「2011年を考える」
このことを副島隆彦氏は「中国バブル経済はアメリカに勝つ」(ビジネス社)という本で解説している。最も小生は、副島氏が指摘するように、中国がアメリカに変わって世界の覇権国になるとは思わない。今までのレポートでも申し上げたように世界は、多極化するのである。
ところで、中国は1842年のアヘン戦争から1949年の中華人民共和国の独立に至る107年間、半植民地状態と国内の分裂を経験し、さらに49年から71年の国連復帰までは、「米国による封じ込め政策」を経験し、またソビエトの社会主義圏からもスターリン批判等によって排除され、孤立させられていた。おそらく、このような苦難の歴史の経験から、中国はとても強いトラウマをもっていると想像できる。
こうしたトラウマが背景となり、現在の中国は被害妄想的とも言えるほど防衛的な意識が強く、それが外交政策にも強く反映していくと見るべきであろう。
その意味では、中国には、日本の一部のタカ派評論家が言うような米国からの覇権の奪取を目的とするような拡張的な意図はないと見るべきであるし、自国の国力を中国のエリートは、我々が思う以上に客観的に把握していると考えてよいのではないかと思われる。
中国外務省の実質的なトップであるダイ・ビングオ国務委員は「国益3原則」を発表している。それらは、(1)共産党政権の維持、(2)中国の統一性の維持、(3)経済的権益の確保の3つである。この3原則の範囲外の問題に関しては柔軟に対応するが、3原則が適応される領域では一切の妥協はせず、武力の使用も辞さないとしている。
黄海や東シナ海、そして南沙諸島や東沙諸島などは3原則の適用範囲とし、妥協はしないとしている。
そのために、中国は、このような原則を背景にして軍事力の増強と近代化を急ピッチで進めている。(もっとも中国の軍事費の増加要因に関しては、(1)の共産政権の維持のためのコストという側面も忘れてはならない。いわゆる7億人以上いると言われる農民の暴動を押さえていくためには過度に陸軍兵力の増強を図らなければならない宿命にある。)ロシアから購入した空母、「バリャーク」を乗員訓練用空母として導入したほか、米軍の空母機動部隊を撃退する性能をもつ最新鋭巡航ミサイル、そして第5世代のステルス戦闘機など多数の最新鋭兵器の導入を進めつつある。
中国が「国益三原則」を強く押し出すとき、やはり黄海や南シナ海、さらに南沙諸島や東沙諸島で緊張が高まることになるはずだ。
2011年は米国と中国によって世界が大きく変化する
2011年は、米国と中国によって世界が大きく変化する年になりそうである。その中で、中国と米国の覇権を巡る駆け引きが世界を動かしていく大きな要因になることは、間違いない。被害妄想的な気質の強い中国は、「国益三原則」を強硬に適用し、中国が自らのサバイバル圏として定めた地域でさまざまな矛盾・事件を引き起こして行くことになる。もちろん、そう言った方向に中国を誘導していくのが、米国の戦略である。
そう言った意味で、注意すべきは、中国以上に危険な方向に舵を取っていく可能性のある米国である。
ご存じのように、米国の覇権は、1980年代半ば以降、凋落傾向にあり、覇権が中国などの新興諸国にいずれ移行するはずだと言われて、すでに久しい時間が経過している。ともあれ、世界が米国の一極覇権構造から、多極化に向かっていることは、間違いないところである。
ところで、現在の米国は、バブル経済の救済策として実施した量的金融緩和も手伝って、ドルの価値は下落し、そのためドル建て資産の信用失墜から米国債の下落に歯止めがかからず、FRBが米国債の大量購入を行ってなんとか予算のやり繰りをつけているような状態に陥っている。ここは一つ、冷静に日本という国がなければ、米国は、すでに予算を組めない状況であることを、もう少し、多くの日本人が認識すべきだと思われる。すべては、そのための米国の対日政策なのである。当然、少しでも見識がある人なら、このような状態であるアメリカの覇権がこれからも長く続くはずはないと考えるのではないか。
現実にドル離れは急速に進んでおり、ロシアは中国向けのエネルギー供給で、ドルではなく決済通貨として元やルーブルを使用することにした。また中国は、マレーシアなど二国間で相互に国債を交換し、それをもとに自国の通貨を使って決済するシステムを拡大しようとしている。このような状況から、おそらく、基軸通貨としてドルが放棄されるのは時間の問題であり、それととももに米国の覇権も失われていくことになるはずだ。本年前半には、1ドル=70円台時代に入るのではないか。それに伴い金の価格が上がるのであろう。(もっとも米国は、一度、金価格の急落を仕掛けてくるだろうが、)
ところで、国際政治における覇権とは何を意味しているのか?
覇権とは、国際政治において頻繁に使われる言葉である。しかし、覇権とは、そもそも何を意味しているのだろうか?
まず覇権とは何を意味しているのかはっきりしておきたい。
簡単にいうと覇権とは、利益誘導や軍事的な脅しなどを通して、他の国々の同意を取り付けたり、隷属を強いるなどして、自国の望む国際秩序を実現する力のことを指す。したがって、米国の覇権という場合、アメリカが自ら望み、自国の国益を実現できる秩序を世界各地に構築できる能力をアメリカが保持していることを指している。
そうであるなら、米国の覇権の源泉は、どこにあるのだろうか。
アメリカの覇権は、今までは以下の四つの強力なパワーの源泉によって支えられていたと考えられよう。
(1)経済的な力
巨大な国内市場を世界に開放し、ドルを唯一の決済通貨として世界経済の秩序を編 成し、これを調整する経済的な力。アメリカに従わない国を世界経済から排除する ことができた。(第二次世界大戦の勝利によってこの事が可能になった。)
(2)民主主義の象徴としての力
長い間、アメリカは「民主主義」の象徴であった。自らの外交政策を民主主義の価 値によって制御し、フェアな外交を行うという象徴的な信頼感を作ることに成功し た。この信頼感=プロパガンダで多くの国々を納得させることができた。
(3)世界最大の軍事力
アメリカの軍事力は、中国とロシアを含めた主要先進国すべてを合わせた規模より も大きい。唯一、世界的な展開力を持つ軍事力を保有する。従わない国を軍事的に 脅し、アメリカの国益を受け入れるように強制することができた。
(4)情報力
インターネットや軍事衛星等を使った情報収集力、及びそれらを活用できる世界 一の諜報機関を持っている。
これまで米国は、この四つの力で他の国々を圧倒し、世界のさまざまな地域をコントロール下に置いた。そうすることで、アメリカの国益に合致した世界秩序を実現することができたのである。
そして、これら四つの中でも突出していたのは、やはり(1)の世界経済を編成する力である。その意味ではアメリカは、世界経済を編成する資本の力として覇権を維持していたといってもよい。これこそアメリカの覇権の特徴であった。
しかし、これらの力は長く持続することはできなかった。次第に綻び、失われる方向に向かった。まず(1)だが、特にリーマンショック以降、バーチャルな金融テクノロジーで膨張させていたアメリカの個人消費は大きく落ち込み、世界最大の市場としての位置を次第に失いつつある。このため、かつてのようにドル建ての投資がアメリカに還流しにくくなり、その結果、ドルは大幅に下落するようになった。それとともに米国債も下落し、ドルの信用が不安定になったため、ドル離れが急速に進行しつつあるのが現状だ。
この結果、アメリカは世界経済を編成する力を失いつつある。その意味で、(1)の力の源泉は急速に失われつつある。もちろん、現在でもドルは基軸通貨であるものの、将来的には中国やEU、そしてロシアやインドを含んだ多極型の決済通貨システムに移行しつつあるのが現状である。
さらに(2)も、1990年代には民主主義の象徴としてのイメージはかろうじて維持していたが、2003年のイラク侵略以降、それも完全に地に落ちてしまった。いまでは国内の共和党右派や超保守派のティーパーティー運動などの人々だけが熱狂的に信じる幻想程度のものでしかなくなった。イラク侵略以後、アメリカの民主主義の熱狂とは、結局、アメリカのナショナリズム(国粋主義)を合理化する口実に過ぎなかったことが露呈した。アメリカの民主主義は国際社会に対して、説得性を失いつつある。
ではこれで米国の覇権は、終焉するのであろうか?
確かに、経済的な力も民主主義の象徴的な力もアメリカは急速に失いつつある。だが、だからといって、これがそのまますぐにアメリカの覇権の喪失に直結するかといえばかならずしもそのようには言えない。
米国にはまだ、世界最大の軍事力が残っている。これによる圧力と脅しによって、自らの国益に合致した国際秩序を無理に維持することはまだ、十分可能である。
しかし現在のアメリカには、それだけの規模の軍事力を維持するだけの経済力はもはやないのではないかとの指摘も確かにある。
だが逆に、強大な軍事力を行使して世界各地の緊張を煽り、そうすることで同盟国の結束を図りながら、米国の軍事力を同盟国に維持させるという方法は十分に可能である。事実、日本が毎年支払っている米軍基地の維持費、「思いやり予算」などはその典型である。
覇権の喪失に抵抗し、変質する米国
ジャパンハンドラーズのリーダーであるジョセフ・ナイの論文にもあるように、現在のアメリカは自身の覇権を放棄する意志はない。そしてもし、米国が覇権を維持する方法がその極端に突出した軍事力しかなくなっているとすれば、今後アメリカは、覇権の維持で軍事力への依存を深め、軍事力を全面に押し出して来る可能性が高いと考えるべきであろう。
米国は、あらゆる手段を使って、世界各地でその諜報能力を使って緊張を煽りながら、多極化の方向を無理矢理押し止どめ、覇権を維持する方向へと向かうと見ることも十分に可能である。
その意味では、現在の中国の強硬な態度は逆に米国にそのチャンスを与えているとも言えよう。
一方中国は、今年も「国益三原則」を南沙諸島や東沙諸島、また黄海や東シナ海に適用し、かなり強硬な態度に出て来る可能性が大きいと思われる。1月13日から中米首脳会談で、ある程度の妥協が成立したが、基本的に中国は強硬な態度を保持する可能性が高いと見た方がよい。
しかし、中国の強硬な態度が高める地域の緊張は、軍事力しか頼る手段がなくなった米国にとって、緊張を利用して同盟国の結束を固め、覇権を維持する絶好の機会を与えることに繋がる。
昨年の9月、米国によって演出された尖閣諸島騒ぎで見せた中国の強硬な態度は、中国ーアセアン自由貿易協定で中国と蜜月ムードにあった東南アジア諸国の態度を一変させ、アメリカへと結集させた。(現在、騒がれているTPPもその流れである。)今年もこれと同じことをアメリカは行うと見ることができる。本年も、アメリカの方から世界各地で緊張を高め、覇権の維持を積極的に図っていくのではないか。今回の北朝鮮のヨンピョントウ攻撃はこうした実例であろう。
このような過程を経てアメリカは、これまでのどちらかというと経済的なパワーから、軍事的なパワーへと急速に変質することによって覇権国を維持しようとする戦略に打って出てくる可能性が高い。
このことは、軍事的な対立の局面が今年は非常に多くなる可能性があるということを意味している。もちろん、そのことは石油価格、金価格等に大きな影響を与えることは、言うまでもないだろう。
米国のこのような動きのなかで、現在、衆目の一致するところであるが、「政権交代」した日本の政治は、菅直人総理のうつろな目に象徴されるように完全に機能不全に陥っている。
以前のレポートでも指摘したように、冷戦構造の世界にあっては、全く好都合であった戦後作られた「日本というシステム」が、機能しなくなっている。米国のエリートと戦後既得権を得た日本のエリート(政治、官僚、経済界、マスコミ)の利益のために現在、国益(一般国民の利益)が失われているのである。今から振り返ると国際社会における冷戦構造は、彼らの私的利益と国益が一致した幸福な時代であったと言えるのかもしれない。その成功体験があまりに鮮烈なので、いまだに民主党、自民党の国会議員の多くが、冷戦時代の日本に戻ることができるというアナクロニズムに陥っている。このことが、現在の日本の政治を閉塞状況に押しやっていると考えてもいいのかもしれない。
このような政治の閉塞状況のなか、愛知県での河村たかし名古屋市長、前衆議院議員大村秀章氏の県知事、市長選のダブル選挙の「地域政党」的な動きが今、東京をはじめ、全国から注目されている。今後の動きによっては、日本の政治の閉塞状況を打ち破る本物の動きの切っ掛けになるかもしれない。
当事者である河村たかし氏が「VOICE1月号(2011)」に論文を載せているので、分析してみよう。(以下引用)
『「減税に抗する「職業議員」との激闘記」
河村たかし(名古屋市長)
まず、わが身を削れ
平成22年12月8日、私が提出した、市民税10%減税を恒久化する条例案と、市議会議員報酬を1,630万円から800万円に半減する条例案が、名古屋市議会によって否決された。とりわけ市民税10%減税は、私が市長に立候補したときに名古屋市民の皆さんに訴えた「一丁目一番地」の政策。それが否定されてしまったのである。
10%の市民税減税は、平成22年度から恒久減税として実施したかったが、市議会が同年3月に条例を「平成22年度に限って実施」と修正してしまっていた。今回それを覆すどころか、そもそも否決されてしまった。平成23年度に減税を継続させることが、これで不可能になった。
なぜ、こんなことになったのか。そしてなぜ、私はこの点にこだわって戦いを続けているのか。いま、あらためて考えを述べたいと思う。
まず、減税についてである。なぜ減税をせねばならないのか。そう問われたとき、私は「民間の企業は、どこも厳しい価格競争のなかで、知恵と汗を振り絞ってコストダウンを実現しているのに、行政だけ税金を取れるのをいいことに、のうのうとしていることが許されるのですか」と答えることにしている。私も30年余り、厳しい価格競争のなかで家業である古紙業の商売をやってきたが、その間、「財源がありませんので、値引きできません」などといったことはない。当たり前だ。そんなことをいったら、取引先にも相手にされなくなり、たちまち会社は潰れてしまう。
行政も、まずは減税を行なうことによって、わが身を削り、行財政改革を実現していくべきなのだ。いま、民主党が国政に「事業仕分け」を導入しているが、そもそも、どこの企業がそんな手法を導入しているだろうか。商売は、そのように甘いものではない。商売上の値引きは、いってみれば毎日減税をしているようなものである。収入が減るとなれば、四の五のいわずにそれに対応せねばならなくなるのだ。
さらにいえば、行政の無駄遣いがどこにあるか、いちばん知っているのは、担当部局の部局長であって、第三者の仕分け人ではありえない。就任当初、市役所のある職員と懇談していたら、「市長が本当に減税をやり、しかもその分を市民に返すというので、それならひと肌脱ごうと思った。減税がなかったらできなかったですよ」と話してくれた。人件費にしても、外郭団体の無駄遣いにしても、これまでなら、「まあ、ええわ」で済ませてきたものを見直してくれたというのである。実際に、平成22年度の市民税減税によって161億円の収入減となったのだが、市の職員たちは行財政改革によって185億円の財源を生み出したのである。
しかも、それはよりよい公共サービス実施との合わせ技であった。名古屋市は、500円の「ワンコインがん検診」や、市交通局の「学生定期券」(自宅から学校の最短経路に限らず、アルバイトや習い事等の経路など、自由な区間で学生定期券を買える制度)、水道料金の最大1割値下げなどの行政サービス拡充を、減税と両立させてきた。行政も、民間の商売と同じように、税金を減らしつつ、よりよい公共サービスを提供することが重要なのだ。
このようなことをいうと、名古屋市が平成20年以降、市債の起債を増やしたことをとらえて、「借金を増やして減税の成果を語るとは何事だ」と批判する人が出てくる。待ってほしい。現在、地方財政法で、地方自治体が市民税減税を行なう場合、国が設定している標準税率(6%)に満たない場合には総務大臣の許可が必要だと決められている。借金に頼って減税をすることを防ぐためだが、名古屋市は「減税による減収額を上回る行財政改革の取り組みを予定しており、世代間の負担公平に一定の配慮がなされている」と認められて、起債しているのだ。
それに、名古屋市の市債残高は、平成20年から平成22年までで3.16%増加しているが、政令指定都市合計(平成19年度以降になった団体を除く)では、同期間に市債残高は3.2%増加している。つまり、名古屋市だけでなく政令指定都市全体も増加しているのだ。これは当たり前の話で、これだけ経済が厳しいのだから、民間経済を活性化させるためにも、市債を増やしてでも事業をしていかねばならないのである。
そもそも、不景気になって民間の投資マインドが冷え込んでしまうと、「貯蓄過剰」の状況が生まれてしまう。たとえば、最近の全国銀行の預貸率は73%ほどだという。預貸率とは、集めた預金などに対する、貸出し金額の割合のことだから、簡単にいえば、100万円の預金を集めたのに、73万円しか民間に貸し出せなかった、ということである。残りの27万円は貸し先がないという状況なのだ。
このような場合には政府が、そのお金を借りて有効に使うようにしなければ、お金の行き先がなくなって金詰まりの状況になってしまう。
これが、いま国債の発行が増えている状況の裏側である。つまり国債発行のかたちで、民間で行き先がなくなっているお金を使わなければ、経済はますます冷え込んでしまうのだ。それも考えずに、ただただ「日本は財政危機」と危機を煽りつづけるのは大きな間違いなのである。
ギリシャの破綻を例として財政危機を強調する議論もあるが、それも間違いだ。ギリシャは国債を発行して「公務員天国をつくった」から潰れたのであって、「国債を発行したから潰れた」のではない。さらによくいわれるように、ギリシャは国債を外国に買ってもらっていたのに対し、日本は国内の貯蓄過剰分で賄っているのだから、その性質もまったく異なる。
日本の官僚が、「いま日本には約900兆円の借金がある。この状況の改善が急務で、増税こそが正義だ」と国民を洗脳しているが、そんなことは嘘八百だ。
経済回復させるためには、まず「減税」を実現させて、行財政のムダを省くとともに、民間の手元に残るお金を増やして経済を活性化させる。そして民間の貯蓄過剰分を国や自治体の債券で吸収し、有効に使う(公務員天国をつくるのではなく、経済活性化のために使う)ことによって、活発なお金の流れを取り戻すことが肝要なのである。
議員が「悪い王様」に!
名古屋市は、率先して「減税」に取り組もうとしたのに、なぜ市議会が反対したのか。ここに、いまの日本の政治の大きな問題点がある。議員が「職業化」して税金議員になってしまっていることが、大変な弊害をもたらしているのである。
議員たちが「減税」に反対するのは、自分たちの既得権と真っ正面からぶつかるからである。まず、減税をすると、議員たちが使い途を決められる金額が減ってしまう。これは議員たちからすれば自分たちの権力の源泉の一部を手放さなければならないことになる。さらに、自分たちの報酬が減ることにもつながる。市の職員たちが身を削って行財政改革を進めているのに、議員だけが高額の報酬を貰いつづけるわけにはいかなくなるからだ。
議員の既得権固守を象徴する、もう一つの出来事が、名古屋で進めようとしている「地域委員会」への抵抗である。
これは名古屋市内の小学校の学区単位で、ボランティアの地域委員を住民の投票で選出し、彼らに地域の課題とその解決策を検討してもらい、実際にその取り組みに対して予算付けをしていくものである。「住民が協力して、自らの手で自分たちの町をよりよくしていく」ことで、地域コミュニティの活性化を図ろうというプランだ。すでに平成22年にモデル事業を行ない、「歴史的建造物を活かしたまちづくり」「健康パトロール」「安心安全なまちづくり」など、創意工夫あふれる取り組みがなされるようになった。
だが、市議会はこの事業を拡大させる予算案にも反対をした。議員たちからすれば、これまでは地域で選ばれるのは自分たちだけだったのに、そこに地域委員が現われた。考えようによっては、地域委員は、いつ自分の対抗馬になるかもわからない。家業を守るために、地域の民主主義の芽をつぶそうとするのである。
歴史的にみれば議会制の始まりは、かつて国王が勝手な税金を掛けてくるのに市民たちが対抗したことにあったはずだ。だが、日本では議員が職業になり、家業化することで、より税金を安くするにはどうするかを考えるのではなく、どうすれば自らの報酬と地位を守れるかということばかりに頭を働かせるようになってしまった。議員自体が、「悪い王様」と変わらぬ立場になってしまったのである。
私が議員報酬の半減を訴えたのは、このような問題意識があったからだ。議員はパブリックサーバント(公僕)であり、市民の給与と同じ水準でやるべきではないか、と考えたのである。
まずは「隗より始めよ」で、市長の給与を年額2,700万円から800万円に減らし、さらに4年ごとに4,220万円もらえる退職金を廃止した。そのうえで、議員の報酬も800万円にしようとしたのだが、それが猛烈な抵抗に遭うことになった。
日本は議員の数が多すぎるうえに、報酬が高すぎる。名古屋市は人口約226万人で議員定数75人、報酬年額(制度値)は約1,630万円。だが、シカゴは人口約283万人で、議員定数は50人、報酬年額は約910万円。ロンドンは人口約756万人で議員定数は25人、報酬年額は約690万円である。バンクーバーは、議員の給与を市内の平均所得に合わせているという。
このようなデータを示しても、「議員は選挙にお金がかかる。事務所にも経費がかかる」などという人がいる。しかし、そのようなものは本来、寄付金で賄うべきものではないか。
また、議員の報酬を減らすと庶民が議員になりづらくなる、などという議論もあるが、それも大きな間違いだ。海外のボランティア議員は、ボランティアだからこそ多選せずに早く辞め、そのぶん次々に庶民が議員になっていく。しかし日本では、議員が家業化しているので高齢になるまで選挙に出馬しつづけ、やがて世襲して議席を占拠しつづける。政治に参加できる人が結果的に限られてしまうのだ。
現実問題として、現在、お金も何もなくて選挙に勝つケースが、どれほどあるだろうか。新鮮感があるためか、ただ若いというだけで議員に当選する最近の風潮もあるが、それはそれで問題だろう。社会経験が未熟なのに正しい政治ができるのか、疑問な点も多々あるからだ。
いずれにせよ、「権力とは税金を取ること」であり、いまや職業議員たちがその急先鋒になっていることが、今回、私が提出した条例案の否決で明らかになったことは間違いない。
燃え上がった市民の怒り
自らの掲げる「一丁目一番地」の政策が否定されたとき、政治家はどうすべきか。私は、そこで市民に対して市議会の解散請求(リコール)を呼びかけ、市民もそれに応えてくれた。この私の行動に対して「市長も、市議会議員も、それぞれ市民に選ばれた代表であり、市長がその議会の声を聞かないのは、二元代表制の原則を踏みにじる、独裁的横暴だ」などという声が挙がる。だが、私はその意見は間違っていると思う。
私は、年収800万円とはいえ、市民の血税をいただいている。しかも、市長に当選するうえでの最大の公約が「減税」であった。それを否決されて、「議会の意向なので、どうしようもないんです」といって済む問題だろうか。しかも市議会は、私の政策を実行すれば既得権を侵される立場にある「当事者」だ。その議会に否決されて、諦めろというのか。
総理大臣ならば、衆議院を解散して民意を問うことができる。ならば、市長が信念を貫き、市議会リコールの旗を振って、何の悪いことがあるだろうか。しかも、それは民意に問うことなのだから、けっして「暴君」などといわれるいわれはない。
まことにありがたいことに、5万人弱にも及ぶ方々が署名を集める受任者として必死に走り回ってくださり、リコールの署名は、約466,000人分集まった。だが、思わぬ抵抗に遭うことになった。市選挙管理委員会が、署名の審査を厳正に行なうとして、審査期間を1カ月延長したうえに、結果的に11万人分以上を無効としたのである。このため、一時は、住民投票成立に必要な365,795人に届かない、ということになった。
むろん私とて、その審査が適正なものならば異論はない。だが、その審査はあまりにも「度を越した」ものであった。これまでの審査では、市民の直接請求権を尊重する意味で、比較的緩い基準が取られていた。今回の署名活動も、それに準じて行なわれていた。だが、署名の提出が終わった9月30日に開かれた市選挙管理委員会の議事録に、「今回の署名の目的は市議会の解散であり、署名の審査はより厳格にしていく必要がある」とあるように、基準が厳しくされたのである。
そして、とてつもないことが行なわれた。11月29日付の『中日新聞』によれば、住所の地番「20-3」が「20・3」にみえるという理由で無効にされたり、受任者の住所欄に書き損じて2平方ミリメートル程度の点が残ってしまっていたものを、請求代表者の「訂正印なし」という理由で無効とするなど、やりたい放題だったというのだ。高齢のため字を上手に書けず、それを無効だといわれて「わしも長く生きすぎた」と肩を落とした方がおられるという話も聞いた。「電話帳を写した可能性がある」などと、ひどいことをいう人がいたが、生年月日を書かなければいけないのだから、そんなことができるわけがない。
なぜ約11万人分の署名は、無効にされたのか。市選挙管理委員四名のうち、3名が市議会OBだといえば、疑念を抱く人もいるかもしれない。審査基準も、前出の『中日新聞』が報じるところによれば、選挙管理委員会事務局長が「事務局としては、これまでの実例・判例からそこまで明確にしてよいものか疑問は残ります」といったのに、委員がそれを遮って厳格化させたという。
議員の立場を守るために、そこまでして、市民の権利を踏みにじる「署名の虐殺」が行なわれたのだ。民主主義の仮面を被った独裁政治のような恐ろしさを肌身に感じた思いがした。
当然、このような審査に、市民の怒りは燃え上がった。署名を無効にされたことへの異議申し立ては3万件を超えたのである。かくて2010年12月15日に、リコールを問う住民投票のため必要な署名数が確定したのであった。
この場合でも、即解散になるわけではなく、議会解散の是非を問う住民投票を経て、解散となる。民意を問う場が署名審査の次の段階に控えていることを考えれば、「署名虐殺」に走った今回の名古屋市選挙管理委員会の対応は、どう考えても異常であった。署名の審査に際して選挙管理委員が優先すべきは、「市民の政治活動の自由を守ること」であるはずだ。
私は市長就任以来、「民主主義発祥の地ナゴヤ」という言葉を掲げてきた。だが、まさにいま「民主主義の真価」が問われているのである。
首長経験者の力をもっと国政に
いま「中京都構想」を掲げ、来る愛知県知事選に立候補予定の大村秀章氏や、同じく「大阪都構想」を掲げている橋下徹大阪府知事と連携することを考えている。これは、愛知県と名古屋市を一体化し、現在、県と政令指定都市とで重複している行政を効率化することによって、減税を全県規模に拡大していこう、という考えである。
ここで気を付けねばならぬことは、この構想の主たる目的は「県と政令指定都市の一体化」という間仕切りの話ではなく、あくまでその結果実現される「減税」にある、ということである。
市民からすれば、間仕切りの話だけでは、何の意味もない。「減税」こそ、本稿でみてきたように大きな抵抗に直面する可能性が大きいが、市民の幸せに直結するものであり、全力で取り組むべき課題なのだ。
私は衆議院議員を経験したのちに市長を務めたわけだが、国のためにお役に立とうと思ったら、「地域を経営する」という地方自治体の首長の経験はきわめて有意義なものだと実感している。首長経験者の力をもっと国政に反映させることができれば、日本の政治も、いまのように改革にも取り組めず、大事なことを何も決められない状況から脱することができるのではないか。橋下徹氏ら改革派首長や日本創新党などの首長経験者と連携し、声を挙げていきたいと考えている。
いちばんの近道は、首長や地方議員と国会議員の兼職を認めるようにすることだ。すでにフランスなどでは行なわれており、十分に実現可能である。いま家業を継ぐ「職業政治家」ばかりになり、政界へのリクルート力が大幅に低下してしまった。それを打開するためにも、有効な一手だ。
二番目は首長グループをつくっていくことであろうが、やはり旗印は「減税」であるべきであろう。世界の政治をみても、たとえば「アメリカの共和党が減税で民主党が増税」というように、ここが最大の対立軸になっている。私も日本の民主党を「減税民主党」にすべく努力してきたのだが、いまや国会は右も左も、みな「増税勢力」になってしまった。これではいけない。
実際に改革に取り組んできた首長は、「納税者のみなさん、ありがとう」という実感を強くもっている。この得難い実感を結集し、増税勢力と対抗できれば、日本の国は見違えるような元気な国になるはずだ。ぜひ、それをめざしたい。 』(引用終わり)
どのように考えられるだろうか?
間違いがあるので、最初に指摘させていただきたい。米国の地方議会において、特に市議会においてボランティア議員が多いのは、米国においては、州政府がほとんどの行政の仕事をこなしているので、市役所の仕事が日本に比べると極端に少ないということに理由がある。アメリカにおいても国会議員には、世襲が多いことは、大統領選挙を見ていれば一目同然であろう。つまり、職業議員が多いということである。
新自由主義を主張したマネタリストの経済学が破綻した今、生き残っている経済学は、ケインズだけである。その意味で、この論文で、河村氏が主張している減税して、民間に金を回して、需要不足は、公が起債して財政支出すると言う政策は、その意味で理に叶っている。もちろん、減税分を行政改革で浮かせるということが絶対条件ではあるが。また、河村氏のソブリンリスクに対する考えも大旨正しい。もっと言うならば、マスコミは、指摘しないが、日本国債の問題より、一番の問題は、米軍に防衛してもらっているという不可思議な占領状態のなかで米国の連邦政府や州政府の財政赤字を日本がファイナンスし過ぎていることである。現在の米国の経済状況では、おそらく、返ってくる当てのない米国債や、カルフォニアのような財政破綻している州債を大量に買わされていることの方がよほど大問題であろう。
また、多くの改革首長に地方議会がこのような批判にさらされているのは、残念なことだが、現状の選挙制度で当選してくる議員の資質の低さにも原因がある。ろくな政治・経済の知識もなく、議員になった場合、二元代表とは言え、チェック機能が働かないのは、当然であろう。しかし、そうは言ってもそう言った議員を当選させたのは、一般有権者である。卵が先か、鶏が先かの議論である。
考えるに、議員の定数が多すぎるのである。悪貨は良貨を駆逐するのである。そのために地域代表的な選挙が展開され、議員の資質が二の次のなるのではないか。
その意味では、地方自治法に規定された二元代表制をしっかり機能させたいのであれば、定数を絞って専門性をを高めることが必要不可欠になってくる。
また、すべての議員がボランティアになってしまえば、首長の独断専行をチェックすることは、事実上、全く不可能になるのでは、ないかとも考えられる。
氏の指摘を待つまでもなく、ヨーロッパのように地方議員や首長と国会議員の兼業を認めることは、政治の効率を高めることに繋がる。これから大いに検討すべきであろう。
ところで、大村氏や河村氏がタッグを組んで「大名古屋=中京都」を作り、中京圏の経済効率を高めることは、大いに結構なことだが、わが東三河は、周辺地域に埋没する危険性もこの政策は秘めている。この地域のためには今一度、リーダーシップを執る首長がいない現在、東三河全体の政令指定都市化を、広域連携を真剣に考える地域政党的な動きが、急務になる展開が待っているのではないかと考えられる。心ある方にこのことを真剣に考えてもらいたい。
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