m.yamamoto

素晴らしい日本人がいました!

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7月 272012

*素晴らしい日本人の物語を紹介します。

「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人 重松髜修(まさなお)物語」

田中秀雄=著

(草思社)

 

 是非、お時間がある時に読んでいただきたい本である。一読していただければ、戦後、巧みに語られた、つくられた、流布された物語の中に散りばめられた数々の嘘に吃驚される方も多いのではないかと思われる。相も変わらず、韓流の時代劇が、天下のNHKで恒常的に放送されている。残念なことだが、これらのドラマは、朝鮮社会の真実の歴史を伝えるものでは全くない。

 もちろん、韓国の人々が自分たちを美化する気持ちはよくわかるが、こういったドラマを日本の公共放送であるNHKが取り上げることにはもっと、節度をわきまえるべきではないのか。誰でも少し、本を読めばわかることだが、朝鮮の人々は、日本の江戸時代よりはるかに強い身分社会のなかで、陸続きの中国に属国として搾取されてきた哀しい歴史を持っている民族である。

 そのために民族意識を維持するために意図的に国をあげて反日教育をやるしか、現在、国家としてのアイデンティティを確立できない面を持つ哀しい国なのである。かといって、隣国である日本のマスコミがそれにここまで付き合う必要はどこにもないはずである。

 

ともあれ、新渡戸稲造の「武士道」を実践する素晴らしい日本人が戦前の朝鮮にいたことを少しでも多くの人に知っていただきたいものである。



*草思社公式サイトより引用

日本の朝鮮統治の歴史を公正に評価するための手がかりとなる力作評伝!

 

日韓に「感動的な関係」があった

 

 今年、二〇一〇年は日韓併合百年に当たります。本書はこの日本の統治時代に朝鮮金融組合理事として、疲弊した農村の振興に尽力した重松髜修の半生を丹念に追った評伝です。

 明治二十四年、愛媛県に生まれた重松は、旧制松山中学を卒業後、明治四十五年に東洋協会専門学校(拓殖大学の前身)の朝鮮語科で学び、大正四年、朝鮮総督府の官吏(土地調査局)となります。その二年後、「感激性のある仕事がしたい」との思いから、農民のための金融機関、朝鮮金融組合に移り、理事として平安南道江東の寒村に赴任。大正八年に起きた万歳騒擾(三・一独立運動)のさいに被弾し右足が不自由になるも、私財をなげうって近代的養鶏を指導し、養鶏によって得た卵の売上を金融組合に貯蓄させ、貯めたお金で耕牛を買うという原則をつくります。牛を買うだけでなく、その貯金は農地購入や貧困家庭の就学資金にもあてられ、ついには貧しい小作農が奮起して三十七歳にして医者になることまで起きます。当初はかたくなで、足が不自由な重松を嘲笑することもあった村の人々ですが、彼の熱意がしだいに理解されるようになり、やがて彼は「聖者」と仰がれ(二〇九頁)、昭和十一年三月、村人は感謝の意を表するために彼の頌徳碑を建立します(二〇〇頁~)。

 台湾の荒蕪地を穀倉地帯に変えたことから、地元の人々によって銅像を建てられたダム技術者・八田與一の名前は広く知られていますが、朝鮮にも人々に深く感謝された日本人がいたということです(ちなみに頌徳碑を建てられたのは重松ひとりではありません)。統治時代を評して「日韓にはかつて不幸な時代があった」といわれますが、重松の半生は双方に「感動的な関係」があったことを雄弁に物語っています。「後日談」の項で、重松の教えを受けたことがある人物(韓国有数のガス供給会社・大成工業会長)が、韓国に重松の業績を知る人がいないことを嘆いています。それは日本人も同様であり、日韓併合から百年を機に、この熱誠・無私の先人の存在を日本人自身が知ることは、両国が前向きな関係を築くうえでも実に意義深いことといえるでしょう。

一面的ではない統治の現実

 

 日本による統治期間は三十五年ですが、重松は学生時代を含めて三十一年間を朝鮮で過ごしています。本書の意義はもうひとつ、重松の足跡をたどることで統治の現実の一端が見えてくることです。統治の施策として悪名高い「創始改名」。これに抗議して自殺する人がいる一方で積極的に改名した人もいます。重松の周辺では彼の薫陶を受けた二人の人が自ら進んで創始改名をしており、その受け止め方はさまざまだったことがわかります。そしてもうひとつ。重松はその抜群の知名度から戦時中、請われて「国民総力朝鮮聯盟」の実践部長となり、朝鮮の人々の徴用、徴兵にかかわることになります。重松は内地に徴用された労働者を慰問することもありましたが、その見聞録(『国民総力』昭和十九年八月十五日号)に記された彼らの暮らしぶりは、戦後にいわれ始めた「強制連行」の言葉から連想されるイメージとは大いに異なるものであることもわかります。

日本の朝鮮統治の歴史はときに政治問題に発展するためか冷静な評価を下しにくいところがあるようですが、本書の登場で、より公正な検証が進むことを念願してやみません。

 終戦直後、聯盟実践部長の経歴から重松は牢獄に入れられます。しかしたまたま彼を取り調べた検事は、重松が与えた鶏で上級学校に進み、早稲田大学を卒業後、司法界に奉職していた「教え子」であり、彼のひそかな手配によって重松は混乱のなか、無事帰国することができました。『滝の白糸』思わせるこの奇跡的なエピソードを最後に付け加えておきます。

*著者の言葉

「私のところに東北の古い町から、B4判の紙一枚の裏表に書名と出版社、刊行年度だけが書かれた古本カタログが毎月送られてくる。そこに『朝鮮農村物語』という、なんの予備知識もなかった古本があって注文してみた。どこに興味を持ったかといえば、戦前に出た朝鮮関係の本ということだけだった。ちょうど『石原莞爾の時代』(芙蓉書房出版)を執筆している最中で、その傍らに読み始めたのだが、私は次第にその世界に引き込まれていった。

読み終わったとき、私は不思議な感動に包まれていた。日本の朝鮮統治時代に日本人と朝鮮人の間にこんなに麗しく感動的な出来事があったのかという事実に驚くと共に、主人公の重松髜修(まさなお)とは一体どういう人物なのだろうという探求心が沸々と起こってきた。

その調査の過程で、石原莞爾ともまんざら無関係ではないことが分り、私は『石原莞爾の時代』(48頁)にそのことを書き付けた。

石原の本の刊行後、私は猛然と重松探索に邁進した。『続朝鮮農村物語』という著書もあることが分り、国会図書館でじっくり2日かけて読んだ。そこにあるたった1行から拓殖大学の卒業生ということが分かった。私には拓大に勤める友人がいる。彼の協力を借りて、私は重松資料の探索に全精力を傾けた。そして戦後は故郷の愛媛県に帰っているらしいことも分った。

拓大卒業生の団体の学友会を通して遺族を調べてもらった。学友会は愛媛県支部長の連絡先を教えてくれた。支部長は松山市議会議員の土井田学氏であったことは幸いしたと思う。個人情報保護法の時代である。土井田氏のおかげで、『朝鮮農村物語』に出てくる愛らしい娘さんがご存命で、愛媛県の松山市に住んでいることが分った。

松山に行って土井田氏に会うと、偶然のことに、重松髜修の孫に当たる邦昭さんとは高校の同窓生であった。

娘さんの晃子さんと松山の自宅で会い、色々の思い出話を聞いているときに、『朝鮮農村物語』には全く出てこない話がなにげなく出てきた。朝鮮農民に感謝され、頌徳碑が建てられていたというのだ。まるで台湾の八田與一ではないか!

八田與一とは、日本統治下の台湾で烏山頭ダムを作り、荒涼たる大地だった嘉南平野を穀倉地帯にして、農民から感謝され、銅像を建てられた日本人技師である。

自伝というべき『朝鮮農村物語』にこの頌徳碑の話が出てこないのは、重松髜修という人の奥ゆかしさであろう。

ただ朝鮮から日本に引揚げてくるときに荷物があらかた失われた晃子さんには、証明となる写真もなく、建てられていたはずの平安南道江東郡は現在の北朝鮮にあり、私には行く手だてもない。

しかし帰京する新幹線の中で私はふと思った。重松氏が関係していた金融組合の機関紙を探せば、その手がかりがあるかもしれないと。国会図書館その他での必死の探索の結果、『金融組合』誌の口絵に、頌徳碑の記念写真を見つけたときには、宝物を探し当てた思いで有頂天となった。

そして是非ともこの人物の伝記を書き上げなければいけないと思った。日本の朝鮮統治の真実の一端が重松髜修の人生にあると思ったからであり、この写真はその歴然たる証拠となるからだ。まさに重松髜修は朝鮮における八田與一なのである。

その思いで、私はこの伝記を書き上げた。朝鮮統治史において戦後は忘れられていた重松髜修という人物を、我々日本人は歴史に残さなければいけない。記憶にとどめておかなければならない。それは我々の義務ではないだろうか。

重松は日本の朝鮮統治35年のうち、31年を当地で暮らしている。おまけに、有名な3・1独立運動で暴徒に拳銃で右足を撃たれて死にかけ、一生を不具の身となった体験を持っている。つまり朝鮮人の憎悪のこもった銃弾を受け止めた身で、貧しく報われない朝鮮農民の中に入っていき、その暮らしを豊かにし、感謝されて頌徳碑を建てられたのである。

いわば彼は朝鮮人の憎悪を大いなる愛へと昇華させた奇跡の人物なのである。朝鮮統治も昭和の時代になると「内鮮融和」から「内鮮一体」というスローガンが謳われるが、ある意味で、重松という人物はその象徴的存在だったのだろう。

彼は貧しい小作農民を医師にもしている。彼の持つ潜在力を引き出したのである。そういったことから彼は朝鮮中で名を知られていく。遂には戦時中には朝鮮人の戦争への協力を促すために朝鮮聯盟の実践部長になる。その経歴が戦後は問題とされて牢獄に入れられてしまう。しかし彼を逃がそうとする検事がいた。重松のおかげで早稲田大学に進めた人物である。彼は重松をひそかに日本に逃がすのである。」

<昭和11年(1936年)4月5日朝鮮農民の手により、重松髜修の頌徳碑が建立される。平安南道江東群江東面芝里にて。碑文は「江東金融組合 理事 重松髜修記念碑」。>

 本年は日韓併合からちょうど100年になる。いろんな形で、これを論じる人々があふれるだろう。しかし、朝鮮人から聖者のように尊敬されていた日本人がいたことを、我々日本人も、韓国人も忘れてはならない。

両国関係には、「かつて不幸な時期があった」とよく言われる。しかし、日本統治の35年間には、双方の「感動的な関係があった」、そのことを重松髜修の人生は雄弁に語っているのである。重松髜修の伝記はそれを日韓双方の人々に知らしめる意義があると私は信じている。」

<田中秀雄プロフィール>

1952年生まれ。日本近現代史研究家、映画評論家。東亜連盟の流れをくむ石原莞爾平和思想研究会をはじめ、台湾研究フォーラム、日韓教育文化協議会、軍事史学会、戦略研究学会等の会員、福岡県出身。慶應義塾文学部を卒業。

主な著作:『映画に見る東アジアの近代』(芙蓉書房出版、2002年9月)、『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』(芙蓉書房出版、2008年6月)、『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(芙蓉書房出版、2008年6月)、『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(草思社、2010年2月)。

 ところで今でも、多くの日本人が経済利益とは関係ないところで、世界の人々のために献身的な努力を続けている。三年前にエボラ出血熱やSARSの現場でも活躍する感染症のスペシャリストである進藤奈邦子さんという女性医師のことを紹介する良い番組があった。多くの日本人は知らないが、WHOのような国際機関は、日本人と日本が提供するお金がなかったら、実際には動かないと言ってもよい状況のようである。

日本という不思議の国で、韓流ドラマがこれほど放送されるのも、ホリエモンが持て囃されたのも、ソフトバンクの孫 正義氏がよくマスコミに取り上げられるのも、フランスのル・モンドに指摘されるまで、NHKが官邸前の原発反対デモを放送しなかったのも、当たり前だが、すべて意図的なものである。

改めて「米国教育使節団報告書」を読む

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7月 242012

 日本の近現代教育は、「被仰出書(おおせいだされしょ)」太政官布告214号、<明治5年:1872年>、「教育勅語」<明治23年:1890年>、今回改めて紹介する「米国教育使節団報告書」<昭和21年:1946年>、この三つの文書によって形づけられてきた。そして、現在まで続く日本の戦後教育を決定づけたのが、「米国教育使節団報告書」である。この文書は報告書という体裁をとっているが、実際には、当時日本を支配していたGHQの勧告書とも言うべきものであり、米国の意図のもとに、日本を改良?しようというものだった。



それでは、美辞麗句を取り除いて浮かび上がってくる米国エリートの真意は何か。

結論から先に書いてしまえば、それは、「日本人を日本人でなくすこと、アメリッッポン人に変えることである。」

 どうしても、人のいい日本人は、欧米のエリートの「悪の論理」についていけないので、美辞麗句に惑わされてしまう。「そうは言ってもいいことも言ってくれている」と。たとえば、1820年、世界の所得の約60%は、中国、インド、東南アジア、朝鮮、日本で占めていた。西洋が豊かになったのは、歴史から見れば、ごく最近のことなのである。そして、それは、帝国主義、植民地支配という手段でもたらされたものだ。そして、2025年には、1820年の比率に戻る=アジアに富が戻ってくると推定されている。このことを現在、我々は「アジアの時代」と呼んでいるのである。大航海時代以降の植民地からの富の収奪によってのみ、西洋は、産業革命を可能にする資本の蓄積をすることができた。そのために失われた民族、言語がどれだけあったかを、考えると背筋が寒くなるほどである。

以前のレポートから二つ文書を引用させていただく。以下。

ブレンジスキー元大統領補佐官は「アウト・オブ・コントロール」という自著の中で次のようなことを書いている。

「日本は軍事大国化が世界からの孤立に繋がることを認識している。日本のリーダーたちは、それよりも同盟国で最強の米国と密接に関係を保ち、米国の主導のもとにパートーナー・シップを築くことが望ましい姿だと考えている。その先には太平洋をはさんだ日米コミュニティ=アメリッポンが見える。」

 

「自由民権 村松愛蔵とその予告」(柴田良保著)より

「日本人が自発的に日本人でなくなる道をとるなら、それは日本民族の集団自殺であるが、それでも良い。だが、もしも日本人がその歴史的民族的伝統を復活させるようなことが、あれば我々キリスト教、ユダヤ財閥、フリーメーソン連合はただちに日本を包囲して今度こそ、日本民族を一人残らず、皆殺しにする作戦を発動するであろう。」

 だからこそ、この報告書には、「国語改革」と称して日本語のローマ字化を進めるべきだなどというとんでもないことが書いてあるのである。以下、同報告書より引用。

「国語の改革」

 

 われわれはいまや、もし日本の児童への責任感が見逃してさえくれるならば、慎しみのためにも気楽さのためにも、むしろ避けるべきだと思われる一つの問題に直面する。国語は、一つの有機体として、国民生活と非常に緊密な関わりをもっているので、外部からこれに迫ろうとするのは危険である。しかし、この緊密性こそ、純粋に内部からの改良を遅らせる働きもしているのである。

中間の道というものがある。ここでもそれが中庸の道となるであろう。国語改革の仕上げが内部からのみ行なわれうるだろうということは、われわれもよく承知している。だがその手はじめは、どこからでも刺激を受けてよいであろう。われわれが使命と感じているのは、こうした友情のこもった刺激であり、またそれとともに、来るべき世代のすべての人々がかならずや感謝するであろうことがらにただちに着手するよう、現在の世代を極力激励することである。

 われわれは、深い義務感から、そしてただそれのみから、日本の書き言葉の根本的改革を勧める。

国語改革の問題は、明らかに、根本的かつ緊急である。それは小学校から大学に至るまでの教育計画のほとんどあらゆる部門に影響を与える。この問題に対する満足すべき解答が見出せないとすれば、意見の一致をみた多くの教育目標を達成することは非常に困難になるであろう。たとえば、諸外国についての知識を深めることも、日本の民主主義を促進することも、阻害されることになるであろう。

教育の過程において、さらにすべての知的成長において、国語の役割が非常に大きいことは一般に認められている。在学期間中も、その後の生活においても、国語は学習上の主要な要素である。日本人は他の国民と同じく、音と文字とで表わされた言語記号を用いて考える。教育の全過程の質と能率は、これらの記号の特徴のいかんによって深く影響を受ける。

書かれた形の日本語は、学習上の恐るべき障害である。日本語はおおむね漢字で書かれるが、その漢字を覚えることが生徒にとって過重な負担となっていることは、ほとんどすべての識者が認めるところである。初等教育の期間を通じて、生徒たちは、文字を覚えたり書いたりすることだけに、勉強時間の大部分を割くことを要求される。教育のこの最初の期間に、広範にわたる有益な語学や数学の技術、自然界や人間社会についての基本的な知識などの習得に捧げられるべき時間が、こうした文字を覚えるための苦闘に空費されるのである。

漢字を覚えたり書いたりするために法外な時間数が割り当てられるが、その成果には失望させられる。生徒たちは、民主的な市民となるに必要最低限の言語能力に、小学校を卒業した時点ではまだ欠けているであろう。彼らは新聞や大衆雑誌のような一般的読み物を読むにも困難を感じる。一般に、現代の問題や思想を扱った書物を理解することはできない。とりわけ、彼らは、読書を学校卒業後の自己啓発のための手軽な道具とできる程度に国語を習得することには、一般に成功してはいないのである。しかも、日本の学校を参観した者で、生徒たちが精神的には明敏であり、著しく勤勉であることを否定しうる者は一人もいないのである。

市民としての基本的な義務を効果的に果たすためにも、個々人は、社会問題に関わる事実についての簡単な記述の内容を理解できねばならない。また、学校を卒業したのち、自分自身の運命に直接影響を与える諸々の状況を一歩一歩乗り超えることができるような、一般教育の諸要素を身につけるべきである。もし児童が、初等学校を卒業する以前に、こうした事柄について第一歩を踏み出していないなら、それ以後は、ほとんど自力で踏み出す暇はなく、またその気にもならないであろう。日本の児童の約八十五パーセントが、この時期に学校教育を終えてしまうのである。

中等学校に行く残りの十五パーセントについても、国語の問題は残されている。これら年長の少年少女たちは、国字記号を覚えるという果てもない仕事に苦労し続けるのである。いったい、いかなる近代国家が、このようにむずかしく、しかも時間ばかり浪費する表現手段や意志疎通手段を持つという贅沢への余裕をもつだろうか。

国語改革の必要性は、日本ではかなり前から認められている。すぐれた学者たちがこの問題に多大な注意を払っており、著述家や編集者を含めた多くの有力な市民が、いろいろな可能性を探究してきた。現在では、約三十ほどの団体がこの問題に取り組んでいると報告されている。

 おおざっぱに言うと、書き言葉の改革に対して三つの提案が討議されている。第一のものは漢字の数を減らすことを要求する、第二のものは漢字の全廃およびある形態の仮名の採用を要求する、第三は漢字・仮名を両方とも全廃し、ある形態のローマ字の採用を要求する。

これら三つの提案のうちどれを選ぶかは容易な問題ではない。しかし、歴史的事実、教育、言語分析の観点からみて、本使節団としては、いずれ漢字は一般的書き言葉としては全廃され、音標文字システムが採用されるべきであると信ずる。

音標文字のシステムは比較的習得しやすく、そのため学習過程全体を非常に容易なものにするであろう。まず、辞書、カタログ、タイプライター、ライノタイプ機やその他の言語補助手段の使用が簡単になる。さらに重要なのは、日本人の大多数が、芸術、哲学、科学技術、に関する自国の書物の中で発見できる知識や知恵に、さらに近づきやすくなることである。また、これによって、外国文学の研究も容易になるであろう。

漢字に含まれているある種の美的価値やその他の価値は音標文字では決して完全に伝えられえない、ということは容易に認めることができる。しかし、一般の人々が、国内および国外の事情について充分な知識をもち、且つ充分に表現できなければならないとすれば、彼らは、読み書きについてのもっと単純な手段を与えられなければならないのである。

統一的且つ実際的計画の完成は遅くてもよいであろう。だが、いまこそそれを始める好機である。

本使節団の判断では、仮名よりもローマ字のほうに利が多いと思われる。さらに、ローマ字は民主主義的市民精神と国際的理解の成長に大いに役立つであろう。

ここに多くの困難が含まれていることもわかっている。多くの日本人が躊躇する自然の気持もよくわかる。また提案された改革の重大さも充分自覚している。しかしそれでも、あえてわれわれは、次のことを提案するのである。

ある形のローマ字が、すべての可能な手段によって一般に使用されること。

選択された特定のローマ字の形態は、日本人の学者、教育界の指導者、および政治家から成る委員会によって決定されること。

この委員会は過渡期における国語改革計画をまとめる責任を引き受けること。

この委員会は新聞、定期刊行物、書籍その他の文書を通じて、学校および社会生活、国民生活にローマ字を導入するための計画と実行案とをたてること。

この委員会はまた、さらに民主的な形の話し言葉を作り出す手段を研究すること。

子供たちの勉強時間を不断に枯渇させている現状に鑑み、この委員会は早急に結成されるべきこと。適当な期間内に、完全な報告と包括的な計画案が公表されることが望まれる。

この大事業に乗り出すために任命された国語委員会は、新しい形式の使用から生ずる学習過程についてのさまざまな資料を収集する国家的言語研究機関にまで発展するかもしれない。そうした機関は他の国々の学者たちを惹きつけることになるであろう。なぜなら、日本のこうした経験の中から、多くの人々が、どこにでもただちに役立つ諸々の着想を発見するであろうからである。

 いまこそ、国語改革のこの記念すべき第一歩を踏み出す絶好の時機である。おそらく、このような好機は、これからの何世代もにわたって二度と来ないかも知れない。日本人の眼は未来に向けられている。日本人は、国内生活においても、また国際的指向においても、簡単で能率的な文字による伝達方法を必要とするような新しい方向に向かって進み出している。同時に、戦争は、日本の言語と文化を研究するよう、多くの外国人を刺激してきた。こうした興味が今後とも保持され、育成されうるためには、新しい記述方式が開発されなければならないであろう。言語というものは広大なる公道であって、決して障害物であってはならないのである。

この世に永久の平和をもたらしたいと願う思慮深い人々は、場所を問わず男女を問わず、国家の独立性と排他性の精神を支える言語的支柱をできる限り崩し去る必要があるものと自覚している。ローマ字の採用は、国境を超えた知識や思想の伝達のために大きな貢献をすることになるであろう。(引用終わり)

 

 ところで、子供の頃にこの物語を読んだ記憶をお持ちではないだろうか。以下、引用。

 

アルフォンス・ドーデ「最後の授業」

 

 フランツ少年はその日も國語の宿題をしてをらず、おまけに朝寢坊、いつそ授業を怠けて何處かへ遊びに行かうかとも考へた。フランス語のややこしい分詞法の諳記などより、風光明媚なアルザスの野原を驅け廻るはうが遙かに樂しい。が、やはりそれは良くない、さう思ひ直して、大急ぎで學校へと向つた。

 ところが、教室は何時になく靜かだし、普段は恐い擔任のアメル先生も遲刻を咎めず、優しく著席を促した。しかも先生は正裝してゐる。更に奧の席には、元村長を始め地元の大人たちが沈痛な面持で腰を下ろし、或る者は古い初等讀本を膝の上に開いてゐる。「教室全體に、何か異樣な嚴かさがあつた」。やがて先生が、優しく且つ重々しく語り始める。

 「皆さん、私が授業をするのはこれが最後です。アルザスとロレーヌの學校では、ドイツ語しか教へてはいけないといふ命令が、ベルリンから來ました…… 新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後の授業です。」

 普佛戰爭でフランスが負けたためアルザスはプロシャ領となり、アメル先生は退職を餘儀なくされるのである。そんな「最後の授業」だといふのに、宿題を忘れたフランツ少年は案の定、指名されても碌に答へられず、これまでの度重なる不勉強を心底恥ぢた。だが、今日ばかりは先生も叱らずに言つた、惡いのは君たち子供だけではない、教育を輕んじた點では吾々大人も同罪だ、「いつも勉強を翌日に延ばすのがアルザスの大きな不幸」であり、これではドイツ人たちにかう言はれても仕方がない、「どうしたんだ、君たちはフランス人だと言ひ張つてゐた。それなのに自分の言葉を話す事も書く事も出來ないのか!」

 これで最後かと思ふと、教師も生徒も自づと發奮した。アメル先生が「これほど辛抱強く説明し」てくれた事は今迄に無かつたし、フランツ少年も「これほどよく聞いた事は一度だつて無かつた」。先生は熱辯を振るひ、「世界中で一番美しい、一番はつきりとした、一番力強い言葉」であるフランス語を決して忘れてはいけない、何故なら「或る民族が奴隸となつても、その國語を保つてゐる限りは、その牢獄の鍵を握つてゐるやうなものだから」と説いた。そして遂には感極まつて絶句し、黒板に大きな字で力強く「フランス萬歳!」と書いて、「最後の授業」は終つたのである。(引用終わり)

アルフォンス・ドーデ(1840~97)は独仏戦争(1870~71年)を題材にいくつかの短編小説を書いた。それをまとめて73年に刊行された「月曜物語」の中の一編が「最後の授業」。フランス語の美しさを説く「アメル先生」の迫力がすごい。「先生がこんなに大きく見えたことはありません」と作中で「フランツ」少年が語っている。母国語を奪われる状況の重大さを、アメル先生の「大きさ」が物語っている。

いい悪いは、別にして、日本の戦後教育を決定づけた報告書である。現在の日本の教育問題を考える上では、必読書であることは、間違いない。

 

 大津市のいじめ自殺事件、豊橋市の野外教育活動において起きた三ヶ日ボート転覆事故における市、教育委員会の一般常識から理解しがたい対応等を考えると、戦後GHQによって植え付けられた教育制度が、現在の日本社会において機能不全に陥っている姿が、はっきりと見えてくる。ここでも、戦後日本人が主体的に教育を考える機会が巧みに米国によって奪われていた事実に突き当たる。

こんな現実があるために、ある学校法人の理事長が

「戦後日本の教育をダメにしたのは、GHQが派遣したアメリカ教育使節団と、それに迎合した日本の教育者たちだ。そのおかげで、わが国にある古き良きものはすべて叩き潰され、残骸をさらすことになった。」というような本音を語ることになるのだろう。

 もちろん、いろいろなご意見があることは、承知しているが、この報告書が日本の戦後教育を方向付けたことを否定する方はおられないだろう。だからこそ、すべての思い込みを捨てて読み直す必要があるのではないか。

 日本人が主体的に自分の国の教育を見直さなければならない時代に入ったことだけは、間違いないはずだ。

<参考資料>

(1)中日新聞【社会】 http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012071890010012.html

調査委の人選焦点に 大津の中2自殺

2012年7月18日 01時00分

 

 大津市立皇子山(おうじやま)中2年男子生徒=当時(13)=が昨年10月に飛び降り自殺した事件で、大津市の越直美市長は17日、近く設ける外部調査委員会で「いじめと自殺の因果関係はあった」という前提で調査に乗り出す考えを明らかにした。

 「学校や市教委の調査が不十分だった。もう一度調査すれば、新事実が確認できると思う」。生徒の両親側が同級生らのいじめが原因として市をはじめ、同級生3人とその保護者に7700万円の損害賠償を求めた訴訟の第2回口頭弁論が大津地裁で開かれた後、越市長は語った。

 弁論で大津市側は「いじめと自殺の因果関係を今後認める可能性が高く、和解の協議をさせていただきたい」と両親側に伝えた。だが、これまで市は「いじめを苦にしていたと断定できず過失責任はない」との姿勢を示していただけに、両親側の不信は根強い。

 両親側は、市の外部調査にも多くの注文をつける。委員会の公開はもちろん、両親側が委員を人選し、聞き取り調査には大津市職員が関与しないことなど5点を求める。代理人の石川賢治弁護士は、専門家の大学教授らに委員就任の打診を既に始めたことを明かした。

 一方、市教育委員会の沢村憲次教育長は「いじめが自殺の一因である可能性は高い」とするものの「2番目や3番目の要因も明らかにされるべきだ。家庭環境がどうなのか、学校から聞いている」と、自殺は複合的な要因があったとする主張を変えていない。

 文部科学省によると、自殺があった場合、学校は全教員や生徒から聞き取りをし、遺族が望む場合は学校や市教委が主体ではない第三者の調査委を設置できる指針を昨年6月に全国に通知している。児童生徒課の担当者は「調査委の人選は、可能な限り遺族の意見を聴いてほしい。たとえ係争中でも、調査委は中立性を重んじられるもので、問題を突き詰められる」と話している。

(2)東愛知新聞より(2012年 5月2日)

「西野さん両親が豊橋市など提訴」

~安全配慮義務の責任追及、名地裁豊橋支部へ提出、浜名湖の章南中ボート転覆事故~

 

浜名湖で一昨年6月に起きた豊橋市章南中学校のカッターボート転覆事故で、死亡した西野花菜さん(当時12歳)の父親の友章さん、母親の光美さんが1日、名古屋地裁豊橋支部に総額6829万円の損害賠償請求の訴えを起こした。被告は、「三ヶ日青年の家」指定管理者の小学館集英社プロダクションと同施設設置者の静岡県、そして学校設置者の豊橋市。第1回口頭弁論は早ければ6月に開かれる。

(加藤広宣)

 友章さんは午後2時すぎ、訴訟代理人の小林修、菊地令比等弁護士とともに名古屋地裁豊橋支部へ訴状を提出した。

 訴状は10日後には被告3者のもとに郵送され、各被告は不服があれば答弁書で反論する。口頭弁論は公開で行われ、原告および被告3者が一堂にそろう。

 指定管理者と静岡県はすでに事故責任を認めていることから、訴状では豊橋市の責任を中心に列挙。具体的には①引率教諭は生徒の体重比を考慮せずに座席配置を決めた②校長は出航前、天候に関する調査を怠った③出航後、早い段階で救助要請ができたのに、要請は35分後だった④三ヶ日青年の家に対して、乗船者名簿の提出を怠った―など9項目にわたって安全配慮義務を怠ったと指摘した。

 今回の提訴について、西野さんは「豊橋市の責任を明確にすることで、今後の学校教育に生かしてほしかったからだ」と説明。代理人の小林弁護士は「裁判所が市の責任を認めれば、教師たちの意識も変わる。子どもたちの教育に責任を取ろうという機運も生まれるはずだ」と説明し、訴訟の意義を訴えた。

 請求額6829万円の内訳は、逸失利益(花菜さんが18歳~67歳に得られる収入から生活費など差し引いた額)が4429万円、慰謝料が2400万円。

 提訴された豊橋市の佐原光一市長は「これまでの取り組みやご両親に対する誠意が伝わらず、提訴にまで至ったことは大変残念に受けとめている。訴状が届いたら、内容を吟味して対応したい」とコメントを発表した。

(3)「岐路に立つ教育委員会制度」

http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_1003913_po_20070112053.pdf?contentNo=1

三島由紀夫と司馬遼太郎

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7月 172012

 もし、三島由紀夫氏と司馬遼太郎氏が現在も元気に生きておられたら、2011年 3月11日以降の日本社会をどのように見られただろうか、興味深い処である。

もちろん、お二方とも現在の日本社会を肯定されるはずはないが、それぞれの個性でどのように今の日本社会を表現されたか、読んでみたい、もしくは「英霊の声」のように御霊を呼び出して聞いてみたいものである。

 そんな興味もあって、「二人は真逆の道から一つの失望にたどり着いた。」という言葉に惹かれて、松本健一氏の「三島由紀夫と司馬遼太郎」(~「美しい日本」をめぐる激突~)という本を読んでみた。



 振り返ってみれば、1970年 11月25日、水曜日、私の記憶が正しければ、大変良い天気の日だった。まだ、小学生だった私が、暗くなるまで目一杯、外で遊んで家に帰ると夕刊がきていた。その日は、日本の文豪三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、「天皇陛下万歳!」と叫んで、自裁した日だった。まだ、三島の本を読んだことのない私にも軍医だった父が、夕餉の時に新聞を読みながら、発した「三島はよくやった!」という言葉が、いまだに脳裏に残っている。不思議なことに子供だった私は、父が何を訳のわからないことを言っているんだとは、全く思わなかった。訳もわからず、そんなものなのかと納得していたのだ。

 1970年と言えば、あの堺屋太一(本名池口 小太郎)氏がプロデュースした大阪万博の年だった。小学生だった私は、町内会、学校、家族と共にこの「不思議な演し物」の見学に数回も連れていかれた。「人類の進歩と調和」というテーマに抵抗するかのような岡本太郎氏の「太陽の塔」、今では本物かどうかもわからない「月の石」、今から思えば、本当に不思議な博覧会だった。

 ところで、教科書や参考書が新品同様で、後輩に吃驚されるほど、学校の勉強が嫌いだった私は、テレビを見ることと、本を読むことで時間を潰していた情けない学生だった。もちろん、大河ドラマの原作だった司馬遼太郎氏の本も時間を潰すためによく読んでいた。そんな私が、三島由紀夫氏の文章を初めて読んだのは、十五歳の時だった。

「詩を書く少年」、「岬にての物語」を読んだ衝撃は、今でも残っている。たしか、仏文学者の渡辺一夫氏は「誤植と見間違うばかりの華麗な文体」というような、褒めているのか、貶しているのかわからない不思議な表現をしていたと思うが、私が文章の持つ不思議な魅力を三島の文章によって初めて知ることになったことだけは、確かだ。

かといって私は文学青年にはならなかった。学校の勉強があまりにつまらないので、それらの本を読んでいたというだけだった。しかし、そんな私にも忘れられない三島の言葉がある。「私の中の二十五年」というエッセイの文章である。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。

それでもいいと思っている人たちと、私はクチをきく気にもなれなくなっているのである。」

 一方、司馬遼太郎氏も1996年には、バブル経済の日本を下記のように書いていた。

「物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、右の青ネギ畑の翌年の昭和四十年に一坪四百五十万円だったものが、わずか二十二年後の昭和六十二年には、一億五千万円に高騰していた。

 坪一億五千万円の地面を買って、食堂をやろうが何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。一年も所有すればまた騰り、売る。

 こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。(中略)でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう。」 

 

 ところで、この本の中には、興味深いさまざまな指摘がある。

たとえば、司馬遼太郎の『街道をゆく』全43巻をすべて読んだ著者は、25年にわたって書き継がれたこのシリーズにおいては「天皇の物語」がほとんど無視されていることに気がつく。この連載の第1回「湖西のみち」の書かれたのが三島自決直後であったという事実を発見するとともに、「近江」紀行であるにもかかわらず、そこには大化改新を行い、近江大津京をつくった天智天皇の記述が一切ないことに注目する。

さらには、三島由起夫の死をはさんで5年間(68-72年)新聞連載された『坂の上の雲』には、日露戦争中に四度にわたって開かれ、天皇自らが「親臨」した御前会議の場面が一度も描かれていないという興味深い事実も指摘している。以下。

〈司馬にとって日露戦争は、正岡子規や東郷平八郎の副官だった秋山真之、それに沖縄の漁師など国民一人ひとりが、歴史の歯車を回わした「国民の戦争」であった。それを「天皇の戦争」にしないため、乃木伝説はもちろん、天皇の発言という事実にもふれなかったのである。

『坂の上の雲』は、「国民の戦争」を描こうとした、司馬遼太郎の仮構にほかならない〉

もちろん、秋山真之が昭和史を揺るがした出口王仁三郎の大本教の熱心な信者だったことにも一切触れていない。

 このように三島事件の衝撃は、「天皇の戦争」ではなく「国民の戦争」を描こうとしていた司馬の意思と真っ向からぶつかり、そしてその後の司馬の針路に大きな影響を及ぼしている、そのことを著者は的確に指摘している。

 その意味で、三島自決の1ヶ月後に行なわれた鶴見俊輔との対談「日本人の狂と死」も興味深い。ここで司馬は、終戦の直前、米軍の本土上陸の際には東京に向かって進軍して迎え撃て、と命じた大本営参謀に、途中、東京からの避難民とぶつかった場合の対応を尋ねる。

 すると、「その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。……『ひき殺していけ』と」。司馬は「これが、わたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点です」と語る。

松本氏は、この逸話はおそらく「大嘘つき」という褒め言葉をもらったこともある司馬遼太郎の創作ではないか、と推測しているが、「それは三島事件の衝撃のなかで作成されたものなのではないか」と考える。すなわち、三島が彼自身の「美しい天皇」像に殉ずべく、狂気を発して自決するのを見た司馬は、「戦後的なるものの擁護者たるべく、大本営参謀の『ひき殺していけ』という発言を作り出したのではないか。司馬自身が戦後神話をつくった」のではないかと読み解く。三島とはいかに対立せざるを得なかったかという構図が見事に浮き彫りにされている。

 司馬遼太郎はやがて86年から『文藝春秋』誌上に「この国のかたち」の連載を始める。

「三島さんの刺激的でラジカルな国家論に対して、普通の世間の人々の耳目を集める形で、国家というものをソフトに静かに説く。ある意味では社会の混乱を安定化、鎮静化させる役割を担って」いくことになるのだが、時評的発言においては次第に、日本の行く末に対する危機感を表明するようになる。

そして絶筆となった「風塵抄――日本に明日をつくるために」では、バブル経済に狂奔する日本を憂い、このままでは「亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう」と痛憤の思いを隠さない。この記事が新聞に掲載された96年2月12日、司馬は腹部大動脈瘤の破裂で死去する。

 後に、作家の塩野七生さんが『朝日新聞』のインタビュー記事(「塩野七生の世界」96年6月24日夕刊)の中で、「司馬先生は、高度成長期の日本を体現した作家です。代表作の表題どおり、『坂の上の雲』を眺めながらまい進してきた日本人の思いを表現した。……バブルだって、遠くから見れば、青空に白く美しく浮かんだ、坂の上の雲だった。先生の死は象徴的でもある。実に悲壮な死に方をされましたよね。日本のことを心配されて。やはり一つの時代が、明確に終わったんだと思う」と追悼している。

 

小生の考えでは、三島由紀夫と司馬遼太郎は、日本の戦後復興によって生まれた作家である。言葉を変えて言うなら、二人とも「日本経済の高度成長という時代」と寝た作家である。そのために司馬氏は、明治という国家を肯定し、戦前を否定するという独特の歴史観を高度成長時代に提供し、経済復興に邁進する日本人に対して応援讃歌を書いた。

一方、三島氏は、豊かになっていく日本人に芸術至上主義による華麗な文学空間を提供した。明晰な三島氏は、経済大国になっていこうとする国のなかで、日本人の文化が失われていく危機感を露わにしていく。そして、1970年、高度成長の一つの頂点を象徴する大阪万博の年に、自分を流行作家にした戦後という時代を全否定すると言う行動に打って出る。

「リアリズムとロマン主義」、「朱子学と陽明学」、「高杉晋作と吉田松陰」、「西郷隆盛と大久保利通」、「乃木希助と児玉源太郎」、「天皇の戦争と国民の戦争」、「「私」の文学」と「「彼」の文学」、著者の指摘する三島と司馬のアナロジーも興味深い。

 しかしながら、21世紀の日本の未来を切り拓くためには、裏で英国の強い影響を受けた明治維新、日清戦争、日露戦争、米国に屈服させられた1945年の大東亜戦争敗戦、そして、現在も米軍占領下にある日本、この近現代史をありのままに冷徹に認識して、乗り越えないかぎり、新しい日本は見えてこない段階に入っている。

三島氏が予想した空虚な経済大国の地位さえ、今のままでは危ういものとなっているのが現実ではないのか。今の日本にはそれが見えている人と見えていない人がいるようだ。そして、見えている人の中には、「自分さえ良ければいい、今さえ良ければいい」と、故意に無視している人たちもいる。

 

*参考資料

動画 「三島由紀夫、松本清張事件に迫る」

   その一http://www.youtube.com/watch?v=V5HIkId_fSY

   その二http://www.youtube.com/watch?v=LuqyZ6MmdiQ&feature=relmfu

   その三http://www.youtube.com/watch?v=7M_UeRW87yg&feature=relmfu

   その四http://www.youtube.com/watch?v=6QG5iMUa5hA&feature=relmfu

   その五http://www.youtube.com/watch?v=ypp6Bxk2iO8&feature=relmfu

この番組の企画・構成をあの松岡正剛氏がしているのも興味深い。

 

<追 記>

 ところで、現在話題になっている尖閣問題だが、石原慎太郎氏は、何のためにこの問題を大きくし、日中関係の摩擦を大きくしているのか、図りかねるところである。

文学においても三島氏が石原氏の作品を正当に評価したにもかかわらず、褒められた側の石原氏には三島氏の肉体的コンプレックスを見透かしたような発言が多く、文学評価とは全く違う週刊誌ネタのようなもので、三島氏を貶していたことが思い出される。

はっきり言ってしまえば、三島氏は世界にその名を知られて作家だが、石原慎太郎氏は、世界的に名前を知られた作家ではない。文学的才能では比較にもならないというのが客観的現実だろう。

 現在、米国が、お金を一番借りているのが、日本と中国である。極端な言い方をすれば、日本と中国が、世界地図からなくなってしまえば、借金をアメリカは返す必要がなくなるのである。日中の摩擦が激化すればするほど、分断統治を目指すアメリカにとっては都合が良い。このぐらいのことを、かつて「ノーと言える日本」を書いた石原氏が理解していないはずはない。石原氏は、明らかにわざと今回の騒ぎをおこしているのである。そのことによってどんな利益が米国から石原氏に供与されるのか、たぶん、息子の石原伸晃氏のことを考えてアメリカのご機嫌を取っているのかもしれない。先般、本の紹介をした元外交官の孫崎 亨氏が、ツィーターで的確な指摘をしているので、紹介させていただく。以下。

「石原は似非愛国主義

 

石原批判:尖閣購入をぶち上げることによって、石原知事は英雄的扱いを受けている。待って欲しい。尖閣諸島は本来東京都と何の関係もない。彼は東京都と関係ある所でどうしているのか。そこで「愛国的」に振る舞っているか。

豊下楢彦氏は世界8月号で〈「尖閣購入」問題の陥穽〉を発表。尖閣の考察は素晴らしいがここでは石原氏に絞りたい。東京都の米軍横田基地の存在である。 

『東京新聞』は「横田基地は必要なのか」と題する長文の社説(513日付)において、現在の同基地が、輸送機とヘリがわずかに発着するだけの「過疎」の状況である一方で、18県の上空を覆う横田空域が「米軍の聖域」になっている現状を指摘し、「首都に主権の及ばない米軍基地と米軍が管理する空域が広がる日本は、まともな国といえるでしょうか」と問いかけた。

 

まさに石原流の表現を借りるならば、「独立から60年も経って首都圏の広大な空域が外国軍の管制下にあるような国なんか世界のどこにあるんだ」ということであろう。しかし、この威勢のよい啖呵の矛先は、13年前に「横田返還」を公約に掲げて都知事に就任した石原氏当人に向かうことになる。石原氏は横田基地の即時返還を米国に正面から突きつければ良いのではないか。

 

1972年の沖縄返還に際し米国は“沖縄と一緒に尖閣諸島の施政権は返還するが、主権問題に関しては立場を表明しない”との方針を決定。日中間で領土紛争が存在すれば、沖縄の本土への返還以降も“米軍の沖縄駐留は、より正当化される”という思惑。尖閣諸島の帰属に関するニクソン政権の“あいまい”戦略は日中間に紛争の火種を残し、米軍のプレゼンスを確保する狙い。

 

この構図は北方領土と同じ。日本とソ連が領土問題で紛争状態の永続化することが米国のメリットと判断。尖閣諸島の帰属問題で米国が「あいまい」戦略をとり、日本と中国が争う状況は米国に両国が弄ばれている姿。

 

石原氏は講演で渡米する前に“向こうで物議を醸してくる”と述べた。それなら、1970年代以来の尖閣問題の核心にある米国の“中立の立場”について、なぜ“物議を醸す”ことをしなかったか。東京都管轄の横田の返還を米国からとれず、尖閣に火をつけ政治的利益を計る石原は似非愛国主義者。」(引用終わり)

 

 孫崎享氏は、著書『不愉快な現実』『日本人のための戦略的思考入門』『日米同盟の正体』で「ジャパンハンドラーのジョセフ・ナイが『東アジア共同体で米国が外されていると感じたならば恐らく報復に出ると思います。それは日中両国に高くつきますよ』」と直接恫喝していることを指摘している。また、北方領土問題では在日英国大使館や米国のジョージ・ケナンが日ソ間の領土紛争を作り出して両国を対立させることを1940年代後半に提案していたことにも触れている。

7月 112012

 財務省の勝 栄二氏に踊らされて、民主党が政権交代を果たしてたった三年で、崩壊への道を歩むことがほぼ、決定づけられたようである。この政党ができた最大の功労者は、おそらく一番資金を提供したと巷間言われている鳩山由起夫氏であろう。今回の騒動で、その彼が半年の党員資格停止である。

<勝 栄二 氏>

 そして、その豪腕で、この政党に政権を取らせた男=小沢氏を今回、民主党の執行部は実質上、追い出してしまった。意味するところは、民主党、終わりへの道の始まりである。

ところで二年前に、小沢一郎という政治家をマスコミ、司法が、これほど「人物破壊キャンペーン」を繰り広げるのか、あまりに不可思議で下記のようなレポートを書いたことがある。

<以下、引用>

「小沢一郎は、なぜこれほどマスコミに叩かれるのか?」

 

 小生は、小沢一郎という政治家と面識もないので、彼についての私的な感情は、全くない。しかし、小沢一郎という政治家がこれほどマスコミに叩かれるのには、不可思議である。特に今回の民主党の代表選を巡る大手マスコミの世論調査の数字とネットでの世論調査との数字の大きな違いは余りに不可解である。今回は、その裏にどんな思惑が隠されているのかを考えてみたい。

 

 民主党の代表選挙は、これまでに前例のない展開になっている。新聞・テレビなどの大手メディアと、それ以外のメディア、特にネット上の世論が大きく分かれているのだ。9月6日に発表された朝日新聞の世論調査では、菅直人首相支持が65%で小沢一郎前幹事長が17%、同じ日の読売新聞の調査でも菅支持66%、小沢支持18%で、これだけ見ると大勢は決したように見えてしまう。ところがネット上の形勢は逆である。

例えばヤフー!の「みんなの政治」の投票では、菅氏29%に対して小沢氏が58%(7日現在)。4日に出演したニコニコ動画の投票では、21.5%対78.5%で小沢支持だった。ライブドアのBLOGOSのようなサイトでも、「想像を超えて雄弁だった小沢一郎の街頭演説」とか「小沢一郎さんの選挙の巧さ。」といった記事が上位に並び、ほぼ小沢支持一色になっている。あまりに都合が悪くて消された読売オンラインの民主代表選の世論調査の数字は、小沢76%、菅直24%であった。あまりに不自然である。意図的なものが隠されている判断するのが、自然であろう。





ところで、以下、興味深い記事を紹介する。

<エレクトリックジャーナル 2010 2月18日号より>

「小沢潰しを狙う三宝会」

 ところで、竹下登、金丸信両氏、それに小沢一郎といえば、旧経世会の三羽烏といわれていたのです。竹下、金丸とひとくくりにしていうと、金のノベ棒によって象徴される金権体質の政治家というイメージがあります。そして、小沢はそのDNAを引き継いでいる現代の金権体質の政治家の代表ということになってしまいますが、この見方は完全に間違っています。日本の政治の世界はそんなにきれいなものではありません。権力をめぐって権謀術数が渦巻き、政官業と大マスコミが癒着し、己の利益のためなら、マスコミを使って世論操作でも何でもするというひどい世界になっています。ですから、本気でこれを改革しようとする政治家があらわれると、政官業と大マスコミが謀略を仕掛けて追い落とすことなど、当たり前のように行われるのです。それは現在でも続いているのです。現在そのターゲットとされている中心人物が、小沢一郎なのです。彼が本気で改革をやりそうに見えるからです。それがウソと思われるなら、ぜひ次の本を読んでいただくとわかると思います。

               

平野貞夫著 『平成政治20年史』/幻冬舎新書

小沢は田中角栄にかわいがられた政治家であることはよく知られています。田中角栄は小沢に亡くした長男を見ていたのです。しかし、それを快く思わなかった人は少なくないのです。 その中の一人が意外に思われるかもしれないが、竹下登氏なのです。 

村山首相が政権を投げ出し、橋本龍太郎氏が後継首相になると、竹下氏は「三宝会」という組織を結成します。三宝会の本当の目的は、小沢を潰すことなのです。 

 もっと正確にいうと、自分たちの利権構造を壊そうとする者は、小沢に限らず、誰でもそのターゲットにされるのです。なぜ、小沢を潰すのでしょうか。それは小沢が竹下元首相の意に反して政治改革を進め、自民党の利権構造を本気で潰そうとしていることにあります。この三宝会について平野貞夫氏は、その表向きの設立の目的を次のように書いています。

 (三宝会の)設立の目的は「情報を早く正確にキャッチして、(中略)、行動の指針とするため、(中略)立場を異にする各 分野の仲間たちと円滑な人間関係を築き上げていく」というも のだった。メンバーは最高顧問に竹下、政界からは竹下の息が かかった政治家、財界からは関本忠弘NEC会長ら6人、世話 人10人の中で5人が大手マスコミ幹部、個人会員の中には現 ・前の内閣情報調査室長が参加した。要するに新聞、テレビ、 雑誌などで活躍しているジャーナリストを中心に、政治改革や 行政改革に反対する政・官・財の関係者が、定期的に情報交換 する談合組織だ。 

平野貞夫著  『わが友・小沢一郎』/幻冬舎刊

 この三宝会によって、小沢は長年にわたってことあるごとに翻弄され、しだいに悪玉のイメージが固定してしまうことになります。「剛腕」、「傲慢」、「コワモテ」、「わがまま」、「生意気」など、政治家としてマイナスのイメージは、三宝会によって作られたものなのです。 なお、三宝会のリストはいくつかネット上に流出しており、見ることができます。その会員名簿のひとつをご紹介します。

 http://www.rondan.co.jp/html/news/0007/000726.html

(*大変おもしろいリストを見ることができます。ご高覧下さい。)

 

 この会は現在も存続しているといわれており、上記の名簿の中には、現在、TBSテレビの「THE NEWS」のキャスターである後藤謙次氏(共同通信)の名前もあるのです。後藤謙次氏のニュース解説は定評がありますが、こと小沢に関してはけっして良いことを言わないことでも知られています。もっとも現在のマスコミにおいて、小沢を擁護するキャスターやコメンテーターは皆無でしょう。口を開けば「小沢さんは説明責任を果たせないなら、辞任すべきだ」――もう一年以上こんなことが飽きもせず続いているのです。

 昨年来の小沢捜査で、唯一小沢に対して比較的擁護すべき論陣を張っていたのはテレビ朝日系の「サンデープロジェクト」だけです。それは、元検察官で名城大学教授の郷原信郎氏の存在が大きいのです。郷原氏は2009年の大久保秘書逮捕のときからこの捜査を最初から無理筋の捜査であり、容疑事実からして納得がいかないと断じていたのです。郷原氏のコメントは実に論理的であり、納得のいくものであったのです。それは、今年になってからの小沢捜査でも変わらなかったのです。しかし、他局――というより、「サンデープロジェクト」以外の番組は、「小沢=クロ」の前提に立って、それは徹底的に小沢叩きに終始していたのです。一方、「サンデープロジェクト」以外の他局の代弁者は、元東京地検特捜部副部長のキャリアを持つ弁護士の若狭勝氏です。サンプロ以外のテレビにたびたび出演し、当然のことながら、若狭氏は一貫して検察擁護の立場に立って主張したのです。

 「サンデープロジェクト」の郷原氏に対して、同系列局も含めて他局はすべて若狭氏なのです。もっとも「サンデープロジェクト」では、1月29日深夜「朝まで生テレビ」でこの2人は激突しています。1対1の対決ではなく、小沢クロ派――平沢勝栄氏山際澄夫氏、それに若狭氏、これに対して、小沢擁護派は細野豪志氏、大谷昭弘氏と郷原氏という強力な対決であり、勝負にならなかったようです。しかし、ほとんどのテレビ局が反小沢というのは本当におかしな話です。

(引用終わり)

*田中紹昭の国会探検より

「あぶりだされるこの国の姿」

 

 民主党代表選挙によってこの国の姿があぶりだされている。「官僚支配」を続けさせようとする勢力と「国民主権」を打ちたてようとする勢力とがはっきりしてきた。

 アメリカは日本を「異質な国」と見ている。「異質な国」とは「自由主義経済でも民主主義でもない国」という意味である。ある知日家は「日本は、キューバ、北朝鮮と並ぶ地上に残された三つの社会主義国の一つ」と言った。またある知日家は「日本の司法とメディアは官僚の奴隷である。そういう国を民主主義とは言わない」と言った。

 言われた時には反発を感じた。「ロシアと中国の方が異質では」と反論したがその人は首を横に振るだけだった。よくよく自らの国を点検してみると言われる通りかもしれない。何しろ百年以上も官僚が国家経営の中心にいる国である。財界も政界もそれに従属させられてきた。「官僚支配」が国民生活の隅々にまで行き渡り、国民にはそれが当たり前になっていておかしさを感じない。

 北朝鮮には顔の見える独裁者がいるが、日本には顔の見えない「空気」がある。「空気」に逆らうと排斥され、みんなで同じ事をやらないといけなくなる。その「空気」を追及していくと長い歴史の「官僚支配」に辿り着く。それが戦後は「民主主義」の衣をまとった。メディアは「官僚支配」を「民主主義」と国民に信じ込ませてきた。

 

 確かに複数の政党があり、普通選挙が行なわれ、国民の意思が政治に反映される仕組みがある。しかし仕組みはあっても国民の意思で権力を生み出す事が出来ない。どんなに選挙をやっても自民党だけが政権につくカラクリがあった。社会党が選挙で過半数の候補者を立てないからである。つまり政権交代をさせないようにしてきたのは社会党であった。表で自民党、裏では社会党が協力して官僚は思い通りの国家経営を行ってきた。

 

 民主主義とは与党と野党が権力闘争をする事である。そうすれば国民が権力闘争に参加する事が出来る。選挙によって権力を生み出すことが出来る。ある時はAという政党に権力を与え、次にBという政党に権力を与える。AとBは権力を得るために切磋琢磨する。それが官僚にとっては最も困る。異なる二つの政策の政党を両方操る事は出来ないからだ。それが昨年初めて政権交代した。

 官僚の反撃が始まる。政権与党に分裂の楔を打ち込む工作である。一つは「政治とカネ」の攻撃で、もう一つは野党に昨年の選挙のマニフェストを批判させる事で民主党の分裂を誘った。最大の攻撃対象は小沢一郎氏である。それさえ排除できれば、民主党も自民党も手のひらに乗せる事が出来る。

 小沢なき民主党は自民党と変わらなくなる。それが官僚の考えである。案の定、昨年の民主党マニフェストが批判されると菅総理は自民党と似たような事を言い始めた。

 従って民主党代表選挙は「政策論争」の選挙になる筈だった。積極財政を主張する小沢氏と緊縮路線の菅氏の政策競争である。小沢氏は政策を掲げて路線も明確にした。

ところが菅氏が路線を明確にしない。「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と経済政策としては全く意味不明の事を言いだし、次いで「政治とカネ」を争点にした。

 積極財政と緊縮財政は、かつて自民党内の党人派と官僚出身者がそれぞれ主張した事から、「政治主導」か「官僚主導」かに分類する事は出来る。また総理就任以来の菅総理の言動は財務省官僚のシナリオで、かつての竹下元総理と同じである。大蔵省の言う通りの政権運営をした竹下氏を金丸氏や小沢氏が批判して経世会は分裂した。

 それだけ見ても小沢VS菅の争いは「政治主導」と「官僚主導」の戦いだが、菅氏が「政治とカネ」を持ち出した事でさらにその意味が倍加された。「政治とカネ」はロッキード事件以来、検察という行政権力が政界実力者に対して犯罪とも思えない事案をほじくり出し、それをメディアに騒がせて国民の怒りを煽り、無理やり事件にした一連の出来事である。

 小沢氏の疑惑も何が事件なのか元司法担当記者である私にはさっぱり分からない。騒いでいるのは検察の手先となっている記者だけだ。メディアは勝手に小沢氏を「クロ」と断定し、勝手に「政界追放」を想定し、勝手に「総理になる筈がない」と決め付けた。小沢氏が代表選に立候補すると、自分の見立てが外れて慌てたのか、「あいた口がふさがらない」と相手のせいにした。無能なくせに間違いを認めないメディアのいつものやり口である。

 メディアはこれから必死で小沢氏が総理にならないよう頑張るだろう。世論調査をでっち上げ、選挙の見通しをでっち上げ、足を引っ張る材料を探し回る。世論調査がでっち上げでないと言うなら、いくらの費用で、誰に調査させ、電話をした時間帯、質問の順序、会話の内容などを全て明らかにしてもらいたい。街頭インタビューと同様、あらかじめ決めた結論に沿ったデータを作る事などメディアにとっては朝飯前だ。

 メディアが頑張れば頑張るほどメディアの実像が国民に見えてくる。メディアは今自分があぶりだされている事に気づいていない。自らの墓穴を掘っている事にも気づいていない。

 

 「政治とカネ」が裁判になると「事実上は無罪だが有罪」という訳の分からない判決になる事が多い。しかし政治家は逮捕される前からメディアによって「クロ」にされ、長期の裁判が終る頃に「事実上の無罪」になっても意味がない。アメリカの知日家が言う通り、この国の司法は民主主義国の司法とは異なるのである。

 それを裏付けるように最高裁判所が9月8日、鈴木宗男氏に「上告棄却」を言い渡した。民主党代表戦挙の1週間前、北海道5区補欠選挙の1ヵ月半前である。多くの人が言うように一つは小沢氏を不利にする効果があり、もう一つは自民党の町村信孝氏を有利にする効果がある。最高裁の判決は二つの政治的効果を狙ったと疑われても仕方がない。疑われたくなければ10月末に判決を出しても良かったのではないか。

 北海道5区の補欠選挙への鈴木氏の影響力は大きいと言われる。自民党最大派閥の領袖が民主新人に敗れるような事になれば町村派は消滅する。官僚にとって都合の良い自民党が痛手を受ける。だからその前に判決を出した。民主党代表選挙に関して言えば、その日開かれた菅陣営の会合でいみじくも江田五月氏が言及した。「だから菅さんを総理にしよう」と発言した。最高裁判決は菅氏を応援しているのである。

 

 司法もまたその実像を国民の前にさらしている。行政権力に従属する司法が民主主義の司法なのか、国民はよくよく考えた方が良い。それを変えるためには国民の代表が集う国権の最高機関で議論してもらうしかない。

 江田氏が最高裁判決に言及した菅陣営の会合での馬渕澄夫議員の発言にも驚いた。「民主主義は数ではなく、オープンな議論だ」と言ったのである。すると民主党議員の間から拍手が巻き起こった。申し訳ないが民主主義を全く分かっていない。

重大な事案をオープンな場で議論する国など世界中ない。どんな民主主義国でも議会には「秘密会」があり、肝心な話は密室で行なわれる。

 日本の国会が異常なのは「秘密会」がない事だ。重大な話は官僚が決め、政治家に知らされていないので「秘密会」の必要がない。オープンな場で議論できることは勿論オープンで良いが、それだけで政治など出来る訳がない。「オープンな議論」を強調する議員は「官僚支配」を認めている話になる。政治主導を本当にやるのなら、「オープンな議論」などという子供だましをあまり強調しないほうが良い。

 

 民主主義は数である。国民の一票が大事な制度だからである。それをおろそかにする思想から民主主義は生まれない。政策を決めるにも一票が足りずに否決される事を考えれば、数がどれほど大事かが、分かる。それに加えてアメリカでは「カネ」が重視される。「カネ」を集める能力のない人間は政治家になれない。

 菅陣営にはそういうことを理解する人が少ないようだ。この前の国会でも「オバマ大統領は個人献金でヒモ付きでないから、金融規制法案も提案できるし、核廃絶を言う事も出来る。企業の献金を貰っていたらそうはならない」と発言した民主党議員がいて、菅総理がそれに同調していた。

 とんでもない大嘘である。オバマに対する個人献金は全体の四分の一程度で、ほとんどはウォール街の金融機関からの企業献金である。企業から献金を受ければ政治家は企業の利益のためにしか働かないというのは下衆の考えで、献金を受けても政策はそれと関係なく実行するのが政治家である。核削減も平和のためと言うより米ロの交渉に中国を加えたいのがオバマの真意だと私は思うが、とにかく献金を受けるのが悪で貰わないのが善という驚くほど幼稚な議論をこの国は続けている。

 政治家が幼稚であれば官僚には好都合である。このように民主党代表選挙は図らずもこの国の様々な分野の実像を見せてくれる契機になった。そして改めて対立軸は「官僚支配」を続けさせる勢力と、昨年の選挙で初めて国民が実感した「国民主権」を守る勢力との戦いである事を認識させてくれる。

(引用終わり)

 ところで、菅政権は小泉政権同様に財務省主導の経済政策で、「財政再建(緊縮財政)・金融引き締め・構造改革」路線であり、外交・安全保障政策では「対米追従」路線である。

 これに対して、小沢氏は、経済政策では「財政拡張(積極財政)・金融緩和・平等主義(分配主義)」路線であり、外交・安保政策では「対米自立アジア重視」路線である。

 いずれにせよ、今回の民主党代表選を通じて、菅首相と小沢氏の思想・政策の違い、換言すれば、民主党内の相反する思想・政策の違いが鮮明になるのは歓迎すべきことなのである。

 昨今の円高への対応をはじめ、これまでの民主党政権の経済政策を見ると、民主党が分裂して、政界再編に進むことこそが、政策のねじれを解消し、政局ばかりの日本の政治が、少しでもまともな方向に行くことに繋がるはずである。 

<以上、引用終わり>

上記のレポートに書いてある事情により、当然のごとく、日本のマスコミは今回の小沢一郎氏の行動にも批判的である。離党者が50人を切ったことを指摘して「小沢氏の力も落ちた」などと相変わらずトンチンカンな論評をしている。

細川総理を誕生させた1993年、小沢氏はたった44人で自民党を離党したのである。マスコミは都合良くそのことを忘れてしまったようである。ところがである。米国のウオールストリートジャーナルは全く違う論評をしている。一読されて吃驚される方もいるのではないだろうか。

(以下引用)

2012年 6月 29日

【社説】「闇将軍」小沢氏に日本再生のチャンス与えた消費増税

 

過去20年間にわたって消費増税を政治家に働きかけてきた日本の財務省がついに、思い通りの結果を手に入れた。6月26日に衆議院を通過した法案は、現行5%の消費税率を2014年4月に8%、2015年10月に10%にまで引き上げるというものだった。官僚たちは金融危機を防ぐために必要な措置だと言うが、経済に占める政府の割合が拡大されるのも事実である。これにより官僚はさらに大きな力を握ることになる。

この法案の可決によって得をしたのは財務省ぐらいだろう。6月6日付の朝日新聞の朝刊に掲載された世論調査の結果によると、回答者の56%は増税に反対していた。経済にとっても痛手となるはずだ。結果として、野田佳彦首相が率いる政権の余命はいくばくもなくなった。

 野田首相が代表を務める民主党所属の衆議院議員のうち57人がこの法案に反対票を投じた。野党である自民党、公明党の協力で衆議院を通過した同法案だが、参議院での可決後、両党は衆院解散・総選挙に追い込むため内閣に不信任案を提出することを明言している。

 これで優位に立ったのが、民主党内で造反を主導した小沢一郎氏である。その駆け引きのうまさから「闇将軍」として知られる同氏は民主党を離党し、新党を結成するとみられている。小沢氏への国民の支持は、4月に政治資金規正法違反事件で無罪となったこと、消費増税に長年反対してきたことなどが好感されて高まることもあり得る。

 そうなれば日本にとっては朗報である。小沢氏は減税と官僚制度改革に的を絞った新党設立のために自民党からの離反者を取り込んだり、選挙戦術を駆使したりするかもしれない。経済政策をめぐる論争がついに公の場に移され、1980年代のバブル崩壊からずっと問題を先送りにしてきた一連のコンセンサス主義の短命政権とは違う選択肢が有権者に与えられるかもしれない。

 これに似たことが起きるのではという期待感は、小沢氏の力で民主党が自民党に大勝し、政権交代が起きた2009年にもあった。しかし、初めて与党になった民主党の政治は、公的部門の組合の支持に頼っていることもあり、過去の保守的な党派政治に姿を変えてしまった。政治家が財務省の圧力に抗うのは容易ではない。というのも財務省には公共支出を各選挙区に振り分ける権限があり、これで政治家の再選を後押しすることも可能だからである。結局、消費増税をする前に行政機関を徹底的に見直し、無駄や不正を排除することを約束した民主党の選挙時のマニフェストが守られることはなかった。

 財務省の支配から脱却するには、米国の保守系草の根運動「ティーパーティー(茶会)」のようなものが必要になろう。日本の保守的な政治制度では無理なことのようにも思えるが、勇気づけられるような兆候もある。たとえば、大阪市や名古屋市で勢力を誇っている地域政党は「大きな政府」に異議を唱え、自由主義市場原理経済派のみんなの党もまだ小規模ながら全国的な支持を集め始めている。

 増税の開始が転換点になるかもしれない。1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた時のことを振り返ってみよう。経済はそれまでプラス成長を示していたが、翌四半期には前期比で2.9%、年率換算では11.2%も縮小し、1974年以来で最大の下げ幅となった。好調だった輸出の伸びがなければ、その縮小幅は14.7%にもなっていたという。消費の低迷はその後も続き、自動車の販売台数に至っては減少が32カ月間も続いた。

その影響が政治に現れるのにも長い時間はかからなかった。翌年、自民党は参議院の議席で過半数を失い、当時の橋本龍太郎首相は辞任に追い込まれた。景気がようやく回復したのは、小沢氏が当時代表を務めていた自由党が自民党との連立の条件として減税を要求してからのことだった。

 小沢氏を説得力のある改革の先導者候補にしているのは、同氏の官僚制度に対する根深い不信感である。衆議院で民主党を過半数割れに追い込むには、小沢氏は少なくとも54人の民主党議員を引き連れて離党する必要がある。

 「小沢チルドレン」と呼ばれる初当選議員にとって財務省に刃向うことは、大きなリスクとなる。そうした造反議員たちが慰めを見出せるとしたら、それは国民の間で広がっている無駄な政府支出や失敗に終わったケインズ主義的な景気刺激策に対する不信感だろう。

既得権益という時限爆弾は早急に処理されるべきであり、景気回復は規制緩和によって実現されるべきである。さもないと日本はギリシャのような危機に直面することになるだろう。今の日本に欠かせないのは、こうした議論を始めることである。

 (引用終わり)

 小沢一郎氏はもう70歳、古稀である。最後の大勝負に出た背景を上記のウオールストリートジャーナルの記事を読むと何となく想像できる。小沢氏を一貫して排除しようとしてきた米国勢力の衰退である。

 金融危機に喘ぐ米国の今回の大統領選には、盛り上がりがほとんど感じられないが、世界寡頭勢力の非公開会議と言われているビルダーバーグ会議が、2012年5月末から6月頭にかけて、米ワシントンDC郊外で行われた。

今回も、次期大統領を引き続きオバマで行くか、ロムニーで行くかが内々に決められた事は間違いない。ロムニーは、共和党候補でありながら、米戦争屋=ネオコンの影が非常に薄い。

  このように、次期米大統領がオバマかロムニーのどっちに転んでも、米戦争屋の影は薄く、かつてのブッシュ時代のように戦争屋政権(=石油利権派)に戻ることはない。

 要するに、オバマになってもロムニーになっても、米戦争屋のボスであったデビッド・ロックフェラーの天敵・ジェイ・ロックフェラーに近い大統領の誕生ということになることが決まっている。

さらに小沢氏はジョイ・ロックフェラーと共闘関係にあった欧州財閥の総帥ジェイコブ・ロスチャイルドとも近いと言う情報もある。

意味するところはやっと、92歳のデビッド・ロックフェラーの時代が終わるということである。 おそらく、小沢氏はこの変化を読んで、最後の勝負に出たのである。

  もちろん、現在の日本の支配層の多くは、デビッド・ロックフェラー系の米戦争屋ジャパンハンドラーを盲信して従属しており、現オバマ米政権とも距離がある。当然、デビッドの失脚とともに、これら、ジャパンハンドラーのパワーも急速に弱まっていく可能性が高い。おそらく、現在はその狭間なのである。

そうなると、これから、小沢氏への攻撃も弱まってくると予想できる。上記のウオールストリートジャーナルの記事はその兆候である。おそらく、その辺のところが、日本のマスコミは、読み切れていないか、わかっていても方向転換できないほど、既得権益が強いのか、どちらかであろう。

 先日のテレビ朝日の深夜番組「朝まで生テレビ」にて小沢氏のアンチ野田政権的行動(マスコミのいう造反)を評価する視聴者が66%に達した。一方、大手マスコミの世論調査では、どれもこれもそろって、小沢新党支持は15%前後しかない。どちらが本当か、今後はっきりすることになる。もっとも、反原発官邸デモが15万人、20万人という数字に膨れあがっても報道しない大手新聞社もあるのだから、日本のマスコミ報道そのものを、国民が信用しなくなる日が近づいていると考えるべきかもしれない。

*JB PRESS より

<前回>

 「オンラインでERSSへの現地情報が途絶した後でも『全交流電源喪失事故』のような過酷事故の進展を、原子炉ごとにシミュレーションしたバックアップシステムPBSが使えたはずだ。安全保安院はそれをしなかった」

 つまり「法律とシステム、マニュアルが正しく使われていたら、南相馬市、飯舘村、川内村などの住民のかなりの割合の人たちが被曝せずに済んだ」と言えるのだ。すなわち15条通報以後の「住民避難の失敗」は天災でも何でもなく「あらかじめ決めてあったことを政府ができなかった・あるいはやらなかったための人災」だと言える。

報道はもちろん、国会事故調査委員会の論点整理もこの「地震・津波」という天災と「避難の失敗」という人災の「2つの別種の災害」を「1つの災害」と誤解したまま論じている。

「住民を避難させることに失敗した」のは人災

 これを3.11の全体像の中に置いてみよう。「中間まとめ」と思って読んでほしい。

A原発事故の原因になった3.11のような巨大地震と津波は想定外だったかもしれない。

Bしかし「原発が全交流電源を喪失する」という甚大事故は予測され研究し尽くされていた。(NRC報告書を後述)

Cそして「そうなったとき」のための法律やシステム、マニュアルは完備していた。

D政府=特に専門家であるはずの官僚=原子力安全保安院(経産省)と学者=原子力安全委員会は、こうした法律やシステム、マニュアルをまったく使えなかった。あるいは使わなかった。

(注)「政府」という言葉には、政治家、官僚、学者などがプレイヤーとして含まれる。それぞれは負うべき責任の種類が違う。仔細な責任の在処は追って詳しく検証していく。

Eつまり「地震と津波で原発が全電源を失う事態に陥る」までは「天災」だったが「原発がそうなったあと、住民が被曝しないように避難させることに失敗した」という部分に関しては「人災」(あえて善意に解釈してあげれば『失策』)である。

この「人災」部分には多数のプレイヤーが介在し、それぞれが不作為のミスを重ねている。国、県。政治家、官僚、学者。それは複雑な地層のような多数のミスの重なり合いで、一見しただけでは誰がどこでどんなミスをしたのかが、判然としない。こうした「多重失態」の実態は追って少しずつ解明していくつもりだ。

格納容器は壊れないことになっている 

さて、松野元さんとの対話に戻る。



<松野 元プロフィール> 

原子炉主任技術者、第1種電気主任技術者。1945年1月1日愛媛県松山市生まれ。1967年3月、東京大学工学部電気工学科卒。同年4月、四国電力(株)に入社、入社後、火力発電所、原子力部、企画部、伊方原子力発電所、東京支社等で勤務。2000年4月、JCO臨界事故後の新しい原子力災害対策特別措置法による原子力防災の強化を進めていた経済産業省の関連団体である(財)原子力発電技術機構(現在の独立行政法人原子力安全基盤機構)に出向。同機構の緊急時対策技術開発室長として、リアルタイムで事故進展を予測し、その情報を中央から各原子力立地点のオフサイトセンター等に提供して、国の行う災害対策を支援する緊急時対策支援システム(ERSS)を改良実用化するとともに原子力防災研修の講師も担当し、経済産業省原子力防災専門官の指導にも当たった。2003年3月出向解除。2004年12月四国電力(株)を退職。

──「地震・津波」という天災と「全電源喪失後、住民の避難を失敗した」という人災は2つの別種の災害ではないかと私は考えています。どう思われますか。

 「その通りです。アメリカの原子力委員会(NRC)が1990年12月に『5つの原発についてシビアアクシデントが起きる確率』を計算して公表しています。その結果を見ると『福島第一原発のような沸騰水型では炉心溶融に至るようなシビアアクシデントの9割以上は全電源喪失で起きる」と計算している。が、アメリカの原発は地震や津波とはほとんど無縁です。その原因はテロということもありえる。つまり、全電源喪失や炉心溶融は、地震や津波と関係なく起きる事象なのです。1対1の関係ではない。『全電源喪失』と『地震や津波』とは話が別なのです。その対策や発生確率もまったく独立した別個の話だ。3.11では、たまたま津波が来て、日本の原子力安全思想の弱点を洗い出したに過ぎないのです」

 私が3.11の直後に福島県の現場で取材したときからずっと解消できないままの疑問があった。煙のようにもくもくと原発から噴き出して流れていった放射性雲(プルーム)から避難する境界線が、なぜ「原発から半径20キロ」というような地図に引いた人工的な線で決められたのか、という点だ。

 実際にプルームは官僚が地図にコンパスで引いた線などまったくおかまいなしに広がり、境界線の内側外側関係なく放射性物質で汚染した。ライン外の人は、避難のための交通手段や避難所の手配はおろか、避難が必要だという警告すらなかった。プルームが20キロラインでぴったり止まることなどありえない。子どもでも分かる馬鹿馬鹿しい失策である。実際に「30キロライン」の外側だった福島県飯舘村は避難はおろか警告すらなく、村人や避難者7000人以上がみすみす被曝した。

──そもそも、なぜ「原発を中心にした同心円で危険度を測る」という発想が出てきたのですか。

 「同心円での避難規制は『放射線源が1点』を前提にしています。放射線源が1点なら、距離が遠くなるほど、放射線は弱くなる。光と同じ影響特性ですから。そして線源は移動しない」(実際の放射能雲は、無数の放射線源を含み、かつ煙のように移動する)

──それは原発災害に備えた「原子力災害対策特別措置法」が1999年の東海村JCO臨界事故の反省で生まれた法律だからでしょうか。

 「確かに、臨界事故では放射線源は点でした。でもそれだけじゃない」

──どういう意味でしょうか。

現在の立地審査指針は格納容器が壊れないことを前提にしています。格納容器は壊れないことにして安全評価を行っている。格納容器は英語では“container”=『放射性物質の封じ込め容器』です。壊れると中から放射性物質が漏れ出す。それは『ないこと』にしてしまった。だから『原発から煙のように放射性物質が噴き出す』なんていう事態は考えていない。考えなくていいことになっている」

なぜ日本で「非居住地域」はたった半径1キロ圏なのか

──そんな馬鹿な。

「例えば、政府は原子力発電所の『立地審査指針』を定めています。『電力会社が原発を造ろうとしたとき、この基準を満たさなければ政府は許可しない』という基準です。ここに『非居住地域』『低人口地帯』を考慮して立地するようにと書いてある。しかし格納容器が壊れないことを前提とすれば、重大事故や仮想事故を仮定しても放射能影響は『1キロメートル以内=原発の敷地内』に収まることができるので『非居住地域』と『低人口地帯』を具体的に考えなくて済む

──1979年にスリーマイル島事故が起きています。燃料棒が融けて放射性物質が一部外部に漏れ出した事故です。そのときの避難範囲はほぼ5マイル=10キロ程度でした。つまり、もし格納容器が破損したとき=放射性物質が漏れ出したとき、住民への被害を避けるなら『非居住地域』『低人口地帯』は半径10キロでなければならないことが分かった。そのときに日本でも半径10キロに基準を変更すればよかったのでは?

10キロに広げると、日本では原発そのものの立地がほとんど不可能になるでしょう。アメリカやソ連と違って、この狭い国土に、半径10キロが非居住地域なんて、そんな場所はほとんどない。あったとしても、用地買収が大変だ。しかし半径1キロなら、原発の敷地内だけで済んでしまいます。半径10キロは砂漠や荒野を持つ国の基準です」

──それは「日本に原発を造るために、格納容器の破損はないことにしよう」という逆立ちしたロジックではありませんか。

「そうです。『立地基準を満たすために、格納容器は壊れないことにする』という前提です。この前提は福島第一原発事故で完全に崩れてしまった。それを無視したままで何も対策を取らないでいるのですから、今のままでは、日本政府には原発を運転する資格がないとさえ言えるでしょう」

全国の原発で同じ失敗が繰り返されるはず

「原発を立地できるように、格納容器は壊れないことにする」というロジックを聞いて、私が昨年春に福島第一原発事故の現場で見て以来、合点がいかずに悩み続けた数々の謎が氷解した。

(1)原子力防災の司令室になるはずだった「オフサイトセンター」が原発から5キロという至近距離に建設されていたために、交通や通信の途絶、空中線量の上昇で放棄せざるをえなくなった。司令塔を失った。なぜそんな至近距離に司令本部をつくったのか。

(2)福島県南相馬市・飯舘村など太平洋岸から脱出するための避難道路が整備されていない。阿武隈山地を越える片側1車線の道路が2~3本あるだけだった。車が数珠つなぎになり、麻痺した。なぜ脱出道路が整備されていなかったのか。

(3)なぜ原発周辺から脱出するためのバスなど移動手段の用意がなかったのか。

(4)なぜ原発周辺から外へ脱出する訓練が行われなかったか。

私は、福島第一原子力発電所で起きた「格納容器が破損し、放射性物質が外に漏れ出して住民を襲った」という事実を見て、どうしてこんなひどい事故から住民を守る対策が取られなかったのか、合点がいかなかった。「対策はあったが、誰かが忘れていたのか」「それは誰か」「故意なのか事故なのか」「対策そのものがなかったのか」。それを一つひとつ調べている。

 しかし「『格納容器が壊れることはない=放射性物質が外に漏れ出すことはない』という前提で立地審査が行われていた」かつ「『立地審査が通れば、事故も起きない』という誤謬がまかり通った」と考えれば、すべて説明がつく。

こうした「誤謬のうえに誤謬を重ねた前提」で決められた安全対策の構造は、全国の原発でそのまま残されている。オフサイトセンターの位置。貧弱な脱出避難の道路。脱出手段が用意されていないこと。貧弱な避難訓練。

例えば、再稼働が決定された福井県大飯町の大飯原発のオフサイトセンターは、同原発から5~6キロのところにある。だから仮に福島第一原発事故と同じ内容の事故が起きれば「フクシマ」に起きたのと同じ失敗が繰り返される。容易に想像できることだ。

「健全な原子力の推進には適切な保険が必要」

 

──では「地震や津波さえなければシビアアクシデントは起きない だから再稼働は許されるのだ」という論法は間違いだということになりますか?

「どこかの国のジョークに、こんな話があるそうです。夫が、珍しく仕事が早く終わったので、何年かぶりに早く帰宅した。すると奥さんが浮気していた。夫婦は離婚した。後で奥さんは言った。『あなたが珍しく早く帰宅したりしなければ離婚になんかならなかったのに』。

 これと同じです。確かに、津波が来なければ、3.11のような事故は起きなかったでしょう。しかし、全国の原発は、今なおその弱点を抱えたまま運転を継続しているということを想像してみてください。『テロ』『ミサイル攻撃』『航空機墜落』『勘違い誤操作』などに対して、依然弱点をさらしたままだ。

 そもそも原子力防災の精神は『事故がすぐに起きるとは思っていないが、事故対策は必要』です。『事故は必ず起きるから対策を取れ』というのは、占い師や反対派の言うセリフだと思います。健全な原子力の推進には適切な保険が必要なのです。適切な保険とは『世界水準の保険』にほかなりません」

──いつ、どうした経緯でこんなグロテスクなことになったのですか。

 「立地指針は1964年の策定です。その後、四国電力の伊方原発の設置許可をめぐって、裁判が争われました(1973年提訴。1992年に原告住民側敗訴の最高裁判決が確定して終結)。原発推進派と懐疑派双方が論客を動員して、論戦を繰り広げた。法廷を舞台にした、原発の安全性をめぐる総力論戦になった。ここで原子力安全委員会委員長の内田秀雄・東大教授(2006年死去)が『格納容器は壊れない』説を強弁した。それがずっと生きている」

──反論はなかったんですか。

「もちろん法廷でも『格納容器は本当に壊れないんですか』と教授自身が相手側弁護士に尋問された。そこで内田教授は『ディーゼル発電機そのほかのバックアップ電源がある。100万年に1回の確率だ』と主張した。裁判官も原子力発電所の安全基準なんて門外漢だから分からない。そこでこの『設置許可基準を満たせば安全』というロジックに乗ったんです。そのロジックをそのまま使った判決内容だった」

──伊方原発訴訟(2号機)の審理中に、スリーマイル島事故が起きています。その事実は裁判に影響しなかったのでしょうか。

「スリーマイル島事故では燃料が溶解していることが裁判の後で分かり、原告側が『1号機訴訟』(筆者注:訴訟は複数ある)で主張していた通りになっていた。しかし首の皮一枚で格納容器は破損しなかったのです。これが『格納容器は壊れない説』を補強するような格好になってしまった」

想定されていなかったシビアアクシデント

 私は暗い気持ちになった。この話をしている松野さんは現役時代、他ならぬ四国電力の技術者であり、伊方原発の勤務経験もあるからだ。国の下部機関への出向で原発事故防災の専門家になった松野さんは、裁判の詳しい内容も熟知している。言葉通り「原発反対派」でも何でもない。そのど真ん中の当事者である彼が、国が勝訴して四国電力の原発設置を裁判所が認めた判決を批判しているのだ。

──伊方訴訟の判決がその後の全国の原発行政にずっと影響を与えているのですか。

「『設置基準を満たしさえすれば、その原発は安全だ』という誤解が広まってしまった。これは本来まったくおかしい。設置基準と、実際に事故が起きるかどうかはまったく別の話だ。まして事故が起きたらどう避難するかは別次元の話です」

──もう少し分かりやすくお願いします。

「ビルを建てるときは防火基準を満たさなければならない。火事が起きても燃え広がらないような耐火建材を使う。中の人が脱出できるように非常口を設ける。でも、安全基準を満たしたからといって、火事が絶対に起きないとは言えない。だからこそ避難経路は決めておく。避難訓練をする。そうでしょう? 許可基準と事故の可能性とはまったく別の話だ」

 あえて補足すれば、こうだ。2011311日よりずっと前に、すでに日本の原発の安全対策(住民を被曝から救う対策も含む)は矛盾し、論理的に破綻していたのだ。それを政府は見て見ぬ振りをした。政治家や報道、裁判所は目を向けず無視した。気づかなかった。「壮大なグロテスク」だ。

──シビアアクシデントを想定していなかったことが、福島第一原発事故ではどのような形で具体的に現れていますか。

「電源を喪失してから電源車を必死で探したり、注水のためのポンプ車を探したりしていたのはおかしいと思いませんでしたか。『どうしてそういう訓練がなかったのだろう』と思いませんでしたか。あれは受験勉強をせずに難関大学を受験するようなものです。シビアアクシデントを想定できていれば、そしてそれへの対策不足を認識していればすぐに海水注入してベントもして、と手順はすぐに決まっていたはずです」

日本だけが30年遅れている

 

──どうして甚大事故への対策がこれほどお留守なのでしょうか。こんな状態なのは日本だけなのでしょうか。

「チェルノブイリ事故のあと、世界はシビアアクシデントに備えた対策を取るようになりました。日本だけが30年遅れています」

──日本の原発の安全設計は、国際水準から見ると、どれほど遅れていると考えればいいのでしょうか。

IAEAは『5層の深層防護』を主張しています。が、日本のそれは3層しかない。それが日本の原子力発電所の致命的な弱点です。

足りない2層は『シビアアクシデント対策』と『原子力防災』です。原子力防災がなかったために住民を逃すことが忘れられてしまったのです。ほぼ30年前のチェルノブイリ発電所事故の後に世界で行われたシビアアクシデント対策がしっかりしていれば、フィルター付きベントがほぼ機械的に行われて、住民避難が容易になったでしょうし、最後の最後には原子炉を廃炉にする余裕もあったと思います」

──なぜそんなお粗末な状態になったのですか。

「ちょうどそのころから、日本の原子力エネルギー政策はプルサーマル(筆者注:ウランだけでなくプルトニウムを添加して燃料とする発電。ウランとプルトニウムの混合燃料であるため『MOX燃料』と言われる。福島第一原発では3号機がMOX燃料)に傾斜していくのです。

 ちょうど核燃料サイクルがうまくいかなくなっていたころだった(注:原発で燃やしたあとのウラン燃料を青森県六ヶ所村で再処理してプルトニウム燃料に変えて福井県の高速増殖炉『もんじゅ』の燃料にする。もんじゅは度重なるトラブルで1994年以来休止)。

各地でMOX燃料を使う計画が持ち上がり、その地元説明会やその論理構築といった対策に一生懸命になった。真剣な原子力推進から空虚な原子力へと人事がシフトしました。それでシビアアクシデント対策が無防備なままになった」

──具体的にどんな対策が取りえたのでしょうか。

 

「例えば、シビアアクシデントを想定するなら、ベントで格納容器内の圧力を逃がすとき、放射性物質が外部に出ないよう、除去するフィルターを付けなくてはいけません。大飯原発(福井県)で言えば、フィルター付きベント弁もないまま再稼働してはいけません。シビアアクシデントを想定するならフィルターが付いていないのは無防備すぎる

──松野さんは経産省の「原子力災害防災専門官」を養成する研修の講師だったはずです。研修で「格納容器が壊れることはないという前提はおかしい。壊れたときの対策も考えておこう」と教えなかったのですか。

「『防災対策について国が決めている内容を説明せよ』という委託を受けていました。私は、格納容器が壊れたときの防災対策を説明していたつもりです。もちろん質問されれば答えたでしょう。端的に言えば、日本の原発の『設置許可』と『防災対策』はリンクしていないのです。『防災対策』は『設置許可』の条件になっていない。したがって、原子力防災専門官の防災教育の中で設置許可の話は、質問がなければできない」

拒絶された「100キロ圏内の避難訓練」の提案

 

──もし3.11のときに松野さんが防災の責任者で、避難範囲を設定するなら、半径何キロが適当だったと思いますか。

「1999年に東海村臨界事故が起きたあと『原子力災害対策特別措置法』が作られ、私は2000年に四国電力から原子力発電技術機構(現・原子力安全基盤機構)に出向しました。そこで、ERSSを改良・運用する責任者になりました。システムが完成して、訓練の高度化に取り組んだのが2002年です。

そのときに私は、EPZがそれまでの10キロ圏では大幅に不足すると考えていました。そこでチェルノブイリ級の事故を想定してERSSで『100キロ圏に影響が及ぶ過酷事故の予測訓練内の避難訓練』を実際に実施していたのです。しかし『100キロの想定』は拒絶されました」

──なぜですか。

 「防災指針で避難範囲(EPZ)を『8~10キロ』と決めたのは私だという学者が『私の顔を潰す気か』と立腹されたからです」」

──それは誰ですか。

 「いやいや、具体的には言えません」

──住民の被曝は誰の責任が重いと思いますか。

(福島第一原発事故の住民被曝は)サッカーで言う自殺点、オウンゴールのようなものです。政治家、官僚、学者、報道、関係者みんなが何らかの形で罪を犯しています。家に火がついているのに、全員が見て見ぬふりをしたようなものだ。あるいは『自分が無能なことを知っていながら該当ポストに就いて給料を受け取っていた』と言うべきかもしれない。この責任を報告書にまとめるのは並大抵ではないでしょう。部内者ではだめです。真面目な専門家を入れた第三者でないとできないでしょうね

──近く報告書を出す予定の国会事故調査委員会の調査をどう見ておられますか。

「国会事故調査委員会は専門家なしで調査を進めています。本来は『全交流電源喪失事故とはなんなのか』『15条通報が原発からあったとき、何をすればよかったのか』を助言する立場の原子力安全委員会(筆者注:学者)は、自分が被告席にいるので、聞かれたことしか答えません。

『ERSS/SPEEDIを使った初動とはどういうものか』を説明するはずだった原子力安全・保安院(同:官僚)も同じ被告の立場です。聞かれたことしか答えません。ですから『停電で使い物にならなかった』と強弁して『ERSS/SPEEDIに手動計算やPBSというバックアップがあったこと』など自分からは説明しません。

こんな調子で、委員会には『深掘り』の力がない。海に浮かぶ小舟のように、自分の『近所」しか分からないまま報告書を出そうとしている。『(首相官邸の)過剰介入』とか『(東電社員の原発事故現場からの)撤退』などは本質的な問題ではないのです。

 『事故原因は津波だ』と言い、一方では『システムの欠陥(ERSS/SPEEDI)だ』と言う。あたかも、この2つに責任があるかのように言っている。技術的な要因について真剣な追究がない。

『あの時それぞれの関係者がどうすれば住民の避難を最も素早く容易にすることができたのか』とか『発電所側は住民に被曝させないために何をしなければならなかったのか』とか核心に迫った内容になっていない。

『津波があっても住民を被曝から守る方法はあったのではないか』という核心に触れた報告書でなければ、スリーマイル島発電所事故の後に出された米国の『ケメニー報告』などと比べて見劣りするものになるのではないかと心配です。何しろ最後の最後になってやっと(本連載のリポートが出て)真実の一端が明るみに出たのです。それを反映しない第2論点整理の状態のまま調査報告が出たら、世界の物笑いになるでしょう」

*参考資料

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