティティを確立できない面を持つ哀しい国なのである。かといって、隣国である日本のマスコミがそれにここまで付き合う必要はどこにもないはずである。
ともあれ、新渡戸稲造の「武士道」を実践する素晴らしい日本人が戦前の朝鮮にいたことを少しでも多くの人に知っていただきたいものである。
*草思社公式サイトより引用
日本の朝鮮統治の歴史を公正に評価するための手がかりとなる力作評伝!
日韓に「感動的な関係」があった
今年、二〇一〇年は日韓併合百年に当たります。本書はこの日本の統治時代に朝鮮金融組合理事として、疲弊した農村の振興に尽力した重松髜修の半生を丹念に追った評伝です。
明治二十四年、愛媛県に生まれた重松は、旧制松山中学を卒業後、明治四十五年に東洋協会専門学校(拓殖大学の前身)の朝鮮語科で学び、大正四年、朝鮮総督府の官吏(土地調査局)となります。その二年後、「感激性のある仕事がしたい」との思いから、農民のための金融機関、朝鮮金融組合に移り、理事として平安南道江東の寒村に赴任。大正八年に起きた万歳騒擾(三・一独立運動)のさいに被弾し右足が不自由になるも、私財をなげうって近代的養鶏を指導し、養鶏によって得た卵の売上を金融組合に貯蓄させ、貯めたお金で耕牛を買うという原則をつくります。牛を買うだけでなく、その貯金は農地購入や貧困家庭の就学資金にもあてられ、ついには貧しい小作農が奮起して三十七歳にして医者になることまで起きます。当初はかたくなで、足が不自由な重松を嘲笑することもあった村の人々ですが、彼の熱意がしだいに理解されるようになり、やがて彼は「聖者」と仰がれ(二〇九頁)、昭和十一年三月、村人は感謝の意を表するために彼の頌徳碑を建立します(二〇〇頁~)。
台湾の荒蕪地を穀倉地帯に変えたことから、地元の人々によって銅像を建てられたダム技術者・八田與一の名前は広く知られていますが、朝鮮にも人々に深く感謝された日本人がいたということです(ちなみに頌徳碑を建てられたのは重松ひとりではありません)。統治時代を評して「日韓にはかつて不幸な時代があった」といわれますが、重松の半生は双方に「感動的な関係」があったことを雄弁に物語っています。「後日談」の項で、重松の教えを受けたことがある人物(韓国有数のガス供給会社・大成工業会長)が、韓国に重松の業績を知る人がいないことを嘆いています。それは日本人も同様であり、日韓併合から百年を機に、この熱誠・無私の先人の存在を日本人自身が知ることは、両国が前向きな関係を築くうえでも実に意義深いことといえるでしょう。
一面的ではない統治の現実
日本による統治期間は三十五年ですが、重松は学生時代を含めて三十一年間を朝鮮で過ごしています。本書の意義はもうひとつ、重松の足跡をたどることで統治の現実の一端が見えてくることです。統治の施策として悪名高い「創始改名」。これに抗議して自殺する人がいる一方で積極的に改名した人もいます。重松の周辺では彼の薫陶を受けた二人の人が自ら進んで創始改名をしており、その受け止め方はさまざまだったことがわかります。そしてもうひとつ。重松はその抜群の知名度から戦時中、請われて「国民総力朝鮮聯盟」の実践部長となり、朝鮮の人々の徴用、徴兵にかかわることになります。重松は内地に徴用された労働者を慰問することもありましたが、その見聞録(『国民総力』昭和十九年八月十五日号)に記された彼らの暮らしぶりは、戦後にいわれ始めた「強制連行」の言葉から連想されるイメージとは大いに異なるものであることもわかります。
日本の朝鮮統治の歴史はときに政治問題に発展するためか冷静な評価を下しにくいところがあるようですが、本書の登場で、より公正な検証が進むことを念願してやみません。
終戦直後、聯盟実践部長の経歴から重松は牢獄に入れられます。しかしたまたま彼を取り調べた検事は、重松が与えた鶏で上級学校に進み、早稲田大学を卒業後、司法界に奉職していた「教え子」であり、彼のひそかな手配によって重松は混乱のなか、無事帰国することができました。『滝の白糸』思わせるこの奇跡的なエピソードを最後に付け加えておきます。
*著者の言葉
「私のところに東北の古い町から、B4判の紙一枚の裏表に書名と出版社、刊行年度だけが書かれた古本カタログが毎月送られてくる。そこに『朝鮮農村物語』という、なんの予備知識もなかった古本があって注文してみた。どこに興味を持ったかといえば、戦前に出た朝鮮関係の本ということだけだった。ちょうど『石原莞爾の時代』(芙蓉書房出版)を執筆している最中で、その傍らに読み始めたのだが、私は次第にその世界に引き込まれていった。
読み終わったとき、私は不思議な感動に包まれていた。日本の朝鮮統治時代に日本人と朝鮮人の間にこんなに麗しく感動的な出来事があったのかという事実に驚くと共に、主人公の重松髜修(まさなお)とは一体どういう人物なのだろうという探求心が沸々と起こってきた。
その調査の過程で、石原莞爾ともまんざら無関係ではないことが分り、私は『石原莞爾の時代』(48頁)にそのことを書き付けた。
石原の本の刊行後、私は猛然と重松探索に邁進した。『続朝鮮農村物語』という著書もあることが分り、国会図書館でじっくり2日かけて読んだ。そこにあるたった1行から拓殖大学の卒業生ということが分かった。私には拓大に勤める友人がいる。彼の協力を借りて、私は重松資料の探索に全精力を傾けた。そして戦後は故郷の愛媛県に帰っているらしいことも分った。
拓大卒業生の団体の学友会を通して遺族を調べてもらった。学友会は愛媛県支部長の連絡先を教えてくれた。支部長は松山市議会議員の土井田学氏であったことは幸いしたと思う。個人情報保護法の時代である。土井田氏のおかげで、『朝鮮農村物語』に出てくる愛らしい娘さんがご存命で、愛媛県の松山市に住んでいることが分った。
松山に行って土井田氏に会うと、偶然のことに、重松髜修の孫に当たる邦昭さんとは高校の同窓生であった。
娘さんの晃子さんと松山の自宅で会い、色々の思い出話を聞いているときに、『朝鮮農村物語』には全く出てこない話がなにげなく出てきた。朝鮮農民に感謝され、頌徳碑が建てられていたというのだ。まるで台湾の八田與一ではないか!
八田與一とは、日本統治下の台湾で烏山頭ダムを作り、荒涼たる大地だった嘉南平野を穀倉地帯にして、農民から感謝され、銅像を建てられた日本人技師である。
自伝というべき『朝鮮農村物語』にこの頌徳碑の話が出てこないのは、重松髜修という人の奥ゆかしさであろう。
ただ朝鮮から日本に引揚げてくるときに荷物があらかた失われた晃子さんには、証明となる写真もなく、建てられていたはずの平安南道江東郡は現在の北朝鮮にあり、私には行く手だてもない。
しかし帰京する新幹線の中で私はふと思った。重松氏が関係していた金融組合の機関紙を探せば、その手がかりがあるかもしれないと。国会図書館その他での必死の探索の結果、『金融組合』誌の口絵に、頌徳碑の記念写真を見つけたときには、宝物を探し当てた思いで有頂天となった。
そして是非ともこの人物の伝記を書き上げなければいけないと思った。日本の朝鮮統治の真実の一端が重松髜修の人生にあると思ったからであり、この写真はその歴然たる証拠となるからだ。まさに重松髜修は朝鮮における八田與一なのである。
その思いで、私はこの伝記を書き上げた。朝鮮統治史において戦後は忘れられていた重松髜修という人物を、我々日本人は歴史に残さなければいけない。記憶にとどめておかなければならない。それは我々の義務ではないだろうか。
重松は日本の朝鮮統治35年のうち、31年を当地で暮らしている。おまけに、有名な3・1独立運動で暴徒に拳銃で右足を撃たれて死にかけ、一生を不具の身となった体験を持っている。つまり朝鮮人の憎悪のこもった銃弾を受け止めた身で、貧しく報われない朝鮮農民の中に入っていき、その暮らしを豊かにし、感謝されて頌徳碑を建てられたのである。
いわば彼は朝鮮人の憎悪を大いなる愛へと昇華させた奇跡の人物なのである。朝鮮統治も昭和の時代になると「内鮮融和」から「内鮮一体」というスローガンが謳われるが、ある意味で、重松という人物はその象徴的存在だったのだろう。
彼は貧しい小作農民を医師にもしている。彼の持つ潜在力を引き出したのである。そういったことから彼は朝鮮中で名を知られていく。遂には戦時中には朝鮮人の戦争への協力を促すために朝鮮聯盟の実践部長になる。その経歴が戦後は問題とされて牢獄に入れられてしまう。しかし彼を逃がそうとする検事がいた。重松のおかげで早稲田大学に進めた人物である。彼は重松をひそかに日本に逃がすのである。」
<昭和11年(1936年)4月5日朝鮮農民の手により、重松髜修の頌徳碑が建立される。平安南道江東群江東面芝里にて。碑文は「江東金融組合 理事 重松髜修記念碑」。>
本年は日韓併合からちょうど100年になる。いろんな形で、これを論じる人々があふれるだろう。しかし、朝鮮人から聖者のように尊敬されていた日本人がいたことを、我々日本人も、韓国人も忘れてはならない。両国関係には、「かつて不幸な時期があった」とよく言われる。しかし、日本統治の35年間には、双方の「感動的な関係があった」、そのことを重松髜修の人生は雄弁に語っているのである。重松髜修の伝記はそれを日韓双方の人々に知らしめる意義があると私は信じている。」
<田中秀雄プロフィール>
1952年生まれ。日本近現代史研究家、映画評論家。東亜連盟の流れをくむ石原莞爾平和思想研究会をはじめ、台湾研究フォーラム、日韓教育文化協議会、軍事史学会、戦略研究学会等の会員、福岡県出身。慶應義塾文学部を卒業。
主な著作:『映画に見る東アジアの近代』(芙蓉書房出版、2002年9月)、『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』(芙蓉書房出版、2008年6月)、『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(芙蓉書房出版、2008年6月)、『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(草思社、2010年2月)。
ところで今でも、多くの日本人が経済利益とは関係ないところで、世界の人々のために献身的な努力を続けている。三年前にエボラ出血熱やSARSの現場でも活躍する感染症のスペシャリストである進藤奈邦子さんという女性医師のことを紹介する良い番組があった。多くの日本人は知らないが、WHOのような国際機関は、日本人と日本が提供するお金がなかったら、実際には動かないと言ってもよい状況のようである。
日本という不思議の国で、韓流ドラマがこれほど放送されるのも、ホリエモンが持て囃されたのも、ソフトバンクの孫 正義氏がよくマスコミに取り上げられるのも、フランスのル・モンドに指摘されるまで、NHKが官邸前の原発反対デモを放送しなかったのも、当たり前だが、すべて意図的なものである。
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