大変、興味深い記事を見つけたので、ご紹介します。
*JB PRESS 2013年1月19日号より
「百害あって一利なしの人間ドック」
~健診はおやめなさい 医学界の“異端児”が警告する日本の問題点~
川嶋 諭
<川嶋 諭プロフィール>早稲田大学理工学部卒、同大学院修了。日経マグロウヒル社(現日経BP社)入社。1988年に「日経ビジネス」に異動後20年間在籍した。副編集長、米シリコンバレー支局長、編集部長、日経ビジネスオンライン編集長、発行人を務めた後、2008年に日本ビジネスプレス設立
いまから15年以上も前になるだろうか。作家の五木寛之さんにインタビューした際、「自分の体は他人に頼らず自分自身でメインテナンスするものだ」と言われたことが1つのきっかけとなって、定期健診というものを受けなくなった。会社に何度催促されても無視を決め込んだ。
がんだと診断されても安易に切るな!
ただ、前の会社で編集長になったとき、できる秘書がついたためにスケジュールをことごとく管理され、東京都内で最も人気の人間ドックに予約を入れられて、仕方なく健診に行かざるを得なくなったことがあった。
すでに50代の半ばにして、バリウムというものを飲んだのはこのときの1回だけである。
神様の思し召しか、しばらくしてこの美人秘書が結婚。彼女の夫のニューヨーク転勤で会社を辞めてしまったので、人間ドックや定期健診から再び逃れることができるようになった。
恐らく生まれながらに天邪鬼の性を両親から授かったのだろう。これが常識だと言われると間髪を入れずに反発したくなる。村社会の日本でははぐれ者だという認識は強い。
でも、そんなはぐれ者にも温かい日本は何て素晴らしいのだろうともこの歳になってつくづく思う。いまの日本には問題が山積みだけれども、決して悪いことばかりではない。
必ず解決策を提示してくれる人が現れる。明治維新も恐らく、清河八郎という人物がいなければ起こらなかったかもしれないではないか。
さて、いまの日本の医学界で、清河八郎とは言わないが、孤軍奮闘、日本の未来のために戦っているお医者さんがいる。慶應義塾大学の近藤誠さんである。
近藤誠さん、明治維新で言えば、新撰組の近藤勇を思い出す。名前は勇ではないが、新撰組の旗印は「誠」だった。何か運命的なものも感じるお名前である。
近藤先生は日本のがん治療は根本的に間違っていると言う。まず、先進国では日本にしかない定期健診。こんなものは必要悪だときっぱり。健診技術の進歩でがんかもしれない部位を発見する能力は格段に上がった。
でも、その大半は「がんもどき」であって正真正銘のがんではないという。でも、「がん」と認定できれば、医師は抗がん剤治療をはじめ様々な“お金になる治療”が施せる。その結果、日本では必要もない外科手術や抗がん剤治療が跋扈しているというのだ。
この問題は恐らく、日本の原発村にも通じるところがある。メディアもそうだ。1000万部とか800万部などという新聞は日本以外に存在しない。とにかく、日本人は権威に弱い。
詳しくは次のインタビュー記事をお読みいただきたいが、私たちの住む日本という国を本当に良くしたければ「お上」に頼ろうとする気持ちを私たち自身がリセットする必要がある。
川嶋 近藤先生は、お父さんと2代続いてのお医者さんだそうですね。最初は、お父さんと同じように、いわゆる“普通に”診療されていたのに、何がきっかけで、がんは切らない方針に転換されたのでしょうか。
近藤誠・慶應義塾大学医学部放射線科講師。1948年生まれ。乳房温存療法のパイオニアとして、抗がん剤の毒性、拡大手術の危険性など、がん治療における先駆的な意見を発表し、啓蒙してきた第一人者。2012年、それらの活動により第60回の「菊池寛賞」を受賞
落語家の立川談志を襲った悲劇
近藤 1つは診療体験、もう1つは勉強の成果です。医学生の時は患者に接しないし責任を持たないから、講義や教科書の知識をそのまま信じるわけです。
医者になっても最初はがん治療をやるつもりは全くなかった。そもそも目的意識がなかったのに成績が良かったから慶応義塾大学の中で医学部に入って、勉強とスポーツと茶道に夢中になったという経緯があるんです。
スポーツは体育会に属する医学部のボート部で、やるとなったら徹底的にやり切る方なので、成績も良かった。医学生としても、当時は医学が好きというより勉強が好きだったんだと思います。とにかく勉強はしました。
ところが、臨床実習が始まるとあまり面白くなくなってしまった。次第にさぼりがちになり成績が落ちてしまった。専攻として放射線科を選ぶときも、外科系に行って夜も眠れないほど忙しいのは困ると考えたからでした。
すでに学生結婚していて子供もいたし、忙しすぎるのは嫌だった。比較的体が楽な内科系でしかも夜はしっかり休めるところというのが選択基準だったんです。それに当時は放射線診断が伸びてきていたので、その診断学を身につけてから内科に行くかなぁという感じで選びました。
ただ研修医のときは、診断学と放射線治療(がん治療)とを半年交代で学ぶことになっていたので、がん患者を診察し始めたんです。すると、いろいろ医療の矛盾が見えてきた。
亡くなる直前まで抗がん剤治療をしているけれども、これって実は治療によってかえって命を縮めたんじゃないかとか。また、治療法が日本と欧米でまるっきり違っていることが分かったり・・・。日本の治療はこのままでいいのかと疑問が芽生えた。
例えば、落語家の立川談志さんが罹った喉頭がんがあるでしょう。欧米では放射線治療で切らないのが主流になっていたけど、日本では1期から4期まである1期の早期がんでも切ってしまう。
また食道がんも欧米では放射線治療が当たり前なのに、そういうのを日本ではみんな切っちゃうわけね。
川嶋 その結果、患者の声が出なくなるとか、食べられなくなるとかは二の次なんですか。
近藤 そう。喉に穴をあけて、声が出なくてかわいそうな生活を患者に強いるわけです。しかも日本の中でも1期でも全部が手術かというとそうじゃなくて、ある患者にはやり、ある患者にはやらないとか、病院によって施術が違ったりしていた。
どうしてこんなことが起きているのか疑問だった。でも、若い頃だったので勉強に精一杯で問題意識を深めるまではいかなかった。そのうち、6年ぐらい経ってからは診断業務から離れて放射線治療を専門にすることにしたんです。
そして、1979年に米国へ留学した
いまになって日本でもけっこう流行っている粒子線治療を勉強しました。1人で留学に行ったもんだからけっこう時間があるし、それまでの治療関係の論文を手当たり次第に読み込みました。
そのうちに放射線治療というのはこんなもんなんだという全体像が見えてきた。そこから日本の治療方法を見返すと、これは遅れていると。これは変えなきゃいけないと思い始めたんです。
臓器を残して治療ができるのだから、患者のことを考えたらそちらを選ぶべきではないかと。この前亡くなった中村勘三郎さんの食道がんにしても、子宮頚がんとか舌がんとか膀胱がんとかみんな臓器を残して治療ができる。それなのに、日本では全摘されちゃって後遺症で苦しんで、生活の質が悪くなる。
信用を得るために論文執筆に全身全霊
近藤誠先生の最新著書『医者に殺されないための47の心得』(アスコム、税抜き1100円)
日本のがん治療を変えなければいけないと思って日本に帰国したんですね。帰国してからはさらに一段深く勉強するようになって、1年360日病院に出てきて朝から晩まで論文を読んで、過去のデータを調べたり論文を書いたりしていました。
そのときは、患者に向けての発信じゃなく、医者向けに発信しようと思っていたからです。医者が変わってくれれば、それが一番の早道でしょう。彼らは臓器を残しても治療できるということを知らないのかと思ったし。
川嶋 新しい治療法を知らないお医者さんを啓蒙しようとされたわけですね。でも、力のあるお医者さんであればあるほど自分の方法にこだわりがありませんか。
近藤 そうね。だから、私自身の発言を信用してもらわないといけない。そのためにまずは論文をいっぱい書いて、信用力をつけて、働きかけをしようと一生懸命やった。その頃はまだ珍しかった英文の論文もどんどん出しました。
一方で、いろいろ新しいこともやり始めました。
例えば悪性リンパ腫では、本来は内科が抗がん剤治療をするはずなんだけれど、これがあまりきちんとした抗がん剤治療をやっていない。一緒にやりませんかと持ちかけても怖がってやらないんですよ。
それなら自分でやろうと、海外のやり方を取り入れて抗がん剤治療を始めました。
当時は「放射線治療をしてください」と言って、悪性リンパ腫の初期の患者さんが来るんだけれど、3割ぐらいしか治らず、あとは放射線をかけたところ以外に再発する。がん細胞が全身に散らばっているのだから、最初から抗がん剤治療をやらなければいけないんです。
ところが、内科でやっているのは欧米よりも質量ともに劣った方法のままなんです。日本の悪性リンパ腫がなかなか治らない原因はここにある。そこで、内科医に抗がん剤治療をやりませんかと言っても何だか尻込みしてやらない。
で、自分でやっちゃえと。しかも患者は私がいる放射線科に来るからわけですから。数年経って成績をまとめたら、3割の治癒率が8割になっていて、それを内科系の学会で発表したら、放射線科医にやられたとか言われてね。ちょっと鼻が高くなった(笑)。
乳がんもそうで、乳房温存療法が欧米では始まっていて標準治療になる勢いだったから、日本でもこれはできると思った。
ただ、欧米でやってるからと言うだけでは迫力がないので、自分で経験を積まなきゃいけないと思ってやり始めたわけです。
最初のきっかけは、1983年に私の姉が乳がんになったことでした。姉から相談があったからおっぱいは残せるよって言って温存療法を勧めた。もう術後30年経ったけれど、転移がなく元気にしていますよ。
正確に言うと、おっぱいへの再発はあったんです。でもそれはもう1回手術して、それでいまは元気にしてる。これはほかの臓器への転移がないから「がんもどき」なんだ。がんもどきは局所再発しやすいという典型例みたいなものだった。
がん患者をどうしても増やしたい日本
川嶋 がんもどきというのは、顕微鏡検査では悪性のがん細胞と同じように見えるけれども、ほかの臓器へは転移しにくい。これに対して正真正銘のがん細胞は体のあちこちにすぐ転移してしまうわけですね。
近藤 本物のがんか、がんもどき、かは転移の有無で区別できる。本当のがん細胞だったら、それが発見されたときにはすでに全身に転移してしまっている。これはあとで詳しく言うけれども、日本でがんと診断されているのは、実は大半ががんもどきなんですよ。
よくがんを切って治ったというのは、がんもどきを切って治った治ったと言っているんです。もし正真正銘の悪性のがんだったら、切ったらむしろ転移を促進させてしまう。
話を戻しましょう。
その頃、放射線科に来る乳がんの患者さんは全員、すでに外科で乳房を全摘されていて後の祭り。なかなか、最初に私のところに来てくれない。それで、知り合いの新聞記者に伝えて、読売・朝日新聞に載せてもらった。
そうしたら、少しずつ来てくれる患者さんが増えてきた。だけど一方で、外科に一緒に温存療法やりませんかと持ちかけても「フンっ」てな感じで、全くやる気がないんですよ。こっちに信用があるも何も関係ない。取りつく島がないという感じでした。
当時の日本では、がんは根こそぎ切り取るのが当たり前という雰囲気でした。面白い話があるんですよ。1980年代、乳がん研究会という組織がありました。今の乳がん学会ですね。そこで縮小手術というテーマでシンポジウムを催したんです。
それまで日本の標準治療は乳房だけではなく、その裏の筋肉まで取るハルステッド手術でした。筋肉まで取ってしまうと術後は後遺症が大変なんです。そこで、筋肉だけは取らずに残そうというのが縮小手術です。ハルステッド手術より患者に優しい縮小手術を普及させようというのがシンポジウム主催者の狙いでした。
そのとき米国において日本人の外科医で成功してる人、そして乳がん治療を中心にやっている人を講演者として呼んで話してもらったのです。
そしたら、その人が話し始めたのが乳房温存療法だった。日本よりも一段階先に行っていて、ハルステッド手術をしている日本の外科医だけでなくシンポジウムで縮小手術を普及させようという主催者の両方が目を丸くしてしまった。
他方、米国から来た外科医は、「え! 日本の縮小手術って全摘なの?」と、こちらもびっくりしていた・・・。
固定観念の強すぎる大学病院
川嶋 日本の後進性を思い知らされたわけですね。そのあとは米国に倣えという動きが活発になったのですか。
近藤 それが全然だめなんですよ。私も慶應病院で乳がん外科の責任者に温存療法をやりませんかと言ったら、フンってそっぽ向かれちゃったからね。
やらないって言うなら、それはそれでかまわないんだけれど、実はとんでもないことが起きたんですよ。1987年のことだった。夜、帰ろうとしたときに放射線科の奥に灯りがついていたから何かと思って行ったら、看護学生がアルバイトで働いているじゃないですか。
私の顔と名前を知っていて、外科に入院している誰誰さんって知ってますかと聞く。その患者さんは温存療法を希望していて、「近藤先生に会わせてください」と言っているけれど知ってますかと。
朝日新聞で紹介されたのを見て、慶應病院に行けば私に会えると思って来て、受付で乳がんなので近藤先生にと言ったけれど、外科に案内されて入院することになったらしいんだ。
入院してからも温存だ、近藤だ、とナースや医者に言っているのに、私には全然連絡がなくて。そのままレールに乗せて全摘手術の日も決まってという状況だったんですよ。
川嶋 患者の要望は聞く気が全くないのですね。それは外科がそれまで自分たちが積み上げてきたことを崩されては困るということですかね。患者の側からするとひどいですよ。
近藤 ひどいよなぁ。受付は素人に近いから仕方ないかもしれないが、外科はナースも医者も私が温存療法をやっているのを百も承知なわけだからね。
そういう事情が分かっていたので、私に教えてくれた看護学生に患者と連絡を取ってもらい、その患者さんに会うことができた。そして、私が温存手術を頼んでいる別の病院に紹介したんだ。それで一件落着したんだけどね。
川嶋 慶應病院の外科の先生は、温存療法は絶対してくれないんですね。意地になっているんでしょうか。
近藤 うん。それに仮にやらせたって、温存と言っても切る量がいろいろあるから。半分おっぱい取っちゃって、それで温存だとか言う医者もいるし。そんなところには任せられないでしょう。私が頼んでいたのは大学時代の同級生で、米国で外科免許を取って日本に戻って別の病院にいた。私は、外科手術はできないから彼に頼んだ。もっとも、のちに彼を詐欺罪で訴えることになるんだけど・・・。
結果は、温存療法が大成功して話題を呼び、日本の乳がん患者の実に1%が私のところへやって来るようになっちゃった。
それで彼がいた個人病院、一応総合病院なんだけど、そこでは実は彼は病院内開業医で定額給料じゃなく出来高払いという契約だった。かなり珍しいケースだけれど。そうすると、できるだけ患者からお金を取るという方法を取る。
それは倫理的にどうかと思ってはいたんだけれど、ほかに手術をしてくれる医者がいないから離れられなかった。何年か我慢して付き合っていた。
ところが、2002年になって問題が顕在化してしまった。ある患者さんが手術を受けた病院でもらった請求書はおかしいと言い出した。そこには手術費用のほかに検査費用まで入っているじゃないですか。
検査費用はすでに健康保険で賄われているはず。それなのに何万円か分の検査費用が保険外で請求されている。これは二重取りの詐欺に当たる。犯罪でしょう。
それで早速患者さんたちに声をかけて領収書を集めてみたんだ。すると、ずっと前から二重取りしてることが判明した。これにはさすがに堪忍袋の緒が切れてしまった。
小さな悪事が乳房の温存療法の大敵に
そして、患者さんたちにいままで詐欺をされていたというのを教える文書を作って渡したら、それが報道されてものすごく大きく扱われて、ちょっとした社会問題になったんです。患者の中で何人か正義感のある人が告訴すると言い出した。
彼らが医療問題に取り組んでいる人たちと連携してその外科医を警察に告訴・告発したんです。警察は半年ぐらい一生懸命調べ、私も段ボール箱で何十箱分のカルテや請求書を病院でコピーして検察に送った。警察は詐欺罪で立件できると思ったから。
けれども結局、検察の判断は不起訴になった。その理由は、手術した外科医をかばう患者がいるんですよね。「この先生は私の命を助けてくれた」と。また、「いま先生がいなくなったら経過を誰が診てくれるんだ」と。
そういう患者の取り調べ調書が出てくると、「私は二重取りだと分かっていたけれど払ってました」となっちゃうんだ。二重取りされた方がそれを分かっていた場合には詐欺罪は成立しない。そうなると公判を維持できないから、検察官は起訴を見送ってしまった。警察は怒っていたけれど・・・。
川嶋 命に関わる医療現場の難しい問題ですね。命に引き換えたら数万円なんかたいした問題ではなくなる。むしろ手術をしてくれる医師がいなくなることの方が問題という気持ちもよく分かります。でも、二重取りしていた医師には、何と言うかがっかりさせられますね。せっかく良い仕事をしているのに。
近藤 それはそれはとても複雑な・・・。彼がいなければ温存療法はできなかった。だけど、かなり早い段階から向こうの意図は「これは金になるな」だったからね。でも代わりがいなかった。一種の必然なんだろうな。
ロード・オブ・ザ・リングのゴラムだったか、悪のかたまりみたいな存在でも役に立つことがあるという話が出てくるけれど。それと似ているかもしれない。
川嶋 企業経営の世界でも必要悪はあると思います。でもなぁ。目の前の小さな利益に目がくらんで大きな利益を逃がしてしまっているわけだし、日本の医療改革のためにもマイナスになってしまうわけでしょう。小さいなぁ。
米国帰りの医者に欠如していたモラル
近藤 彼は米国でチーフレジデントという名誉あるポストを得ています。これはすごいことで、専門家になって自信満々で日本に帰ってきた。だけどきちんとしたポストでは処遇してくれないし米国ほどお金ももらえない。
彼はできるだけ歩合の良いところを求めて病院を2度かわってるんです。こっちはお金のことには全然関心ないし、執筆活動で患者にできるだけ温存療法を広げようということに夢中になっていたので、彼のそういうところは後で知ったのだけれど・・・。
また、もし彼の意図を分かっていたとしても、彼を外すのは難しい面もあったんです。実は患者さんが増えて手に負えなくなってきたので、ほかの外科医を患者さんたちに紹介したことがあったんです。
ところが、患者さんたちはみんな帰ってきちゃうんですね。ほかの外科医と話をしたけれど、私の同級生の医者の方がいいらしくて。
川嶋 外科医としての腕も超一流となると、そうなんでしょうね。
近藤 悩ましいよなぁ。彼も彼なんだけど、さっきの話に戻ると、患者を慶應の病棟から逃がして手術をしてもらったでしょう。患者さんやこっちとしては、知らんぷりを決め込んでいた慶應外科の医者たちも許せないよな。
患者を騙してお金を取ったら犯罪だけれども、必要もないのに女性の大切なおっぱいを取っちゃっても犯罪にはならないからね。
でも、それを慶應病院内でとやかく言っても絶対勝ち目はない。外科は花形で内部では力があるし。放射線科は再発転移で送られてきたのを治療しているだけで影響力はほとんどなくて、外科とか婦人科とかそういう手術する科の下女下僕みたいな扱いだよ(笑)
そうじゃいけないと思ってやってきたんだけれど、今日に至るまで放射線医にはそんな性が染みついていると言うか・・・。結局ね、放射線科には心優しい人が入ってくるんだよ。私も心優しいんだけど(笑)
心優しくて協調性が高いだけだと、患者が送られてくれば放射線治療するけれど、人のテリトリーに乗り込んでいって手を突っ込むようなことをしない人たちがほとんどなんだ。全員じゃないけれど・・・。
私の仲間と思っていたのはさっき話した米国帰りの外科医ぐらい。結局は彼にも裏切られてしまったけれど。
そんなことがあって、私もあるときから医者に対する啓蒙活動をやめてしまった。論文も自分が教授になるために書いていたわけではなくて、自分に信用力をつけて外科医たちを説得しようと思っていたわけだから、もう論文書くのはやーめたと。
連載が始まって・・・
その後は、医者相手ではなくて、マスコミを通して患者や一般人を相手に啓蒙活動に専念することにしたんです。
本について言えば、まず1987年に廣済堂から『がん最前線に異状あり』という本を出しました。これは私が企画したのではなくて全くの偶然だった。
実は私ははがん告知にも取り組んでいたんです。1980年代の初めまではがん告知は100%タブーでしたが、悪性リンパ腫で抗がん剤をきっちり使わなきゃいけないという思いがあったんで、やはり本当のことを患者に伝えようと思っていた。
米国から帰ったあと1980年代の初めからがん告知を積極的にやって、85年以前には末期がんも含めて100%の患者に告知するようになっていた。そういう取り組みがマスコミに知れて、週刊朝日とかに報道されて、廣済堂の方から出してくれということになった。
乳がんのときは週刊や月刊の女性誌に手紙出して、こういうケースや治療法があると送って載せてもらって患者を増やす努力を始めたんだけど、あまり来ないんだ。見出しが「おっぱいを残す奇跡の治療法」みたいな怪しげなものだったから(笑)。それじゃ患者は来ないよな。
それで、1987年に、たまたま医事新報という開業医なんかが読む雑誌を厚生省の記者クラブで読んだと言ってTBSが取材に来て、番組を作って放映してくれた。それで患者が増えたんだけど、番組を見逃したという患者がどこだどこだと探し回ったそうですよ。
川嶋 メディアで有名になっているのに同業者のお医者さんから無視された形になっていたということですね。
近藤 実は医者だけではないんだ。当時、乳がん患者会で一番有名だった「あけぼの会」っていうのがあって、全摘を受けている、多分ハルステッドで筋肉まで取られた人が会長だった。
ある患者さんがそのあけぼの会に、どこで温存療法をやっているのかを聞いたそうです。そしたら、「そんなことは自分で調べなさい」と、温存療法と聞くなりガチャンと電話を切られてしまったとか。明らかに悪意がある。温存療法を認めたくないと。カリスマ的な会長だったんだけれど。
川嶋 患者を守るはずの患者会までが。人間というものの醜さ満載ですね。
近藤 結局、私のところを知っている別の患者さんに教わったそうですけどね・・・。
慶應の実名を出したことで大問題に
そして翌1988年、『がん最前線に異状あり』の本を読んだ文藝春秋の編集者が4月に電話してきて会って、これは3本ぐらい書けそうだから手始めに乳がんでどうかと言ってきた。
そのとき考えたのは、前から文藝春秋には書きたかったんだけど、いざ向こうから頼まれてみると、いま書くべきなのかと悩んだ。
やっぱり私も自分の身が可愛いからね。だって影響力の大きな雑誌に書きたいことを書いたら、自分が孤立するのは目に見えている。必ず村八分になるよね。下手をすると慶應病院をやめなければならないかもしれないし、確実に貧乏になる。
で、悩みに悩んだ。自分の身は可愛いけれど、10年後に書いてもあまり意味はない。そのとき書かせてくれるか分からないし、その間におっぱいを失ってしまう人がいっぱい出てくる。できるならいま書きたい。
でも書くと、そのときには私のところに来ていた外来患者は、病院内のいろいろな診療科から放射線をやってくださいといって送り込まれていて、教授の外来より多かったんです。それがゼロになるかもしれない。
近藤のところになんかやるか、と阻止されて。患者が来ないとさすがに外来を続けられないし、患者がいない医者が病院にいても意味ないからと肩をたたかれても居座りにくいし、アルバイトに行っている病院も辞めさせられるとか。どう考えても貧しくなりそうだ。
出世はもちろんのこと、医者としての未来をすべて失うかもしれない。その頃までは、臨床で講師になったのは一番早かったし、論文もいっぱい書いていたし将来は真っ先に教授になるだろうと言われていて、色気も少しあったんだよね。
そうやっていろいろ考えたんだけれど、やっぱりここで書かなければいけないと決心した。前の年に経験した、温存療法を望んでいた患者が外科で手術されそうになった一件とか、そういうエモーショナルな部分も大きく影響していたね。
コノヤローっていう気持ちがないと書けないんだよ。あなたも物書きだから分かるよね。それで決心して娘2人を呼んで、当時は下が中学生(上は高校生)だったかな、お父さんはこれから外科と一戦交えて、どうみても豊かにはなれない、貧乏になるかもしれないから覚悟しとけと。
それで書いたものが5月に出たんです。タイトルは編集長がつけたのだけれど、「がんは切らずに治る」ってね。そしたら案の定、外科が怒り狂った。
おまけに、慶應の名前をはっきり出して書いたからね。名前を伏せるのは簡単だけど、私のところに来た患者を外科が勝手に手術しようとした一件があったあとでしょう。慶應に来たらダメなんだよと書かなきゃいけない。
それで、「日本どこでもおっぱい切られちゃうんですよ、東大病院だろうと慶應病院だろうと」と書いた。恐らく、そこに一番反応したんじゃないかな、外科の人たちは。それがなければ慶應病院の外科に患者が増えて、ありがとうってことになるわけだから(笑)
記事が出たあとは、患者さんが殺到して大変でした。治療を受けた人たちが新たな市民団体も立ち上げました。患者さんが動くとすごいんですね。それがまた新聞に載って、患者さんが増えるという状態でした。
一方、あけぼの会も神奈川支部の幹部が何人か私のところにやって来て、温存療法の講演会をやってくれということになった。「あなたたちもうおっぱいを切っちゃってるじゃないですか」と言ったら、「いやもう1つあります」と言うんだよ(笑)
そして数カ月後に会場にいったら、あけぼの会の神奈川支部だったはずなのにソレイユって名前になってる。どうしたのかと思ったら、近藤の講演会があると聞いた会長が神奈川支部の一人ひとりに「神奈川支部は解散されました」という手紙を送りつけていたんです。
あのあけぼの会にもドラスチックな変化
もともと運営方針を巡って何かあったらしいんだけど、あけぼの会でも支部はついに温存療法に動き始めたわけですね。
川嶋 慶應病院の方はどうなったんですか。
近藤 私の外来の患者紹介は記事が出たその週からすべてストップしました。その代わり乳がん患者がいっぱい来るようになった。文藝春秋の影響は大きいとは思っていたけど、想像以上でした。
新患が週に1人でも2人でも私のところに来れば、患者がいるんだから私を辞めさせることはないだろうと思っていたんだけれど、実際そういうことになったようです。
その後、逸見政孝さんががんで亡くなったことをきっかけに文藝春秋で連載をするようになって、本物のがんとがんもどきの違いについて分析をし始めました。さらにがんの手術、放射線治療、抗がん剤、がん検診などについて深く分析しました。
その1つの集大成が『患者よ、がんと闘うな』という本になったんです。1996年に出版されました。
その中で本物のがんと「がんもどき」の区別をしたことから、がん論争が起きたんです。私のがんもどき説が、すんなり認められようなことがあると、日本のがん治療はほぼ崩壊するでしょう。そこに気づいた専門家たちから強く攻撃を受けることになった。もっとも、反論のおかげで、世間で広く話題になったことはプラスでしたが・・・。
この本を読んで、今度は乳がん患者だけではなく、がん全般に切らずに放置しておきたいという患者さんたちが僕のところに数多く集まってきた。
150人以上、本当に困った症状が出てくるまで、がんを放っておくという人たちが集まってきて、その後の経過をまとめて『がん放置療法のすすめ 患者150人の証言』という本にした。
川嶋 先生は抗がん剤は血液のがんなど必要な場合もあるけれども、日本人に多い胃がんや肝臓がん、肺がんなどには効くどころか猛毒であると言っていますよね。日本のお医者さんは抗がん剤を投与したがるとよく聞きますが本当なんでしょうか。
近藤 抗がん剤は、悪性リンパ腫とか急性白血病という血液がんとか、効果のあるがんもあるんだけど、それは全体の約1割程度です。胃がん、肺がん、乳がんとか、いわゆる固形がん、固まりを作るがんにはほとんど効かない。
それなのに投与している。患者に毒を飲ませているようなものだよ。かえって患者の体を悪くしてしまう。
でも、抗がん剤の投与をやめると、それに関わっている人たちの生活が崩壊するよね。だからできないんだ。本当はいま患者に投与されている抗がん剤の約9割は使うべきではないんだ。
また、私の言うとおりにすると、外科手術だって8割ぐらいなくなる。そうなると外科医や手術に携わっている人たちの生活も崩壊する。「がんは放置しておけ」というのは、日本の医療システムを脅かす。だから強い反発があるんですよ。
川嶋 先生は人間ドックなど定期検診も受けるべきではない。とりわけ、検診車でレントゲン撮影を受けると、X線による被曝でかえってがんになる危険性が高まると指摘されています。
近藤 一般的な健康診断(健診)については、この本(『医者に殺されない47の心得』)の中で1つだけ例を載せたけど、そもそも全部がムダなんだよね。
実は定期健診については、それを受けている人と受けないでいる人の病気になる確率を調べた調査があるんですよ。
それによると、定期健診をまめに受けている人の寿命は全く延びていないどころか短くなっている。そのうえ、定期健診で定期的に被曝してしまっている。英国の調査によると、日本は世界の主要国15カ国の中で最もCT検診回数が多い国だそうですよ。
そして、その調査ではさらに、日本人のがんが原因で死亡した人の3.2%は医療被曝が原因とされているんだ。定期的にお金をかけて健診を受けて殺されてしまうのは、何と日本人はお人よしなんだろうね。
日本は健康診断とか人間ドックとか、職場検診を強制しているけど、これはひどいよな。基本的人権の侵害、憲法違反だよ。この国に生まれた不幸だな。
川嶋 がん以外の病気についてどうですか。定期健診の効果はあるのでしょうか。
近藤 これも不要・有害。定期健診でいろいろ余計なことが見つかってしまう。例えば高血圧だとかね。それで本来は必要もない高血圧の薬を飲まされて、実は寿命を縮めている。
高血圧については、国の基準値があるでしょう。1998年に当時の厚生省が出していた基準は「上が160mmHg、下が95mmHg以上」でした。それがどういうわけか2000年に改定されて「上が140で下が90」に引き下げられたんだ。
1998年の基準だったら、いまの日本人は1600万人が高血圧という認定になるけれど、新基準では3700万人が高血圧ということになった。実に2倍以上に膨れ上がった。基準の操作で病人を作り出し、医療を受けさせようというわけだ。
そもそも年齢を重ねると血管が硬化して体の隅々まで血液を送れなくなるから血圧は高くなって当たり前。それを無理やり下げたら、体にいろいろ問題が生じてしまう。
それなのに日本人をみんなメタボにしてうまい汁を吸おうという輩がこの国にははびこっているんだな。筆頭は医療機関だけど、厚生官僚もグルだよね。天下り先づくりにご熱心だからね。
川嶋 先生は孤軍奮闘、既得権益に挑戦されていますが、仲間づくりのようなことはされないのですか。日本の医療を本格的に変えようという志のある先生たちを集めるとか。
近藤 少なくとも抗がん剤治療をしている人たちは改革したくないよね。仕事がなくなっちゃうから。がん治療ワールドの外にいる人たちは分かっていて、自分の患者には抗がん剤はやめなさいと言っているけど、そういう人たちでも表に出てきてマスコミに「抗がん剤は要りません」なんて積極的に発言する人はほとんどいない。
それに、言ったところで「専門家じゃないくせに何を言うか」ということになる。メディアにも取り上げてもらえない。
川嶋 それは日本に突きつけられた現実としては厳しいですね。既得権益の強固さは原発村以上のものがありますね。何と言うか、これは私たち日本人の中にある根っこの問題のような気がします。
これまでお医者さんは神様だから全部任せてたという。お医者さんもそうですが、「お上」という考え方ですね。自分自身で考えて自主的に行動することに慣れていないというか、自主的に行動しないようにされてきてしまった。
近藤 まぁそうだな。だからその材料となる医学的な事実というのは私がこれからも発信していくんだけど、治療を受けている人たちの意識が変わらないとだめだね。
先日、中村勘三郎さんが亡くなったでしょう。初期がんだというのに発見から4カ月で。こういうときにメディアが何を書くかというのも大きな問題だよね。勘三郎さんも人間ドックなんか行かなければ、まだ生きていたことは確実です。
川嶋 最後にお聞きしたいのですが、がんの予防方法は何かありますか。
近藤 タバコを吸っている人はやめること。あとはバランスいい食事。健診は症状が出てきてからやればいい。そこの段階で治るものは治るし。治る治らないは決まってるから。
積極的な予防法はないね。ストレスは心理的なものだから、心理状態が変わって遺伝子が変化するかというと、それは多分否定的だと思う。
精神的な影響で何らかの物質が変化して、それが遺伝子に働きかけないと。神経がいくら働いても、遺伝子を傷つけるかは疑問です。
川嶋 どうもありがとうございました。