一昨年のあまりに不可思議な衆議院解散劇から「アベノミックス」という言葉が一人歩きをし、日本の株価を押し上げ、(日経平均を8,000円台から16,000台へ)為替は大幅に円安になった。(1ドル80円から105円台に)そして、その間にアミテージやジョセフ・ナイという人たちを中心とするジャパンハンドラーが提示する政策が、矢継ぎ早に日本国内で現実化されようとしている。彼らが日本政府に提示しているのは、集団安全保障(憲法改正を含む)、原発再稼働、TPP参加、機密保全法の制定等である。

たしかに昨年一年で、日本の様相は、がらりと変わったように見える。

それでは、2014年は、どういう年になるのだろうか。



おそらく、下記の五つの問いに理路整然と答えることのできる人は、2014年がどういう年になるか、よく見えている人ではないか。



(1)この一年、なぜ、日本の株価は上がり、為替は大幅に円安になったのか?



(2)世界の中央銀行(欧米、日本を中心とする)は、これほどまでの金融緩和を現在までなぜ、継続しているのか?



(3)グローバリズムの進展は、多国籍化した企業の納税を劇的に減少させた。その結果、先進国の政府は国債発行による膨大な財政赤字を抱えるようになっている。その動きを、フリードマンを代表する新自由主義者たちを使って1970年代以降、つくりだしたのが、国際金融資本のグローバルエリートである。彼らは、これからどのように帳尻を合わせるつもりなのか?



(4)昨年9月に、2020年のオリンピック開催地を放射線汚染が懸念される東京に国際金融資本のグローバルエリートは、敢えて決めたのはなぜなのか?



(5)そもそもBIS(国際決済銀行)を中核とする20世紀に構築されたグローバル金融の日本メンバーは誰なのか?





それでは、小生なりの現在の考えを書いていこう。



(1)一言で言えば、日銀が異次元金融緩和をやると宣言し、実際にそれを行ったからである。しかしながら、プラザ合意以降、このような大胆な金融緩和、為替介入を日本政府は、日本経済が、本当にそれが必要な時に行ってこなかったことも事実である。であるならば、現実には、宗主国である米国の許可があったと見るべきであろう。ということは、昨年末に衆議院が解散され、自民党が政権を取ることは既定路線であり一昨年末には決まっていたと考えてもよいのではないだろうか。だから、インサイダーであるジョージソロスは、円の為替相場で、1,000億円も儲けることができたのであろう。

そして、ソロスが大スポンサーのNPOプロジェクトシンジケートに安倍氏が総理になる前の11月に安全保障政策を発表しているのもわかりやすい構図である。ということは、今回の株価上昇は、外国人と日本政府による「官製バブル」だということになる。その証拠に、日本株を買っているのは、外国人と、日本の年金資金ぐらいで、日本の個人投資家は大幅に売り越している統計からもそれが推測できる。



(2)グローバリズムの進展は、法人税を劇的に安くした。その結果、国民国家を維持するために、国債発行に依存するしか、現在、歳入を確保する道がなくなってしまっている。たしかに民間金融機関が国債を消化できるうちは、よかったが、リーマンショック等の金融危機により、現在、中央銀行が国債を直受けするしか、方法がなくなりつつある。つまり、行政サービスを続けるためには、現在の政府は、通貨発行権の乱用をしているということだ。



(3)ということは、早晩、<なし崩し的デフォルト>を行うしか、方法がないことは、明らかである。今までは、その方法は、インフレと戦争であった。おそらく、現在、国際金融資本のエリートは、日本バブルを演出し、日本がどのような方策で膨大な財政赤字を処理するのか、観察、実験しようとしている。



(4)日本バブルで取りあえず、資金運用しようとしている彼らは、日本の金融の根幹である首都圏の不動産価格の下落要因である放射能汚染の問題を取りあえず封印する道を選択するしかなかった。そのためには、東京を選ぶしかなかったということであろう。ということは、今回の日本バブルの展開次第では、2020年の東京オリンピックは「幻のオリンピック」になる可能性もあるということを意味している。



(5)1930年BIS(国際決済銀行)が創設されたときの個人の最大の出資者は、昭和天皇だと言われている。であるならば、日本におけるグローバル金融の代表者は実は、天皇家だということになるはずだ。天皇家の財産については、憲法上の規定があり、国民=国家に属することになっているが、実際のところは、ブラックボックスになっていてほとんど資料を見ることができない。





以上が五つの問いに対する簡単な小生の答えである。





ところで、昨年の年初のレポートで分析したとおり(中央銀行である日銀が資産インフレにすると宣言したのだから、当たり前の話だが、)の株高、円安になったわけだが、昨年一年間の政治経済レポートで一番興味深かったのは、元外交官の原田武夫氏のものであった。では、その彼は、2014年について、どのように言っているのだろうか。

「綜合文化人の時代」がくると原田氏は指摘している。彼が「綜合文化人」と呼ぶ人たちが、今年は、本当に表舞台に出てくるのだろうか?注目すべきであろう。

*以下編集引用

パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言



2014年、「日本バブル」の中で”パックス・ジャポニカ”への道が始まる



2014年はバブルの年である。「世界的に株高となる」といったレヴェルの話ではない。最初は消極的な選択肢としてではあるものの、わが国だけが突出した株式・不動産バブルに恵まれることになり、やがて歴史的な資産バブルに突入していることを誰もが認めることになる。すなわち歴史的な現象としての「日本バブル」が本格的に始まるというわけなのである。



わが国の株価が早晩、平均株価ベースで20000円を目指す展開になるのは目に見えている。



このような「日本バブル」の始まりを支えているのはいわゆる「外国人」だ。一方、わが国の、とりわけ「個人」はどうなのかというと、昨年の東証大納会の段階(12月30日)であっても、依然として日本株を大量に売り続けていた。これら2つのことは今、わが国を巡って2つの重要な事実が浮上していることを如実に物語っている。

「外国人」たちが日本買いを猛烈に続けているということはイコール、「わが国に期待している」ということである。米欧を中心として、特に第二次産業革命以降、約150年近くにわたって続けられてきた金融資本主義の歩みは明らかに行き詰まっている。全く新しいゲームのルールへの転換が求められており、米欧はそこでもゲームの胴元になろうと必死だ。しかしそうした目論見は明らかにうまくいっていない。



米欧が創り上げてきた金融資本主義は、「気候が地球全体で暖かくなり、人類の免疫力が総じて向上し、”元気”になること」を前提としており、だからこそ「通貨を刷り増し、これを拡散させることでインフレへと誘導する」、さらには「それによってバブルが発生し、やがてバブルが崩壊したらば需給ギャップを埋めるためにどこかで戦争を引き起こし、軍需という需要を高めることでリセットする」ことを繰り返してきた。ところが自然科学者たちだけではなく、私たちが広く気付き始めているように、大前提である「気候」が明らかに狂い始めているのである。米欧のエリートたちはこのことを熟知しているだけに焦りに焦っているが、もはや、いかんとも、しがたいのが現状だ。



そのため、彼らは「全く新しいゲームのルールを示すのではないか」と徐々にわが国を注目し始めている。2020年に夏季オリンピックが東京で開催するよう決定したのは明らかにそのせいである。それ以外にも数多くの場面で「JAPAN」「ニッポン」が選ばれることが多いのは、行きづまりを見せた米欧の金融資本主義の次に出て来る「勝ち馬」に乗ろうという米欧のエリートたちの意向によるものなのである。決して私たち日本人の努力によるものではない。 ただし、いずれにせよわが国はそうしたわけで新しいゲームのルールを示すチャンスを、今後少なくとも2年余りは続くことになる「日本バブル」の間だけ得ることになる。つまりそれを通じて「パックス・ジャポニカ」=わが国が示すルールによって世界秩序が新たに整えられていくことを実現できるというわけなのだ。もっともエリート層を除けば米欧においては、実のところ未だに「日本蔑視」が渦巻いている。「平成バブル不況を20年も続けてきた国に何が出来るというのか」あるいは「日本は結局、米欧のゲームのルールになじめないはぐれ者」というわけだ。



「近代の超克」とは何だったのか? 1940年東京夏季オリンピックという幻影



かつてわが国がこうした自覚、すなわち「文明論的な自覚」をもって何をなすべきなのか、真剣に考えた時代があった。時は1940年代前半、いわゆる「近代の超克」という議論である。戦後になって竹内好がいわゆる京都学派を中心に行われたこうした取り組みを批判的に総括してしまったため、この議論は「太平洋戦争を正当化するために行われた当時の文化人たちによる時局迎合の議論」といった形で語られるか、あるいはそもそも意味のないものとして忘れ去られてしまっている。

しかし当時の議論を仔細に振り返れば分かるとおり、議論に参加する者たちのベースにあったのは、今と同じか、あるいはそれ以上に鮮明であった「米欧の文明がもはや限界に来ている」という認識であった。「共に文明の主であり、兄弟であったはずの米欧諸国が違いに総力戦で死闘を繰り広げる」という前代未聞の出来事が起きた第一次世界大戦。その後「西洋の没落」を著したオスヴァルト・シュペングラーに代表されるように、そのことは米欧のエリートたちにとって余りにも衝撃的な出来事なのであった。しかも第一次大戦後、結局は1920年代末から米欧は世界大恐慌の渦へと巻き込まれることになる。わが国もこれに当然巻き込まれるが、いくつかの幸運が不思議と重なり、1930年代は「相対的に」米欧よりも景気の良い自体が続いたのである。幻となった「1940年東京夏季オリンピック」が決定されたのも正にそうした流れを背景にしてのことであった。「今こそ、米欧はわが国がリードする形での世界秩序の再編を望んでいる」わが国の知識人たちがそう力み、論じたのが「近代の超克」だったというわけなのだ。



「シラける」国民と安倍晋三政権の目論見、そして「見えている挫折」



そして時代は下って今年=2014年。「わが国が米欧との比較で相対的に優位である」という状況が再び訪れている。夏季オリンピックの東京開催決定の例を引くまでもなく、明らかに「あの時」と「今」とは極めて似通っているのだが、一つだけ決定的に違うことがある。それは他でもない、私たち日本人自身の意識があまりにも打ちひしがれ、自信喪失に陥っているということである。もっと言えば、70年前にはすることの出来た「近代の超克」といった国際社会のグランド・デザインに関する議論を行おうという向きが日本社会のどこを見てもいないという、悲劇的な状況に陥っているのだ。

そうした時代情況を露骨に物語っているのが、日本株マーケットにおける「個人」が主体となった怒涛の「日本売り」という現実である。民主主義というシステムで他ならぬ「国民」によって選ばれたはずの安倍晋三総理大臣が「アベノミクスは2014年も買いだ」と叫ぶが、実は他ならぬその個人としての「国民」こそが、アベノミクスを売り崩すのに躍起になっているというわけなのだ。政府が日銀を押し切る形で「異次元緩和」を強行させ、円安とインフレを誘導し始めたのは良いが、肝心の「国民マインド」が全く冷え切ったままだというわけなのだ。

わが国の政・官・財界の要人たちはその様子を直接・間接的に見聞きする範囲において、こうした「国民マインド」は最終的に押し切れると考えている節がある。

「株価を公的・準公的ファンドによって押し上げれば、国民は結局のところ『バブルだ』と舞い上がり、有頂天になって言うことを聞くはず」というわけだ。10月以降の日本株マーケットを見ていると明らかにわが国の金融セクターの最大手たちはこうした暗黙の了解に基づき、一つ一つ地歩を固めてきていることが分かる。無論、その背景に安倍晋三政権とそれを支える財政金融当局の深謀遠慮があることは言うまでもない。



昨年末の12月26日午前に突然行われた「安倍晋三総理大臣による靖国神社参拝」もこうした認識をベースにしていたことが明らかだ。確かにこれによって同総理大臣のフェイスブックでは「いいね!」が一時的に殺到して押され、人心掌握という意味ではそれなりに効果があったことが明らかとなった。

しかし、このまま万事うまくいくと仮にわが国の政・官・財界の要人たちが考えているとするならば、全くもって誤りなのである。なぜか。その理由を挙げるならばこうなる:



●「2015年に公的債務の残高が対GDP比で270パーセントにも到達するため、極端なインフレ誘導によって事実上のデフォルト(国家債務不履行)処理をなし崩し的に行いたい」という戦略の一環で行われているのが、度重なる増税論議も含めたアベノミクスの実態だ。日本株・不動産の高騰に向けた誘導もその一つなのであるが、「平成バブル」の熱狂と「平成バブル不況」の深刻さを体験したばかりの「個人」としての国民は明らかに「何があっても動かない」という消極的だが、非常に強力な戦略を暗黙裡に取り続けている



●正に「笛吹けど踊らず」という状況の中、動かぬ「個人」としての国民を掌握しようと安倍晋三総理大臣がやおら動かし始めているのが愛国主義的な傾向だ。「異次元緩和」によって円安に持ち込まれ、自国通貨高へと誘導された我が国の近隣諸国の対日感情が悪化する中、「靖国参拝」を強行し、これら近隣諸国の側において火がつけられ始めている。安倍晋三政権はこれを今度は国内的に利用し、「わが国は狙われているのだ」と対外的な脅威への恐怖感を煽り、徐々に官民の軍事セクターにおけるフリー・ハンドを確保し始めている。こうした風潮に流されている向きはいるものの、第二次世界大戦の「敗戦」を経験した世代が未だ声を発していることもあり、「個人」としての国民が完全に迎合するには至っていない



●「個人」としての国民の側におけるこのような”シラけ”を下支えしているのが「グローバル化」と「インターネット化」、もっといえば「フラット化」である。国家の側が「増税する」と力んでも、我が国の富裕層がその気になれば様々な手段でグローバルにその富を移転することが可能だ。また、マスメディアを通じて大衆扇動をすれば事足りた時代は「小泉構造改革」で終わったのであって、インターネット化が進みしかもそれがソーシャル・メディアとスマートフォンによって「個人」にまで到達した現在、大衆扇動は不可能ではないがかなり手間暇のかかる仕事となっている。さらに事態を厄介にしているのは「グローバル化」「インターネット化」「フラット化」といった現象を推し進めているのは米欧なのであり、これをわが国の政府当局が押しとどめることは不可能だということだ。そのため、安倍晋三総理大臣が何をしようとも、それに対する「反作用」がネットの世界では同じか、あるいはそれ以上のレヴェルで瞬時に生じ、身動きが取れなくなってしまうというわけなのだ



本当に必要な「イノヴェーション」は誰がどのように起こすのか



本年、安倍晋三政権は文字どおりの力技で「日本バブル」を推し進めていくことになる。バブルが富裕層を中心に日本人の心を多少は溶かすことになるのは事実だ。だが、そのような小手先の手段で冷え切った国民マインドが完全に温まるのかというと、全くそうではない。むしろ「バブルの熱狂」は「バブル崩壊に対する恐怖」を呼び、ある意味、国民マインドは何があっても動かない”絶対零度”に向かって突き進んでいくことになるのだ。

一方、自らは150年余りにわたるインフレ誘導に対する反動で強烈なデフレ縮小化へと落ち込んでいくことになる米欧からわが国に対して注がれる視線はますます熱いものになっていく。袋小路に陥った米欧は明らかに、これまで「金融資本主義というルールの蚊帳の外にいたからこそ、別のルールを創り出し、あるいは知っているかもしれない日本」に期待をかけ始めるのである。ところが、対する安倍晋三政権率いる日本はというと変わらずにクールなのである。何のことはない、「おもてなし」「クール・ジャパン」と言ってみたところで、肝心の国内で国民マインドが現状に対して諦め、未来に対して期待が日に日に薄くなり、虚無主義(ニヒリズム)に陥っているのだから致し方ないのだ。そこに輪をかけるようにある種の人智を超えた天変地異(「南海トラフ大地震」「太陽嵐」など)が生じてしまったらば目も当てられない状況になる。



今、わが国が抱えている問題はその意味で、たった一つだけなのだ。それは20年もの間続いた「平成バブル不況」の中で冷え切り、完全に相互不信と未来への絶望へと陥った国民マインドを温め、「熱い国・ニッポン」を取り戻すことである。そしてそれを実現するためには、従来のシステムでは不可能であり、社会のありとあらゆる部分が分断され、蛸壺の中で息をひそめているような状況を払拭するような、大胆な試みとしての「イノヴェーション」が必要とされているのだ。―――それではこうした「イノヴェーション」は一体どのようにして、誰が推し進めるべきものなのであろうか。



今、日本に必要なのは「未来に向けて気づく力」である



いよいよ未曽有の資産バブル(「日本バブル」)の本格化させていくが、国民マインドが冷え切っているため、このままでは2年程度で失速してしまう危険性があることを指摘した。そして我が国の政治で最大の課題は個別のイシューを云々することではなく、他ならぬこの冷え切った国民マインドをどのように温めていくのかであると述べた。



わが国の国民マインドがなぜここまで冷え切っているのかといえば、過去20年余りも続いてきた「平成バブル不況」の中で「何をやっても意味がない」と悟ってしまったからである。1990年初頭に「平成バブル」が大蔵省(当時)の手によって急ブレーキをかけられてしまった直後は「それでもしばらくすれば株価は復活するだろう」という甘い見方が一般的であった。だが、1990年代半ばになるともはや事態はそれどころではないことが明らかになる。そしていよいよアジア通貨経済危機が1990年代後半に訪れ、「もはや何をしても報われない世の中がやってきた」と私たち日本人は各々の生活レヴェルで実感するに至ったのだ。

「何をしても報われない」以上、「未来に向けて壮大な夢を描き、突き抜けることを目指して行動すること」は最も愚かな行為ということになってくる。無論、それでも未来は必ずやって来るわけであり、そこで確実にブレイクするものを計画し、実行することが出来るのであれば話は全く別ではある。しかし私たち日本人はその様に「未来に向けて気づく力」を意識的に学ぶことがなく、また広く教育システムの中にそのための要素が盛り込まれていないため、未来といえばただひたすら不安を抱くだけになっている。そう、国民マインドが冷え切っていることの裏側には「未来に向けて気づく力」が養われてこなかったという我が国における現実が大きく横たわっているというわけなのだ。



「未来に向けて気づく力」を研ぎ澄ますには?



「来年もアベノミクスは買い」と言われても徹底して日本株を売り続けるわが国の「個人」の冷え切った国民マインドを溶かすため、やるべきことはただ一つである。それはそれ自体が一つのシステムであるこの「日本」という国において、国民全体が持っている「未来に向けて気づく力」を今一度向上させることである。「限定的合理性だから仕方がない」などとあきらめるのではなく、まずはこうした基本に立ち返って考えることが必要になってくるのである。



それでは「未来に向けて気づく力」を養い、研ぎ澄ますには一体どうすれば良いのだろうか。そのための段取りはこうなる:



●私たち人間は「過去」に生じたことしか知り得ない。しかし、重要なことはその「過去」であっても知らないことが山ほどあるということなのだ。過去に一体何が生じたのか、「過去」から「現在」に至る因果関係はどのようなものであったのか、それらの「真実」を知ることがまず大切である。そしてそれを通じて「ある外部環境が整う時、その結果としてこのような動きになる」という歴史法則や因果律が頭の中に刷り込まれてくるのである



●こうした下準備をすることによって初めて、私たちは目の前に出くわした「情報」「ヒト」「出来事」が持つ意味を悟ることが出来る。これらの出会いは余りにも偶然なわけであるが、私たちがそれらを目の前にした時、ある”意味”を悟るという観点からいうと必然である(シンクロニシティ)。そしてここで悟ることの出来る”意味”は常に「将来、こうなるのではないか」という「気付き」でもあるのだ。「気付き」の瞬間、私たちはある事態が生じる「未来」から「現在」に向けて因果関係を後ろ向きに振り返って(バックキャスティング)いる



●「気付き」を未来に向けて得た者はそれが好ましいことであるならばその実現に向けて、また忌むべきことであるならばそれを回避すべくリーダーシップを発揮しなければならない。もっとも「気付き」はそのままでは他人とシェアすることは出来ない。そのため、他人に理解してもらうべく論理的思考(ロジカル・シンキング)が不可欠になってくる。そしてそれを踏まえて目標を設定し、競争戦略を策定した上で自らも実行しつつ、他人を巻き込んでいくことがリーダーには求められていくのである。無論、自分と仲間たちがそのように進んでいった軌跡をも振り返り、正当に事後評価することも求められる。つまり「未来に向けた気付き」はリーダーシップに直結する



●こうしてリーダーシップが発揮された結果、生じるのが「革新(イノヴェーション)」なのである。イノヴェーションとは新しい現実であるが、天から降って来るものではない。あくまでも「未来に対する気付き」を得たリーダーが周囲を動かすことによって創り出す現実なのだ



大切なのは「本当の過去を学ぶこと」、そして「メディチ効果を巻き起こす場づくり」である



「未来に向けた気付き」を得ようと努力しないところにイノヴェーションは生じない。その典型が悲しいかな、わが国である。わが国が豊かさを享受しているベースを創り出しているモノづくり系企業が苦戦を重ねているのは、イノヴェーション無き製品を創り続け、安い労賃で猛烈にアタックしてくる新興国の製造業を相手に勝つ見込みの無いコモディティ化競争を続けているからだ。

いや、問題は何もわが国の製造業だけに限られた話ではない。政治も金融も、そして社会といった日本全体が全く同じトレンドに呑み込まれてしまっているのである。そのことはやれ「IT」だ、「スマホ」だと表面的な技術革新は語られているものの、わが国社会において生きている私たち日本人の生活が1990年代から根本において全くといって変わっていないことから明らかなのだ。ちなみに製造業に至っては、結果として「技術革新」などと言われてわが国で持てはやされていることは「計測と制御」、すなわち「既にある技術をいかに正確に測り、コントロールするか」という技術でしかないとまで言う専門家たちもいるくらいである。本当の意味でのブレイクスルーがそこで実現されているとはおよそ言えないのが現実なのだ。



それでは私たち日本人が失われた「未来に向けて気づく力」を取り戻すためには一体どうすれば良いのだろうか。早急に行うべきことは2つある:



●第一に「本当の過去」について徹底的に学ぶことである。そうはいっても何も「歴史教科書」の論争を行おうというのではない。大切なのは「1945815日」を境にわが国でこれまで起きてきたことについて正確に学ぶ必要があるのだ。1945年から1951年までの6年間にわたり、我が国は「GHQ」という名前の米軍によって占領され、統治された。この間にわが国社会のありとあらゆるシステムが改編され、現在に至っている。ところが大変奇妙なことに、私たち日本人は「一体どこが変えられ、現在に至っているのか」について学校で学ぶことが無いのである。それもそのはず、わが国のアカデミズムにおける「歴史学」はGHQによる”日本管理”の歴史を「歴史」とはあえてとらえないまま現在に至っているからだ。だが、1990年代に入り、事態は米国の側から大きく変化している。なぜならばメリーランド州にある米国国立公文書館に所蔵されていたGHQの大量の極秘文書がマイクロフィルムに撮影され、それらが、わが国の国立国会図書館に引き渡されているからだ。無論、知るべき過去は「このこと」だけではない。特に明治維新以前の東アジアにおける国際システムを、それを支える人脈ネットワーク、さらには明治維新後に移入された米欧流の金融資本主義のわが国における浸透過程について、一体何が起きてきたのかを学ぶ必要がある。なぜならば、わが国の「本当の立ち位置」を知り、そこに至るまでの因果関係を知らないままに「これから」について気づくことは到底、不可能だからである



●次に「気付き」は自らと異なるものに触れ合った時にだけ生じることを悟るべきである。「過去」をいくら学んだところで、部屋に閉じこもっていただけでは何も気づくことはない。無論、未来に向けた「意味」をもたらす書籍と図書館の中で出会ったり、あるいはインターネット上で「未来」を指し示してくれる人と出会うことはある。

しかし、最も効率が良いやり方は今も昔と変わらず生身の人と出会うことなのである。しかも自らとは全く違う立場にある人と出会い続けることによって私たち人間は絶えず刺激され、「意味」を悟り、「気付き」を得ることになる。破壊的イノヴェーション論で一躍有名となったクレイトン・クリステンセンも紹介しているとおり、スウェーデン生まれのフランス・ヨハンソンが提唱する「メディチ効果」、すなわち異なる人々が集い合うことによって新たな価値が大いに創造されていくような仕組みづくりがイノヴェーションには不可欠だ。しかしこうした仕組み・枠組みが我が国には存在しない。あるとしてもせいぜいのところ「自己啓発」や「婚活」のための散発的なサークルだけであり、本気でイノヴェーション(「革新」)を我が国社会で巻き起こそうというプラットフォームが存在しないのである



「わが国で何が本当の問題であるのかは分かった。そして何をしなければならないのかも分かった。しかし一体誰がそのためのイニシアティヴをとっていくべきなのか」―――次回はこの問題について答えを出していく。



イノヴェーションをもたらすのはもはや政府や公的機関ではない



歴史的な「日本バブル」がいよいよ本格化しつつも完全に冷え切ったままである国民マインドを再び温めるためには「未来に向けて気づく力」を私たち日本人が取り戻す必要があることを指摘した。そしてこれを実現するためには、様々に異質なものが出会い、互いに刺激することで新しい価値を生み出すという意味での「メディチ効果」を招く場所を新たに創り出していくことが必要であると説明した。「個人」は遅くとも今月半ばには大幅な日本株買いへとようやく転じ、「日本バブル」が文字どおり体感レヴェルで誰の目にも明らかになっていく。しかしその結果、あの「平成バブル」でおかした過ちを繰り返さないためにも、日本人は年頭にあたって今こそ立ち止まり、しっかりと考えていく必要があるのだ。



「これだけ高い税金を支払っているのだから、そうした”場”は政府や公的機関が創るべきなのではないか」

そんな声がここで聞こえてきそうだ。だが、残念ながら我が国の政府や公的機関に状況の変化に機敏に対応することは望めないのが現実だ。

なぜならば米欧が中心となり、これまで世界秩序として推し進められてきた「金融資本主義化」「グローバル化」「フラット化」は、従来型の国民国家とそれの機関である政府・議会・官僚制と全くもって逆行する動きだからである。そしてこれらの動きが一歩前に進む度に「規制」という形で政府や公的機関は対応するのが関の山なのである。



特にわが国の場合、1970年代までの高度経済成長期において国外から輸出という形でもぎ取ってきた大量の富を蓄えており、これを再分配して食いつないできている。そして様々な理由をつけてはこれを再分配しているのがわが国政府の役割であり、その政府を選ぶのが国会(議会)の唯一と言っても良いほどの仕事になっているのだ。「再分配」とは「現在富を持っている者から合法的にこれを奪い去り、持たざる者にタダで与えること」を意味している。一連の増税論議が正にその典型なのであるが、現行の政治システムにおける国会議員たちは、そうした強権的な措置を正当化するための「単なる数合わせマシーン」と化してしまっている。そうした彼ら・彼女らにイノヴェーションのための真に創造的な”場”づくりを求めるのが土台無理な話なのである。



無意味化した「戦後知識人」と「マスコミ文化人」



そうである以上、やはり「メディチ効果」をもたらし、イノヴェーションをわが国社会において実現するための”場”を創るのは、民間セクターの仕事ということになってくる。それはより自由な立場から行われるべきであり、まずは意識が高く、使命感のある個人が手を挙げ、これにそれぞれのセクターをトップ・レヴェルにて率いながらも、その役割だけに飽き足りず、志を均しくする個人たちが糾合するという「運動体」であるべきなのだ。ところがこのように考えれば考えるほど、はたと悩んでしまわざるを得ないのである。なぜならば、このように最初に「言葉の狼煙(のろし)」を上げ、一つの運動体が出来上がるように仕向けるのが「言論人」であり「文化人」の役割なのであるが、現代のわが国にはこの役割を果たしている者が皆無だからである。



わが国の「言論人」「文化人」について第二次世界大戦後の流れをざっくりと書いてみるとこうなる:



●まず”敗戦”直後から「戦後知識人」なる一群が現れた。丸山眞男や南原繁、そして鶴見俊輔らがその典型だ。彼らの行ったことは、要するに「戦争を始めてしまってごめんなさい」と我が国を一億総懺悔へと導くことだった。そこに見られたのは戦前日本の全否定であり、新たに戦後秩序を創るべくGHQという名前で進駐してきた米国を絶えず意識した上での発言であった。時に「学生運動」や「ヴェトナム反戦運動」などが起きたが、これらは結局のところそうした「海の向こうから与えられた秩序」に対する適応過程の一部にすぎなかったのである。そしてそこに置いていわばカタリュザトア(脱硫装置)として働いていたのがこれら「戦後知識人」だったのである



●これに対して1980年代後半から突如として浮上し始めたのが「マスコミ文化人」たちである。田原総一朗や櫻井よしこ、宮崎哲弥、そして新しい例としては佐藤優や池上彰がその典型である。彼ら・彼女らには4つの共通の特徴が見られる。一つはこれら「マスコミ文化人」たちはその言論の内容というよりも、企業としてのマスメディアの圧倒的なマーケティング能力によっていずれも登場しているという点である(たとえば「テレビ」=田原総一朗・櫻井よしこ・池上彰、「出版」=佐藤優)。二番目としては、そのため一見したところ政府当局や米国に対して批判的なように見えなくもないが、その実、うまく立ち回っているということである(その意味で政府当局や米国といった「枠組みを与えてくれる存在」を前提とした議論しか彼ら・彼女らはしない)。もっといえば「定見」があるようでいて、実は無い。そして3つ目として「マスコミ文化人」たちはマスコミからその都度与えられる枠内であっても受け手の側に印象に残るよう、時に暴力的な言葉を平気で吐く、という点である。最後に4番目として、いずれも「金融資本主義化」「グローバル化」「フラット化」という国際社会の現実とは実に縁遠い発言を繰り返しているという点も指摘しておかなければならない(「株価」の話など持ち出そうものならば、「そんな不潔な話をするな」とでも言わんばかりの反応を見せる。しかし我が国は資本主義国であることを忘れてはならない)。



わが国においてこれまで見られたこれら二つのタイプの言論人・文化人は、2014年を迎えた今、もはや存在意義を全く失ったというべきである。

いよいよ本格化する「日本バブル」の向こうに待っているのは単なる景気低迷ではなく、「デフォルト(国家債務不履行)処理を事実上行うことを通じ、日本という国家そのものが存亡の危機に立たされること」に他ならないからである。

つまり「戦後知識人」や「マスコミ文化人」たちが大前提としていた枠組みそのものが消えてなくなってしまう危険性があるということなのだ。その時、彼ら・彼女らは必死になって”論じる”のは間違いない。だが、その議論はどうにもこうにも納得がいかないものになるのだ。なぜならば事そこに及んだ時、私たち日本人が求めるのが「新しい枠組みの創造」であるのに対し、「戦後知識人」(の生き残り)や「マスコミ文化人」たちは相も変わらず「誰がこんな日本にしたのか?安倍晋三総理大臣か?財務省か?民主党か?あるいは米国か?」といった調子でこれまでと同じく「枠組みは誰かに創ってもらいながら、それを与えてくれた絶対的な存在に対して乱暴な言葉でたてつくふりをする」ことに終始するからである。



「デフォルト(国家債務不履行)処理を事実上行うこと」とは、要するに戦後日本がこれまで貯めこんで来た富がいよいよ胡散霧消させられてしまうことを意味する。

本来ならば「国民福祉税」という形で1990年代初頭に手を打ち始めていればよかったものの、正にこれをブロックしたのが当時のわが国のマスコミであり、「未来について気づく力」を失っていた私たち日本人はこれに拍手喝采したのである。そしてその前に「平成バブル」ですっかり使い込んだのも他ならぬ私たち日本人なのだ。そのツケは余りにも莫大なものであり、最初は「誰のせいだ」「彼のせいだ」と例によって「マスコミ文化人」たちが騒ぎ立てるに違いないが、やがてそのレヴェルで済む問題ではないことが誰の目にも明らかになるのだ。







新時代に求められる「綜合文化人」とは?



だが、日本語では実にうまく言ったものであり「災い転じて福と為す」と古から云う。早ければ2年後には事実上始められるはずのわが国における「デフォルト(国家債務不履行)処理」と同時に、私たち日本人が持っている長所を掻き出し、これを今後ますますデフレ縮小化に苦しみ始める国際社会に対して打ち出していくこと(=わが国固有のルールによる世界秩序の再編、「パックス・ジャポニカ」の実現)、それと同時に我が国社会に溜りに溜った澱を吐き出させることで、我が国の未来は明るく輝いたものになることが未だ可能なのである。



そしてこれを可能にするための”場”づくりを行うことこそ、2014年から生まれるべき言論人・文化人に求められる役割なのだ。こうして新たに生まれ出づる言論人・文化人に求められる能力・態度は次のとおりである:



●「イノヴェーション」「ゼロから創造」「そのための社会統合(インテグレーション)」を行うのが自らの役割であると最初から決意していること。誰かから与えられた枠組みを批判的に云々するのが役割ではなく、救国のための「新たな価値・枠組みの創造」が自らに課せられた使命であることを知っていること



●米欧が主導してきた秩序が行き着いた先である「金融資本主義化」「グローバル化」「フラット化」のいずれについても、その構造的な問題点を熟知しているのみならず、「その次」に向けた具体的な提案力・構想力を持ち合わせていること。もはや「誰かのせいにする」という態度は許されないと腹をくくっていること。他人に責任をなすりつけるという意味での「他責」ではなく、あくまでも全てを最後に負うという「自責」へと常に立ち返るための修練を日々行っているという意味で「経営者」としての経験があることが望ましい



●問題意識と志を均しくし、同時にわが国に真の刷新をもたらす動きの最先端にあってこれをリードしている仲間たちを糾合し、もってイノヴェーションをもたらす「メディチ効果」を発揮するための”場”づくりを行うためのリーダーシップをとることが出来ること。そこでは各人が持ち寄る能力に対して「いいね!」と率直に語り、互いに高め合うのが基本となる。これは、マスコミの番組に”場”をもらってそこに相手を誘い込み、テレビ・カメラの前で完膚なきまであげつらうといった「マスコミ文化人」の行動パターンと真逆の行為である



●「事実上のデフォルト(国家債務不履行)処理」を行うまでに追い詰められた我が国に、再び富をもたらし、同時にそのことを通じて国際社会に対し、”インフレ拡大経済”という意味でのこれまでの金融資本主義の「次」となる範を示すため、わが国の持つ次の長所について深い造詣を持ち、専門家たちと議論することが可能であること:



―世界有数の技術力



―争いではなく、あくまでも「平和」を根本とする社会の在り方



―自然の破壊ではなく、それとの調和を基本とする文化(「●●道」と呼ばれるものの根幹にあるもの)

―「対称性」「造作」を前提とする米欧の芸術に対し、「非対称性」「自然(じねん)」を基本とする我が国の芸術



―これらを可能とする日本人に特有の右脳優位の脳システム(及びこれを持ち合わせない米欧に対して与える右脳優位の「人工知能」)



このような意味で、2014年を迎えたわが国がこれからに向けて必要としているのは、日本が持ち合わせている「長所」を綜合的に知っており、かつこれを高めることで未曽有の危機を乗り越えるための”場”づくりをすることの出来る文化人である。



こうした存在、そう、これまで戦後日本には存在してこなかった者たちのことを「綜合文化人」と呼ぶことをこの場で提唱したい。もはや再分配のためのマシーンと化した政府や公的機関、あるいは相も変わらずの不毛な批判ばかりを商業主義に則って吐きつつ、マスコミ上における自らの優越的な地位をあくまでも守ろうとする「マスコミ文化人」たちではない。こうした「綜合文化人」こそが、民間セクターの場にあってわが国全体でイノベーションをもたらし、ひいては人類社会の在り方に大きな変革をもたらす役割を担い始めるべきなのである。



まずは「フクイチ」から始まる



同じくわが国では古より「隗より始めよ」という。何事もまずは自分から始めよ、という意味である。「綜合文化人」への脱皮を宣言するにあたり、私自身、次の問いへの答えをまずは手始めに年初から示していくつもりである:



「『日本バブル』だといってもわが国に暗雲を垂れ込めさせ続けているのが福島第一原子力発電所から続く放射性物質の放出。その最大の難関であり、同時に従来の技術では解決不可能と考えられていた汚染水問題を、わが国で正に生まれ出する最新技術をもって処理するとどうなるのか」



「綜合文化人」としては地に足のついた答えを提示し、かつそれを現実にしていくための”場”づくりをしなければならない。2014年は激動の一年になりそうである。

(引用終わり)原田氏の全文は、こちら:http://bylines.news.yahoo.co.jp/haradatakeo/20140101-00031185/

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