*満鉄の「あじあ特急」が新幹線を産んだのだ!
安倍政権が戦後最長政権となったのは
第二次安倍政権が戦後最長の7年8ヶ月の長期政権(2012年12月~2020年8月)になったのは、野田佳彦氏のよる民主党政権の自己崩壊という僥倖に恵まれたこともあるが、安倍晋三氏が戦後の高度成長を演出した満州の妖怪と呼ばれた岸信介氏の孫であったということが一番大きな要因であったと考えられる。
これからそのことを順次、説明していくが、文字通り、安倍晋三氏は満州国モデルを創り出した人脈群のプリンスであったので、その能力とは関係なく戦後最長の政権となったのである。
ところで日本の戦後経済復興と満州国モデルとの関連性は、今までもよく指摘されてきたところである。
NHKでも1980年代に特集されたことがあったと記憶しているが、「日本株式会社を創った男、宮崎正義の生涯」小林英夫著という本がある。
満鉄調査部きってのソ連通で、参謀本部作戦課長職にあった石原莞爾に先生といわれた宮崎正義は、満州国の建国にあたって満州産業開発第一次5カ年計画のグランドデザインを設計、その実施計画を「大蔵省第一次満州国派遣団」などの渡満組で、岸信介、星野直樹、武部六蔵、椎名悦三郎、古海忠之、田中恭、美濃部洋次、佐々木義武、向坂正男、田村敏雄など、多くの高級官僚が練り上げた。
さらに宮崎は、日本に帰国して、戦時統制経済の設計図を描いた影の立役者でもあった。彼が、主唱した「間接金融」「資本と経営の分離」などの官僚統制の手法は、日本的経営システムの根幹をなすものである。その意味で、「日本株式会社」を創案した人物といっても、過言ではないだろう。宮崎が立案した官僚主導の統制経済体制は、その後、岸信介ら「革新官僚」に引き継がれ、戦時体制を支えていった。そして、戦後の日本の復興と高度成長も、その延長線上に築かれていく。このことを野口悠紀雄氏は「1940年体制」という本で詳細に分析している。
A級戦犯で巣鴨の囚人だった岸信介
極東軍事裁判の起訴状が提出されたのは、昭和天皇の誕生日である1946年4月29日、大半の囚人が以後、2年8ヶ月間をこの場所で過ごすことになった。そして1948年12月23日、現上皇明仁の誕生日に合わせ7人のA級戦犯の処刑が執行された。しかし、すべての犯罪者が処刑されたわけではない。19人のA級戦犯が不起訴処分となり、翌日自由の身となった。その中に、日本の戦後社会を動かしていくことになる岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎、緒方竹虎、阿片王と呼ばれた里見甫らがいたのである。
2007年にニューヨーク・タイムズの記者ティム・ワイナーが「Legacy of Ashes. The History of the CIA」という本を出版。2008年には「CIA秘録」(文藝春秋)として翻訳されているので読んだ方も多いであろう。
ワイナーはこの本の中で次のように書いている。
「2人の戦争犯罪人が、他の戦争犯罪人たちが絞首台に連れて行かれた前日に、戦後三年間入れられていた巣鴨刑務所から釈放された」その2人とは岸信介と、児玉誉士夫である。
岸信介は、1896年山口県生まれ。東京大学の法学部を卒業して農商務省に入り、東条内閣の対米宣戦時の商工大臣であり、敗戦後A級戦犯に指定されたが、釈放され、その後総理大臣になって対米安全保障条約・新条約の締結を行うなど、戦後日本の方向を決定づけた。
児玉誉士夫は、1911年福島県生まれ。戦前右翼の活動家として活躍し、戦中は海軍の庇護の元に中国で「児玉機関」と言う組織を動かし、強奪的にタングステン、モリブデン、などの貴金属、宝石類を大量に集め、それを海軍の力を利用して日本に送り届けた。敗戦後、A級戦犯とされるが釈放された後、中国から持ち帰った巨額の資産を元に、政界に影響を及ぼし、やくざ・暴力団・右翼のまとめ役、フィクサーとして力を振るった。
Anchor Books版に書かれていて、文藝春秋社版に書かれていない文章は、以下。
「Two of the most influential agents the United States ever recruited helped carry out the CIA’s mission to controll the government.」
Anchor Books
「かつてアメリカがリクルートした二人の一番影響力のあるエイジェントがCIAの日本政府を支配する任務を遂行するのを助けた」で、その二人の男とは、岸信介と児玉誉士夫である。
リクルート、エイジェント、この二つの言葉の持つ意味はあまりに重たい。会社にリクルートされて其の会社に勤めたら、其の会社の人間で、エイジェントとなったら、その会社の人間だ。これが会社でもなく、アメリカ政府なのだから、岸信介と児玉誉士夫は、アメリカ政府に雇われて、アメリカ政府のために働く人間になったということを意味している。文藝春秋社版では、この岸信介が「アメリカのエイジェント」だったことを明確に書かないように忖度しているが、戦後、岸信介と児玉誉士夫は、明らかにCIAのエイジェントとなったのである。
そして、CIAの助けによって、岸信介は自民党の党首となり、首相となった。
盟友である児玉誉士夫は暴力団のナンバーワンとなり、CIAに協力した。
岸信介と、児玉誉士夫が、戦後の日本の政治の形を作り、岸信介は、児玉誉士夫の金を使って選挙に勝つことができた。衆議院議員になると、岸信介はその後、50年に渡って日本を支配する自由民主党を保守合同によって作り上げた。
このCIAと自民党との相互関係で一番重要だったのは、金と情報の交換だったようである。その金で自民党を支援し、内部情報提供者をリクルートした。アメリカは、一世代後に、代議士になったり、大臣になったり、党の長老になったりすることが見込める若い人間たちとの間に金銭による関係を作り上げていったのである。岸信介は党の指導者として、CIAが自分の配下の議員たち1人1人をリクルートして支配するのを許したのである。
この部分、Anchor Books版では、次のように書かれている。
「As the party’s leader, he(岸信介)allowed the CIA to recruit and run his political followers on a seat-by-seat basis in the Japanese parliament.」
文藝春秋社版では、そこのところが、
「岸は保守合同後、幹事長に就任する党の有力者だったが、議会のなかに、岸に協力する議員を増やす工作をCIAが始めるのを黙認することになる」と書かれている。
Anchor Books版に描かれた岸は、自分の配下をCIAに売る悪辣な男である。
岸信介は、トップに上り詰めるための策動をする間に、日本とアメリカの間の安全保障条約を作り直す作業をCIAと一緒にすると約束した。岸信介は、日本の外交政策をアメリカの要求を満たすように変えると約束した。それによると、アメリカは日本に軍事基地を保持し、核兵器を貯蔵しても良いということになったのである。
それに対して、岸信介はアメリカの秘密の政治的な協力を要請した。ワイナーは、1994年10月9日付けのNew York Timesに「CIA Spent Millions to Support Japanese Right in 50’s and 60’s. 」(CIAは日本の右翼を助けるために1950年代から60年代に書けて何百万ドルもの金を使った)と言う記事を書いている。そこには、次のようなことが書かれていた。
1970年頃に、日本とアメリカの貿易摩擦が起こっていたし、その頃には自民党も経済的に自立できていたので、自民党に対する資金援助は終わった。しかし、CIAは長期間にわたって築き上げたその関係を利用した。1970年代から1980年代初期に東京に駐在していたCIA職員は「我々は全ての政府機関に入り込んでいた」と語った。
「CIAは首相の側近までリクルートしており、同時に農林省とも同じような関係を結んでいたので、日米農産物貿易交渉で、日本がどのようなことを言うか事前に知っていた」とも語った。元警察庁長官で、1970年代に自民党の代議士になり、1969年には法務大臣になった後藤田正晴は、自分が諜報活動に深く関わってきた1950年代60年代について「私はCIAと深いつながりを持っていた」と言っている。
1958年に、当時の自民党の大蔵大臣だった佐藤栄作が選挙資金の援助をCIAに要求して、その資金で自民党は選挙に勝った。1976年にロッキード事件が起こって日本は騒然としたが、それは、同時にCIAにとって、それまでの工作が暴露される恐れのある危険な事件だった。ハワイで隠退生活をしている元のCIAの職員は電話で、次のようなことを語った。
「この事件は、ロッキードなんかよりもっともっと深いのだ。もし、日本という国のことについて知りたかったら、自民党の結党時のことと、それに対してCIAがどれだけ深く関わったか知らなければ駄目だ。」
このように日本政府は満州国が関東軍によってコントロールされてきたように米国の情報機関によってコントロールされてきたのである。
日米安保条約と日満議定書
作家の保坂正康氏が以下に書いているように日米安保条約と日満議定書には、
いずれも宗主国がその国を属国にしておくための取り決めであるという共通点がある。
*日刊ゲンダイ2020/01/31より引用
吉田も岸も…安保条約と日満議定書の皮肉な共通点
あの60年安保闘争とは一体何だったのだろうか。今なお見落とされている視点を私なりに整理しておきたい。
吉田茂首相はなぜ昭和26年9月7日の夕方にサンフランシスコの第8軍司令部で日米安保条約に単独で署名したのか。
「いずれ問題になるだろうから」と呟きながらである。岸信介首相は何度も「片務条約を双務条約に変えるのがなぜ悪い」と執拗に開き直った。この2つの発言の行き着く先は昭和7年9月に日本政府が満州国と交わした日満議定書に行き着く。この議定書は斎藤実内閣が満州国と交わしたもので、これをもって新たな独立国として認めることになった。この議定書は日本軍の無条件駐屯を認めた上に、秘密の内容(関東軍司令官の推薦者を満州国政府は受け入れるなど)も含み、満州国が独立国だというのは絵空ごとであった。吉田も岸もこれを押し付けた側の官僚として、議定書のカラクリを理解していたのである。そして今、日米安保条約は基地の提供をはじめ多くの点で議定書のカラクリと重なり合う。かつて不平等を押し付けた日本が、敗戦によって独立を損なわれた中で安保条約を受け入れなければならない。2人には耐えられなかったのであろう。しかし彼らはこの屈辱的な条約を「東西冷戦」という言葉をもって免罪にしようと試みた。東西冷戦下であったから、アメリカ側の言い分は受け入れなければならないのだというのが2人の共通点であった。そのため2人は事あるごとに共産主義者の陰謀とか、悪辣な企みといった言葉を繰り返した。共産主義の企みがなければ、この日米安保は必要でさえないのだと。
やがて共産主義は倒れた。吉田や岸の判断に寄り添うならば、日米安保の役割は終わったはずであった。しかしこの条約はふたつの意味で残った。ひとつは日本の軍事力を懸念する声に対してアメリカが日本をコントロールするための政策だ。もうひとつは日本人に軍事肥大の声を定着させずにおくという国際社会の期待に応えるためだ。吉田も岸も、日本を軍事的にアメリカの属国にしておくほうがふさわしいと計算したのであろう。日満議定書の文面を読んで、吉田も岸も感じた歴史上の羞恥心は帝国主義的性格だからこそ、より強く感じていたのであろう。(引用終わり)
日米安保条約第五条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
一方、日満議定書には
日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衞ニ當ルベキコトヲ約ス之ガ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス
上記の条文をよく読んでいただきたい。全く同じことを言っているのがおわかりになるだろう。
戦後駐留する在日米軍は、旧満州国の関東軍
だから、以下のようことは、さがせばいくらでも出てくる。
・米国政府は、日本のアメリカ大使館の借地料未払いのままにしていたが、
アメリカ政府が東京都港区赤坂にある在日アメリカ大使館の敷地(国有地約1万3000平方メートル)の賃料を1998年以降払っていないことが、9月30日の社民党照屋衆院議員の質問主意書に対する政府答弁書で明らかになっている。
1997年までアメリカ政府が支払った賃料はわずか月額20万8千円で、年間では約250万円だった。98年以降は日米間で契約変更について合意できていないため払われていない。これに比べてイギリスの場合は東京都千代田区にあるイギリス大使館の敷地約3万5000平方メートルの賃料は月額で291万6000円、年間3500万でキッチリと支払われている。
・日本の携帯電話は、米軍から周波数帯の返還によって始めて可能になったのである。政治家は一人も参加していない日米合同委員会によって米軍優先の電波の割り当てが決められているのである。
下記のアドレスの日米合同委員会の取り決めを読めば一目瞭然である。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/kyoutei/pdfs/03_02.pdf
・現在も日本の空域は、下記のように米軍が完全にコントロールしている。
私たちは、長く続く植民地状態に慣れてしまったために異常な状況下にいることを意識しなくなっている。すっかり、植民地根性に染まってしまったのである。
つまり、私たち日本人は、見事に完成した満州国モデルバージョン2.0とも呼ぶべき戦後日本に住んでいると考えれば、今の状況を一番すっきり理解することができるのである。しかしながら、その不自然な社会システムそのものが、金属疲労を起こし、限界が来ているために現在、政官財でいろいろな不祥事が起きていると考えても間違いないだろう。
<属国であることが最大の国益である>という国是から抜け出さなければならない時を日本という国は迎えている。
<参考>ウィキペディアより
日本における満州人脈
満州国の実質的支配層であった日本人上級官僚や当時の大陸右翼、満鉄調査部の関係者などが母体である。二・二六事件に関与して左遷された軍人や、共産主義者からの転向者も多い。ソビエト連邦の経済政策を参考として、満州国の経済建設の実績をあげた。満鉄調査部事件などで共産主義活動の嫌疑をかけられ検挙された者もいる。ここで培われた経済統制の手法は戦時体制の確立や、戦後の日本の経済政策にも生かされていく。岸総理や右翼の児玉誉士夫などの大物が名を連ね、戦後保守政治に影響力を及ぼした。
主なメンバー
岸信介(1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長、1937年(昭和12年)7月に産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任)
佐藤栄作(当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向)
難波経一(満州国民政部禁煙総局長)
池田勇人
松岡洋右(1935年(昭和10年)8月2日から1939年(昭和14年)3月24日まで南満州鉄道第14代総裁)
東條英機(関東軍参謀長)
椎名悦三郎(満州国産業部鉱工司長)
後藤新平(1906年(明治39年)11月13日から1908年(明治41年)7月14日まで南満州鉄道初代総裁)
二反長音蔵
吉田茂(1907年(明治40年)2月から1909年(明治42年)まで駐奉天日本領事館に領事官補として赴任、1925年(大正14年)10月から昭和3年(1928年)まで駐中華民国奉天・大日本帝国総領事)
星野直樹
大平正芳(1939年(昭和14年)6月20日から1940年(昭和15年)10月まで興亜院蒙疆連絡部経済課主任(1939年10月から経済課長)として着任)
愛知揆一(興亜院華北連絡部書記官)
長沼弘毅(興亜院華中連絡部書記官)
高畠義彦(海南島厚生公司東京事務所責任者)
関屋悌蔵(新京特別市副市長)
鮎川義介(満州重工業開発株式会社総裁)
麻生太賀吉
福家俊一(上海の国策新聞「大陸新報」社長)
甘粕正彦
影佐禎昭(陸軍中将。特務機関員。谷垣禎一の祖父)
石原莞爾(陸軍中将。1928年(昭和3年)10月 – 関東軍作戦主任参謀。1931年(昭和6年)10月 – 関東軍作戦課長。1937年(昭和12年)9月 – 関東軍参謀副長。1938年(昭和13年)8月 – 兼満州国在勤帝国大使館附陸軍武官)
楠本実隆(陸軍少将。特務機関員)
橋本欣五郎(陸軍大佐。1922年(大正11年)4月 – 関東軍司令部附仰付(ハルピン特務機関)。1923年(大正12年)8月 – 関東軍司令部附仰付(満州里特務機関))
古海忠之(満州国総務庁次長)
岩畔豪雄
阪田誠盛
里見甫
笹川良一
児玉誉士夫
大韓民国における満州人脈
大韓民国のチンイルパの中でも最大勢力の派閥である。メンバーの多くは日本統治時代満州国軍人であった。朴大統領などもこの人脈に属していたことからかつての軍事独裁政権下では一大勢力を誇った。民主化が達成された現在は影響力を低下させている。
満州国軍出身者の多くは北部(現在の北朝鮮)が故郷だったが、共産化によって越南して南朝鮮国防警備隊に入隊した。彼らは五族(日、韓、満、蒙、漢)の競争で生き残る能力を鍛え、また満州国軍の日本人顧問に慣れていたので米軍政の顧問制度に適応した。そのため建軍期の韓国軍で日本軍出身者と共に影響力を拡大していった。
主なメンバー
朴正煕(元大韓民国大統領)
白善燁(元大韓民国参謀総長)
李周一
丁一権
*朝鮮半島と満州の関連性を知るにはこの本が参考になる。