松原用水450年(供用開始1567年)、牟呂用水130年(供用開始1887年)、郷土の先人たちの偉業が平成29年10月10日に世界灌漑(かんがい)施設遺産に登録された。
ところで、昭和19年に「松原用水史要」(伊藤博敏著)が豊橋市教育会から発行されている。この本を読むと大変興味深い郷土の歴史を知ることができる。愛知県教育会主事の伊奈森太郎は、序文の中で「今日の豊橋市は昔、今橋と称へた頃、牧野古白(*三河宝飯郡牧野城主<愛知県豊川市牧野町>・牧野成富の子)が其の繁栄の基礎を据えたものであり、其の古白が勢力発展の基礎は下郷の水田あり、下郷水田とは世にいふ大村田面であって、この大村田面の性能した基礎は三里の松原用水の動脈をなしているのにあると論じている。実に至言である。」と書いている。つまり、大村地域の水田が吉田藩の基礎を築いたと分析しているわけである。それでは、この本に紹介されている興味深いエピソードを紹介する。伊藤氏はこの本のなかで、松原用水について二つの伝説を紹介している。いずれも大村八所神社に関わる言い伝えとして、豊川の水を疎水して良田を起こそうとした大村の農民八人にまつはる悲壮な尊い口碑として残っているものである。一つは、「命を水神に捧げて工事の完成を祈り、斎戒沐浴して従容として人柱」となった伝説、もう一つは、水路掘削後、井堰は築かれ、新渠に水は引き込まれたが、溝下までは一滴の水さえ流れて来ず、8人はその功空しく、井堰の辺において役人に斬首の刑に処せられた。」というものである。
伊藤氏は、用水開疎の伝説は、取りも直さず、下郷(大村田面)開拓の歴史であると明言している。とにもかくにも、この地域の灌漑に取り組んだ先人の並々ならぬ苦労を物語るものである。ところで、この本を読んでいて興味深いのは、水論=水争いの記述で、水という農業をするものにとって、死活的な利害関係の争いが上流、下流のそれぞれの村々の庄屋を中心に村落共同体が自冶体として機能しながら、展開されているところである。いわゆるお上:役人はその調整役をしているに過ぎないことがそれぞれの水論=水争いから浮かび上がってくる。ところで、戦後の首相のご意見番として有名な四元義隆氏が<日本という国のお国柄がわかる>本として知人に薦めていた本に権藤成卿の「自冶民政理」という本がある。権藤氏はこの本のなかで、「民の自らに治まるところにしたがって、これを統治する」というのが古来の日本政治の要点で、日本本来の自冶のあり方だと主張。成務天皇が制定した自冶制度として、自冶の六網を紹介している。(1)全国の郡県町に境界線を設け、境界線は天然の地形(河)によって定める。(2)地域のリーダーは地域の人たちに決めさせ、これを朝廷が任命する。(3)各地に食料倉庫を置き、地方の公的機関とし、その長には民衆の代表を当てる。(4)全国各地に様々な姓を持つものが住んでおり、彼らには彼らの代表者を選ばせ、これを朝廷が任命する。(5)土地の状況に合わせて農民を配置する。(6)地形には差があるので、民には不公平のないようにする。以上が六網である。松原用水がこのような日本古来の民衆の自冶の伝統、エネルギーから生み出されたものであることを地域の自冶力を引き出すためにも再認識する必要があるのではないか。
牟呂用水開削(かいさく)130年を迎えて
平成29年3月8日には牟呂用水開さく130年の大きな節目を迎え、10月10には世界灌漑(かんがい)施設遺産に登録されるという慶事が重なった。
ここで参考までに、牟呂用水について簡単に説明すると、この用水は、渥美郡牟呂町(現在の豊橋市牟呂町)の西に広がる豊川河口の干潟を干拓してできた神野新田のための用水として開削されたものである。頭首工は新城市一鍬田にあり、現在の頭首工は豊川右岸の地を灌漑する松原用水と共用となっていて、牟呂松原頭首工と呼ばれている。水路の長さは共用の牟呂松原幹線水路が5.271km、牟呂用水路については、16.565kmで豊橋市内を縦断している。また、牟呂用水は、神野新田だけでなく新城市八名井、一宮町金沢、賀茂町などの農地を灌漑し、現在は工業用水、水道水としても使われている。牟呂用水の前身は明治20年、加茂村、金沢村、八名井村の三村による賀茂用水の開削であったが、同年9の月台風による暴風雨のため、壊れるという憂き目にあっている。その後、当時の勝間田稔愛知県知事の勧誘に応じて豊川河口の干潟の干拓事業に乗り出した長州の毛利祥久が、その新田のために破壊していた賀茂用水を拡張、延長して新しい用水路を開削し、明治21年6月に完工、牟呂用水が誕生することになる。しかしながら、これも明治24年の濃尾大地震による堤防の破壊、明治25年9月の台風による暴風雨などの災害に見舞われ、毛利新田は壊滅状態となり、牟呂用水も一鍬田の堰堤や水路、樋管などが破壊されてしまう。そのため、毛利祥久は新田開発を断念し、明治26年にその権利を名古屋の実業家神野金之助に譲渡。神野は新田の築堤工事を服部長七に依頼。服部は伝統的な左官の技術「たたき」を応用した人造石工法によって堅固な堤防を築き、明治26年澪留を成功させて築堤を完工させている。
興味深いことは、この牟呂用水もそもそもの発端は、金沢、賀茂、八名井の三村の有志28名の委員から始まった賀茂用水事業であることである。そして現在も牟呂用水神社には、28名を含む先覚者の霊が祭られている。以下である。
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八名井の部、杉下平四郎、加藤長次郎、大塚庄平、宮城豊次郎、富安利平、富安末次郎、井上民蔵、加藤鶴三郎、加藤喜傳次。
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金沢村の部、米山忠次郎、富安仙次郎、白井藤次郎、山本新吾、野澤弥三郎、小川覚左衛門、加藤善作、今沢儀三郎、富安三郎、城所豊蔵、城所 興、佐久間権次郎、佐久間金咲。
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賀茂村の部、竹尾彦九郎、林 嘉伊次、山本林蔵、加藤兼三郎、松井源右衛門、林七郎衛、小柳津新松、林清作、中野豊作、林富次、林繁太郎、竹尾準、松井喜平次。
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名古屋の部、神野金之助。
このような先覚者たちの偉業もそれぞれの村々のいわゆる「民政自冶」とも言うべき動きから始まったことは興味深いところである。
灌漑(かんがい)と土の文明
「だれが中国を養うのか」がベストセラーになったアメリカの高名な環境学者レスター・R・ブラウンは、その著書の中で米国では穀物1トンを収穫するごとに6トンもの土が失われていると指摘している。ところで、デイビッド・モントゴメリーの「土の文明史」(築地書館)というユニークな本をご存じだろうか。彼の分析によれば、多くの文明の歴史は共通の筋を辿っている。最初は肥沃な谷床での農業によって人口が増え、それがある発展段階に達すると傾斜地での耕作に頼ることになる。その結果、森林が切り払われ、継続的に耕起することで、むき出しの土壌が雨と流水にさらされて斜面の土壌浸食を招き、養分不足となって収量が低下。土壌劣化は急増する人口を支えきれず、文明全体が破綻へと向かっていく。古代ギリシャもローマもマヤ文明もそうだった。例外はない。近代社会は、科学技術がほとんどの問題を解決するという信念を育んだが、現実には、土壌資源が生成されるより速く消費されるという問題は、現在の技術でも解決できていない。今のままでは私たちは、貴重な土壌資源を使い果たしてしまうことになる。そう言った意味で、土壌管理は人類史上最大の課題となっている。たしかに文明は一夜にして消滅はしないが、数世代にわたって土壌を失ってゆっくりと衰退してゆくというのが、モントゴメリーの分析である。ところで、この本には千年以上にわたり、土壌侵食防止と生産力維持を図ってきた水田についての言及がないのは残念なところである。一般的に日本の水田には、次のような隠れた役割がある。
・小さな「ダム」の役割、・地下水も作る役割、・稲の光合成による空気浄化の役割、・生物(昆虫、草花など)の多様性を維持する役割等である。特に明治初期に政府に依頼されて日本の土性を調査したドイツの世界的な地質学者であるフェスカが、水田のダムとしての役割を大きく評価していたことも忘れてはならないだろう。モントゴメリーの本には取り上げられていないが、日本の水田作には食料生産を持続していくための多くの技術的ヒントと知恵が隠されている。その意味で牟呂用水、松原用水が世界灌漑施設遺産に登録されたことは、今一度、郷土の先人の労苦を偲びながら、これからの郷土の農業のあり方を考えるべき時だということを私たちに告げているのではないだろうか。
*東愛知新聞に投稿したもです。