地方・日本を元気にするヒント
地方都市の衰退が言われてもう二十年近くの時が過ぎようとしている。そのことを象徴する言葉がシャッター街だ。たしかに現在、昭和時代は栄えていた地方の中規模都市の駅前商店街は軒並み、バブル経済の崩壊と共にさびれてしまった。そしてそこで購入されていた商品は、日米構造協議による大店法改正による影響も大きく郊外型の大規模ショッピングセンターに移っていった。
そのために、地方の暮らしでは自動車が生活の必需品となり、トヨタを初めとする自動車会社は不況にもかかわらず、売り上げを何とか維持してきた。しかし、自動車や公共交通などの移動手段がない人びとは、食料品・日常品を満足に購入することも困難となる状況がでてきた。歳を取って十分な生鮮食品も購入しがたく、買い物難民とも呼ばれる人々が出てきたのである。(やっと大手スーパーでも買い物の宅配サービスが始まってはきた)
今回はそんな現状を検証した本をまた、ともすれば、忘れられている日本人の力の源泉をわかりやすく、解説している松岡正剛氏の対談本をあわせて紹介させていただく。
「地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?」(ちくま新書)
久繁哲之介著
まず、目次から第1章 大型商業施設への依存が地方都市を衰退させる
宇都宮市に移住して日本一のバーテンダーに輝いた女性/宇都宮市で大型商業施設の撤退が止まらない/あの109も4年弱で撤退/市民の行動や会話が都市盛衰の行方を示す/宇都宮109で聞いた女性顧客の会話/顧客の本音は机上に届かない/アンケートの8割は、結論が事前に決まっている/宇都宮109撤退3つの理由/模倣品は本物に手が届かない状況でのみ価値がある/109が撤退してなおも大型商業施設を造りたい/地方から百貨店が消える/失敗には目を向けない、責も問わない/神を見下す高層ビルは空きだらけ/ないものをねだり、地域にある資源には無関心/長野市との違いは「地域にある資源を愛する心」/箱物の撤退・建設に、マスコミと専門家は冷静な対応を/ないものねだりは止めて、地域にある資源に光をあてよう
第2章 成功事例の安易な模倣が地方都市を衰退させる
商店街再生/なぜ歩行者ゼロでも成功事例なのか/成功事例集は提供者志向のプロパガンダ/モデル地区を褒めそやす提灯もち/顧客も売り手も少なすぎて困っている商店街は、そもそも必要か/自治体は商店街の「選択と集中」を/イベントは交流のきっかけを創り、次に繋げる/箱物だけレトロ化しても商店は利用されない/車優先空間が空き店舗をさらに増やす/金融支援だけの空き店舗対策にチャレンジしたい市民はいるのか/リスク高いチャンレンジショップは「曜日毎テナント、週末起業」から/商店街再生へ4つの提案/松江を「カフェの街」にしよう/ボエーム憧れの聖地は「花の都」に進化する/すでに地域にある資源に「気がつく」
第3章 間違いだらけの「前提」が地方都市を衰退させる
スローフードを核とした交流・コミュニティ/「食のグルメ化・ブランド化」は競争の厳しいビジネス/ブランド化で豊かになれるのは一部の産業者だけ/関さば、小樽3点セット/消費者は飲食店も「ノーブランド(無印)」を好む/散策者はいても、飲食店利用者は少ない「ぱてぃお大門」/集客が売上に結びつかない/福島でおやじが「今時の若者は、なよなよしてる」と嘆く/福島で若者が「おやじの論理」を呆れる/若者は「自宅でまったり」が大好き/飲食店の顔で質がわかる/おやじ視線のない空間が大人気/フィットネスクラブは少し痩せてから行く場所/インサイト/画一的なおやじ色に染まる地域はさらに衰退
第4章 間違いだらけの「地方自治と土建工学」が地方都市を衰退させる
間違いだらけの「地方自治と土建工学」/自治体固有の風土・文化/地方盛衰は自治体次第/自治体改革の方法/首長の意欲が役所を変える/待っていれば降りてくる情報に依存する自治体/市民の足は切り捨て、駅前開発を進める岐阜市/公共交通は「赤字でも残す」高岡市、「赤字だから切る」岐阜市/鉄道廃線後の街は著しく衰退する/人より自動車が優先される都市は必ず衰退する/「連携」は他人には求めるが、でも実行は大の苦手/全館消灯された市役所の内と外/連携すれば一つの取り組みで複数の目的を実現できる/役所の郊外移転と、街中衰退の因果関係/成功事例は土建工学者自らが描いた理想郷/コンパクトシティとは何か/コンパクトシティ先進地の富山市も繁華街は著しく衰退/市民はコンパクトシティには反対か無関心/西欧とライフスタイルが違う日本でコンパクトシティ模倣は無謀/成功事例「ネーミングライツ」にも飛びつく/2400万円のネーミングライツで効果はあるのか/心の欠落こそ最大のリスク
第5章 「地域再生の罠」を解き明かす
「地域再生の罠」を解き明かす/上勝町の「葉っぱビジネス」は1980年代後半には注目されていた/人の心を捉えるソフト事業は持続可能な活性化を導く/稀にある本当の成功事例は模倣が困難/心の空洞化が引き起こす「街中の空洞化」/暴走する土建工学者/地域づくりの「仕組み」そのものを変えよう/ウォークマン開発秘話/市民志向な地域づくりへ
第6章 市民と地域が豊かになる「7つのビジョン」
7つのビジョン/お金を届けるボランティア、心を届けるボランティア/需要創造の鍵は「市民の不満」にあり/ワーク・ライフ・バランスは公益に繋がる/市民の地域愛と交流を育む地域スポーツクラブ/アルビレックスが新潟の若者を変えた/市民に地域を「愛してもらう」には/「市民憩いの場」だった甘党たむら/市民が「余計なお金と気を使わない居場所」を創る/口コミで賑わった甘党たむら、口コミで撤退した宇都宮109/あなたが幸せだと、私も幸せ/私益ばかり考えると街も店も衰退する/地域再生の目的は「市民の幸せ」か「地域の成功」か/市民の心、ライフスタイルが先に尊重される地域づくり
第7章 食のB級グルメ化・ブランド化をスローフードに進化させる──提言①
誤用される「食と低未利用地」/街の賑わいは飲食店数に比例/需要を吸収するだけの大資本店/需要創出型飲食店を創る/農産物「加工品」直売所を「憩いの場」に/地域独自の味をコンビニ任せでいいのか/B級グルメをスローフードに進化させる久留米市/市民が主役になれる「食の八十八カ所巡礼の旅」/産業者に「自立、顧客志向」を促す/「子供たち憩いの場」が地域愛を高める/スローフードは大資本チェーン店の進出を阻止できる
第8章 街中の低未利用地に交流を促すスポーツクラブを創る──提言②
なぜ皇居周辺の銭湯利用客は増えたのか/低未利用地の活用を問いなおす/箱物需要創出と雇用創出も期待できる/交流空間は既存ストックを活用/市民の街中回遊を仕掛ける/人の普遍的ニーズを叶えると街は賑わう/郊外住宅地に高齢者クレーマー/地域全体の利益へ「戦略的な赤字施設」を創る/「フリー」の仕組みを創る
第9章 公的支援は交流を促す公益空間に集中する──提言③
青森駅前にも市民の「電車待ちの居場所」/アウガは戦略的な赤字施設/公益空間は利益が出ない/公的支援の選択と集中/商店街「所有と経営の分離」の光と影/公益基準の税制で「シャッター商店」は減る/専門家が机上で作る地域から「市民が現場で創る地域」へ/商店街を市民の「物語消費の場」に/私益追求者が公益に目覚める
衰退していく地域をどう再生し、活性したらよいのか?
長引くデフレ経済のなかで、多くの人が知恵を絞り、そしていくつかは成功したと語られている。本当だろうか。
本書は、まず地域再生の成功例と言われているものが、本当に成功例なのか検証している。
もし、喧伝された成功例が本当に他の都市でも模倣可能な成功例であれば、それは地域再生への一つの指針となるはずだ。だが隠蔽された失敗例であるなら、失敗例を拡散していくことにつながる。あるいは成功例があっても特殊なケースであれば、模倣は多くの失敗への道となるだろう。どうなのだろうか。
本書は、地域再生の成功例として語られる六つの都市について、それぞれが内包する問題を主題化して、実際に現地を訪れて検証している。
人口30万人から50万人の県庁所在地でもある、宇都宮市、松江市、長野市、福島市、岐阜市、富山市が俎上に載せられる。他にも、地域再生の視点から日本の各都市が問われ、これらは上記の日本地図にもまとめられている。
そこで書かれている風景は、地域の人間ならわかる独自の正確さと丁寧さを持って描写されている。もちろん、地元の生活者ならあたりまえのことではないかと思えることだが、しかし、その当たり前のことが書かれていることが、独自の衝撃性に繋がっている。
地域再生に多少なりとも関わった人間であれば、この問題の本質を本書がきちんと分析していることを理解することができるだろう。本書は、失敗例を「土建工学者などが提案する”机上の空論”」と断じる。
地域再生の表舞台に出てくる役者は三者だ。地域再生関係者というプレゼンテーション業者(コンサル)、美しい夢を科学の装いで語る土建工学者、お役所体質が抜けない地方自治体である。
これらの問題の根幹の一つは、公共事業そのもののあり方にある。つまり、箱物であり、道路であり、農地の転売であり、交通安全整理の日当である。目先の利権のネットワークが地域の権力構造と一体化していて、地域再生という振り付けを変えることがなかなかできない現実がある。それを、化粧直しをするように、地域再生の美しいプレゼンテーションで包み直し、補助金を当てることでお茶を濁しているのが現実ではないのか。失敗するべくして失敗するとしか思えないとも言えるのだが、それなりにおカネが回れば、確かに地域は数年息をつくことができる。
本書の事例は、見方によっては成功と言える中規模都市の事例だから、そこまでひどいことはない。それでも地元生活者から感じられる問題点は、ほぼ書かれている。
若者を呼び込もうとした宇都宮市の活性化では現実の若者の感性は生かされていなかった。松江市の再生はイベント頼みで本当に地域に潜む宝を生かし切れない。
長野市は観光客指向のあまり地元民の生活との接点を失った。
福島市はオヤジ視点のあまり、地元の若者や女性の視点を持つことができなかった。岐阜市・富山市はお役所体質から「コンパクトシティ」を目指し、市民の居住空間の常識を壊した。
それでは、どうしたらよいのか? 本書は後半三分の一で、筆者の経験則からではあるが、市民と地域が豊かになる「7つのビジョン」をまとめ、そこからさらに具体的な提言を3点導き出し、1章ずつ充てている。
(1)食のB級グルメ・ブランド化をスローフードに進化させる、
(2)街中の低未利用地に交流を促すスポーツクラブを創る、
(3)公的支援は交流を促す公益空間に集中する。
本当にこれで地域再生は可能になるだろうか。彼の提言を使うためには、まず、地域コミュニティーそのものが生き返ることが前提になる。元気な若者が街に戻ってくる必要がある。そしてその若者が、以前からいる高齢者と新たな再融合できるかが問われている。地域の若者の現実的なニーズと高齢者のニーズをどう調和させるか。そしてその二者の背景にある巨大な失業の構造はどうするのか。「グローバリズムの暴走」にどう対処するのか、地域再生には欠かせない日本の家族の絆をどう再生するのか、問題の根は限りなく深い。
そして、突き詰めていくと故意にこの二十年間近く日本のデフレ経済を放置している日本銀行を初めとするグローバリズム信奉者の顔の見えないエリート紳士の「郷土を愛する心のなさ」に行き着いてしまうのだ。
『日本力』 松岡正剛/エバレット・ブラウン (PARCO出版)
目次
一章 日本人が今、置かれた場所
二章 日本のファッション、デザイン
三章 日本の遊び
四章 日本の職人
五章 日本のセレンディピティ
六章 日本の異人
七章 日本の宗教
八章 日本を見つける
<興味深い対話、その他>
ブラウン氏=
「僕が日本に来た時、今の日本人はみんな、昔のことや歴史から切断されていると感じたんです。心が過去のこととつながっていない。それを、どうにかしてつなげたほうがいいと思います。そうすれば日本はもっとおもしろくなるはずです。」
松岡氏=
「ものや言葉、価値観をゆっくり解きほぐしていけばまだ大丈夫でしょう。
ばくはそうしてきました。たとえば『心』という言葉とか、『体』とか『命』という言葉が、どういうふうにできているのかということを解きほぐしてく。 ~ 略 ~
そうやって価値観のもとになっているところをほぐしていくことが大事なんです。」
※「日本力」(PARCO出版)P182より抜粋
<西洋のいいところ>
・○×教育や偏差値教育ではなく、「考える力」を養う教育が小さいころから徹底されている点と、論理をトコトン追求する立場を重んじる伝統。
<日本のいいところ(ただし今ではなく過去の)>
・“○と×”や“世間と自分”のあいだに「間(ま)」(=一種のグレイゾーン)を
設けること。
・世界に類を見ない「職人」の世界。バーチャルでなく実体験や長年の繰り返しによって初めて見えてくること。そして自分が加工しようとする材料や道具に対するリスペクト。
・“ガングロ”とか“ゴスロリ”などを生み出す日本人に残る潜在力 ――かぶき者に代表される異人としての「変な人」の力。
・大切なのは“ナショナリズム”ではなく“パトリオティズム”
現在の国際社会で吹き荒れる民族主義やナショナリズム、すなわち“想像の共同体”の嵐に対抗するには、自分が属する社会の文化や地域、先祖の歴史に根ざすという事こそが、最も有効な手段である。
パトリオティズム…愛郷的精神とか郷土愛のこと。「日本国民」などという抽象的な概念ではなく、地元の「土」に根差した“ローカリティ”と言う意味。
その点からすると、安倍晋三氏が、かつて言った『美しい国、日本』というフレーズは、「美しい国」というローカリティと「日本」という国家/国体(=“想像の共同体”を守るための施政者による体制)を、無理やり結びつけるものであって言葉づかいが間違っている。
この対談で二人が話していることをまとめると以下のようになる。
現在、日本人の知が衰退し始めている。
ひとつの原因は60年代安保以降、国民の考える力を削減する目的で導入された偏差値教育である。一部のエリートだけを残し、一般の国民からは自ら考えたり議論したりする能力を削いで、与えられた正解を受容して○×で答えるだけの技術者を作るという政策を意図的に行っている。それも20世紀工業社会では有効に機能したが、21世紀には新しいOSが要る。たしかにその通りで、東大を出ていても「考えると言う点」では、10人中8人は、どうしようもない人であるのも残念ながら、事実だ。
日本人の身体意識も変わった。ハラを中心にした丹田の感覚が消えた。「腹が立つ」が「頭にくる」に登り、「キレる」という身体のどこだか判らない感覚になってしまっている。
日本は火山国・地震国のためか、外国人から見ると熱がこもっていて暖かい。水蒸気も多く、中国のように月や星がくっきりと見えず霞んだりする。曖昧さがある。山や川で区切られ少し移動すると次々と風景が変わる。大陸のようにズーッと砂漠・・というような環境が無い。多種多様なものが詰まっている。三河と尾張で文化が違ってよい。その範囲が「クニ」であり、かつては藩や村が共同体意識の中心だった。明治になって初めて国家という概念を権力者が作り、戦争まで引っ張っていって敗戦以降はその国家観が解体した。
今もう一度共同体意識を呼び戻すために憲法に愛国心などを入れてもダメ。氏神を奉る範囲の、郷土愛を新たな形で復活させる事が有効だろう。
下地となる文化・ホームポジションをしっかりと持っていて初めて、その上に異文化や新知識を取り入れて吸収できる。いま日本人には自らの文化伝統に根ざした「下地」を喪失したため、インターネットの普及によって情報の海に溺れる人が出てきている。 海外に出なくても国内を旅行したりして、自分達の足元=文化の深層を見直し自らのバックボーンを探すことが必要である。
本来、日本人は、ヨーロッパ人のようなスローライフが本当は得意なはずである。
日本の神は遠いところから来て、また去る。遠方より訪れる「マレビト」を歓待する風習がある。古代の日本人は遠くにあるものを感ずる能力を大切にした。例えば、ネズミが災害を予知する能力を信じてネズミが移動する方向へ移住したり、船の進路を取ったらしい。
30年使える漆器や磁器は高価であるが、それを作る技術が途絶えれば蓄積してきた膨大な時間という価値を失ってしまう。
子供に影響を与えるのは親や環境よりも社会で出会う「変な人」。今は異質なものを排除しすぎて異人に会う機会が少ない。
日本は無宗教というが、かつては神仏習合で煩いくらい神様も仏様も身近に居た。
明治になって国家をまとめるため廃仏毀釈し、天皇を現人神とする国家神道を作った挙句、敗戦で天皇が人間宣言したため「神も仏も天皇も、もういいや」となった。そういった人々が経済的繁栄に新たな夢を託し、美しい国土や伝統を破壊して顧みない世代となってしまった。
戦後半世紀以上が過ぎた現在、宮崎駿の映画や古神道の世界観を素直に受け取れる若い世代が復活している。
ネットの中に「座」(コミュニティ)が発生している。次のステップはネットの中から出て生の現場に行くと良い。
コスプレは現代の祭り。非日常空間である祭りが現代社会から消えてしまっているため若者が自主的に作り出そうとしている。もっと大きな目で見て、禁止してはダメ。
日本には重厚な文化の堆積がある。しかし現代日本人はそれから切り離され外国人になっている。今の日本は根の無い大木のよう。しかし、発掘しようとする人々がたくさんいる。
文化財として遠ざけられた伝統を生活の中に取り戻し、前衛的で創造的で遊び心にあふれた文化を地域から再興すべきだ。
西洋ではデカルト以来、個人や自我といったものが確かに存在すると思われているが、それは幻想で、世界の実相~小さな我(われ)を消して世界の中に開放されるという感覚~は、日本文明の方が本質を捉えている。
若い世代が国外に出て行こうとせず、内向きに籠もっているというグローバリズム信仰に基づく批判が最近聞かれるが、本書で指摘されているように、世界の変化期にあたっては自らの基盤となるホームポジションの確認がまず必須である。しかし、不幸な教育環境にあるため、我々はストレートにわが国の文化を継承できていない。日本には一朝一夕にはとうてい掘り起こせない分厚い文化遺産があり、若い世代がその発掘に注力し始めているのだとしたら、まさに正しい行動を起こしているのだと思われる。その可能性を信じ、後押しするのが大人の役目である。