三島由紀夫と司馬遼太郎

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7月 172012

 もし、三島由紀夫氏と司馬遼太郎氏が現在も元気に生きておられたら、2011年 3月11日以降の日本社会をどのように見られただろうか、興味深い処である。

もちろん、お二方とも現在の日本社会を肯定されるはずはないが、それぞれの個性でどのように今の日本社会を表現されたか、読んでみたい、もしくは「英霊の声」のように御霊を呼び出して聞いてみたいものである。

 そんな興味もあって、「二人は真逆の道から一つの失望にたどり着いた。」という言葉に惹かれて、松本健一氏の「三島由紀夫と司馬遼太郎」(~「美しい日本」をめぐる激突~)という本を読んでみた。



 振り返ってみれば、1970年 11月25日、水曜日、私の記憶が正しければ、大変良い天気の日だった。まだ、小学生だった私が、暗くなるまで目一杯、外で遊んで家に帰ると夕刊がきていた。その日は、日本の文豪三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、「天皇陛下万歳!」と叫んで、自裁した日だった。まだ、三島の本を読んだことのない私にも軍医だった父が、夕餉の時に新聞を読みながら、発した「三島はよくやった!」という言葉が、いまだに脳裏に残っている。不思議なことに子供だった私は、父が何を訳のわからないことを言っているんだとは、全く思わなかった。訳もわからず、そんなものなのかと納得していたのだ。

 1970年と言えば、あの堺屋太一(本名池口 小太郎)氏がプロデュースした大阪万博の年だった。小学生だった私は、町内会、学校、家族と共にこの「不思議な演し物」の見学に数回も連れていかれた。「人類の進歩と調和」というテーマに抵抗するかのような岡本太郎氏の「太陽の塔」、今では本物かどうかもわからない「月の石」、今から思えば、本当に不思議な博覧会だった。

 ところで、教科書や参考書が新品同様で、後輩に吃驚されるほど、学校の勉強が嫌いだった私は、テレビを見ることと、本を読むことで時間を潰していた情けない学生だった。もちろん、大河ドラマの原作だった司馬遼太郎氏の本も時間を潰すためによく読んでいた。そんな私が、三島由紀夫氏の文章を初めて読んだのは、十五歳の時だった。

「詩を書く少年」、「岬にての物語」を読んだ衝撃は、今でも残っている。たしか、仏文学者の渡辺一夫氏は「誤植と見間違うばかりの華麗な文体」というような、褒めているのか、貶しているのかわからない不思議な表現をしていたと思うが、私が文章の持つ不思議な魅力を三島の文章によって初めて知ることになったことだけは、確かだ。

かといって私は文学青年にはならなかった。学校の勉強があまりにつまらないので、それらの本を読んでいたというだけだった。しかし、そんな私にも忘れられない三島の言葉がある。「私の中の二十五年」というエッセイの文章である。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。

それでもいいと思っている人たちと、私はクチをきく気にもなれなくなっているのである。」

 一方、司馬遼太郎氏も1996年には、バブル経済の日本を下記のように書いていた。

「物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、右の青ネギ畑の翌年の昭和四十年に一坪四百五十万円だったものが、わずか二十二年後の昭和六十二年には、一億五千万円に高騰していた。

 坪一億五千万円の地面を買って、食堂をやろうが何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。一年も所有すればまた騰り、売る。

 こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。(中略)でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう。」 

 

 ところで、この本の中には、興味深いさまざまな指摘がある。

たとえば、司馬遼太郎の『街道をゆく』全43巻をすべて読んだ著者は、25年にわたって書き継がれたこのシリーズにおいては「天皇の物語」がほとんど無視されていることに気がつく。この連載の第1回「湖西のみち」の書かれたのが三島自決直後であったという事実を発見するとともに、「近江」紀行であるにもかかわらず、そこには大化改新を行い、近江大津京をつくった天智天皇の記述が一切ないことに注目する。

さらには、三島由起夫の死をはさんで5年間(68-72年)新聞連載された『坂の上の雲』には、日露戦争中に四度にわたって開かれ、天皇自らが「親臨」した御前会議の場面が一度も描かれていないという興味深い事実も指摘している。以下。

〈司馬にとって日露戦争は、正岡子規や東郷平八郎の副官だった秋山真之、それに沖縄の漁師など国民一人ひとりが、歴史の歯車を回わした「国民の戦争」であった。それを「天皇の戦争」にしないため、乃木伝説はもちろん、天皇の発言という事実にもふれなかったのである。

『坂の上の雲』は、「国民の戦争」を描こうとした、司馬遼太郎の仮構にほかならない〉

もちろん、秋山真之が昭和史を揺るがした出口王仁三郎の大本教の熱心な信者だったことにも一切触れていない。

 このように三島事件の衝撃は、「天皇の戦争」ではなく「国民の戦争」を描こうとしていた司馬の意思と真っ向からぶつかり、そしてその後の司馬の針路に大きな影響を及ぼしている、そのことを著者は的確に指摘している。

 その意味で、三島自決の1ヶ月後に行なわれた鶴見俊輔との対談「日本人の狂と死」も興味深い。ここで司馬は、終戦の直前、米軍の本土上陸の際には東京に向かって進軍して迎え撃て、と命じた大本営参謀に、途中、東京からの避難民とぶつかった場合の対応を尋ねる。

 すると、「その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。……『ひき殺していけ』と」。司馬は「これが、わたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点です」と語る。

松本氏は、この逸話はおそらく「大嘘つき」という褒め言葉をもらったこともある司馬遼太郎の創作ではないか、と推測しているが、「それは三島事件の衝撃のなかで作成されたものなのではないか」と考える。すなわち、三島が彼自身の「美しい天皇」像に殉ずべく、狂気を発して自決するのを見た司馬は、「戦後的なるものの擁護者たるべく、大本営参謀の『ひき殺していけ』という発言を作り出したのではないか。司馬自身が戦後神話をつくった」のではないかと読み解く。三島とはいかに対立せざるを得なかったかという構図が見事に浮き彫りにされている。

 司馬遼太郎はやがて86年から『文藝春秋』誌上に「この国のかたち」の連載を始める。

「三島さんの刺激的でラジカルな国家論に対して、普通の世間の人々の耳目を集める形で、国家というものをソフトに静かに説く。ある意味では社会の混乱を安定化、鎮静化させる役割を担って」いくことになるのだが、時評的発言においては次第に、日本の行く末に対する危機感を表明するようになる。

そして絶筆となった「風塵抄――日本に明日をつくるために」では、バブル経済に狂奔する日本を憂い、このままでは「亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう」と痛憤の思いを隠さない。この記事が新聞に掲載された96年2月12日、司馬は腹部大動脈瘤の破裂で死去する。

 後に、作家の塩野七生さんが『朝日新聞』のインタビュー記事(「塩野七生の世界」96年6月24日夕刊)の中で、「司馬先生は、高度成長期の日本を体現した作家です。代表作の表題どおり、『坂の上の雲』を眺めながらまい進してきた日本人の思いを表現した。……バブルだって、遠くから見れば、青空に白く美しく浮かんだ、坂の上の雲だった。先生の死は象徴的でもある。実に悲壮な死に方をされましたよね。日本のことを心配されて。やはり一つの時代が、明確に終わったんだと思う」と追悼している。

 

小生の考えでは、三島由紀夫と司馬遼太郎は、日本の戦後復興によって生まれた作家である。言葉を変えて言うなら、二人とも「日本経済の高度成長という時代」と寝た作家である。そのために司馬氏は、明治という国家を肯定し、戦前を否定するという独特の歴史観を高度成長時代に提供し、経済復興に邁進する日本人に対して応援讃歌を書いた。

一方、三島氏は、豊かになっていく日本人に芸術至上主義による華麗な文学空間を提供した。明晰な三島氏は、経済大国になっていこうとする国のなかで、日本人の文化が失われていく危機感を露わにしていく。そして、1970年、高度成長の一つの頂点を象徴する大阪万博の年に、自分を流行作家にした戦後という時代を全否定すると言う行動に打って出る。

「リアリズムとロマン主義」、「朱子学と陽明学」、「高杉晋作と吉田松陰」、「西郷隆盛と大久保利通」、「乃木希助と児玉源太郎」、「天皇の戦争と国民の戦争」、「「私」の文学」と「「彼」の文学」、著者の指摘する三島と司馬のアナロジーも興味深い。

 しかしながら、21世紀の日本の未来を切り拓くためには、裏で英国の強い影響を受けた明治維新、日清戦争、日露戦争、米国に屈服させられた1945年の大東亜戦争敗戦、そして、現在も米軍占領下にある日本、この近現代史をありのままに冷徹に認識して、乗り越えないかぎり、新しい日本は見えてこない段階に入っている。

三島氏が予想した空虚な経済大国の地位さえ、今のままでは危ういものとなっているのが現実ではないのか。今の日本にはそれが見えている人と見えていない人がいるようだ。そして、見えている人の中には、「自分さえ良ければいい、今さえ良ければいい」と、故意に無視している人たちもいる。

 

*参考資料

動画 「三島由紀夫、松本清張事件に迫る」

   その一http://www.youtube.com/watch?v=V5HIkId_fSY

   その二http://www.youtube.com/watch?v=LuqyZ6MmdiQ&feature=relmfu

   その三http://www.youtube.com/watch?v=7M_UeRW87yg&feature=relmfu

   その四http://www.youtube.com/watch?v=6QG5iMUa5hA&feature=relmfu

   その五http://www.youtube.com/watch?v=ypp6Bxk2iO8&feature=relmfu

この番組の企画・構成をあの松岡正剛氏がしているのも興味深い。

 

<追 記>

 ところで、現在話題になっている尖閣問題だが、石原慎太郎氏は、何のためにこの問題を大きくし、日中関係の摩擦を大きくしているのか、図りかねるところである。

文学においても三島氏が石原氏の作品を正当に評価したにもかかわらず、褒められた側の石原氏には三島氏の肉体的コンプレックスを見透かしたような発言が多く、文学評価とは全く違う週刊誌ネタのようなもので、三島氏を貶していたことが思い出される。

はっきり言ってしまえば、三島氏は世界にその名を知られて作家だが、石原慎太郎氏は、世界的に名前を知られた作家ではない。文学的才能では比較にもならないというのが客観的現実だろう。

 現在、米国が、お金を一番借りているのが、日本と中国である。極端な言い方をすれば、日本と中国が、世界地図からなくなってしまえば、借金をアメリカは返す必要がなくなるのである。日中の摩擦が激化すればするほど、分断統治を目指すアメリカにとっては都合が良い。このぐらいのことを、かつて「ノーと言える日本」を書いた石原氏が理解していないはずはない。石原氏は、明らかにわざと今回の騒ぎをおこしているのである。そのことによってどんな利益が米国から石原氏に供与されるのか、たぶん、息子の石原伸晃氏のことを考えてアメリカのご機嫌を取っているのかもしれない。先般、本の紹介をした元外交官の孫崎 亨氏が、ツィーターで的確な指摘をしているので、紹介させていただく。以下。

「石原は似非愛国主義

 

石原批判:尖閣購入をぶち上げることによって、石原知事は英雄的扱いを受けている。待って欲しい。尖閣諸島は本来東京都と何の関係もない。彼は東京都と関係ある所でどうしているのか。そこで「愛国的」に振る舞っているか。

豊下楢彦氏は世界8月号で〈「尖閣購入」問題の陥穽〉を発表。尖閣の考察は素晴らしいがここでは石原氏に絞りたい。東京都の米軍横田基地の存在である。 

『東京新聞』は「横田基地は必要なのか」と題する長文の社説(513日付)において、現在の同基地が、輸送機とヘリがわずかに発着するだけの「過疎」の状況である一方で、18県の上空を覆う横田空域が「米軍の聖域」になっている現状を指摘し、「首都に主権の及ばない米軍基地と米軍が管理する空域が広がる日本は、まともな国といえるでしょうか」と問いかけた。

 

まさに石原流の表現を借りるならば、「独立から60年も経って首都圏の広大な空域が外国軍の管制下にあるような国なんか世界のどこにあるんだ」ということであろう。しかし、この威勢のよい啖呵の矛先は、13年前に「横田返還」を公約に掲げて都知事に就任した石原氏当人に向かうことになる。石原氏は横田基地の即時返還を米国に正面から突きつければ良いのではないか。

 

1972年の沖縄返還に際し米国は“沖縄と一緒に尖閣諸島の施政権は返還するが、主権問題に関しては立場を表明しない”との方針を決定。日中間で領土紛争が存在すれば、沖縄の本土への返還以降も“米軍の沖縄駐留は、より正当化される”という思惑。尖閣諸島の帰属に関するニクソン政権の“あいまい”戦略は日中間に紛争の火種を残し、米軍のプレゼンスを確保する狙い。

 

この構図は北方領土と同じ。日本とソ連が領土問題で紛争状態の永続化することが米国のメリットと判断。尖閣諸島の帰属問題で米国が「あいまい」戦略をとり、日本と中国が争う状況は米国に両国が弄ばれている姿。

 

石原氏は講演で渡米する前に“向こうで物議を醸してくる”と述べた。それなら、1970年代以来の尖閣問題の核心にある米国の“中立の立場”について、なぜ“物議を醸す”ことをしなかったか。東京都管轄の横田の返還を米国からとれず、尖閣に火をつけ政治的利益を計る石原は似非愛国主義者。」(引用終わり)

 

 孫崎享氏は、著書『不愉快な現実』『日本人のための戦略的思考入門』『日米同盟の正体』で「ジャパンハンドラーのジョセフ・ナイが『東アジア共同体で米国が外されていると感じたならば恐らく報復に出ると思います。それは日中両国に高くつきますよ』」と直接恫喝していることを指摘している。また、北方領土問題では在日英国大使館や米国のジョージ・ケナンが日ソ間の領土紛争を作り出して両国を対立させることを1940年代後半に提案していたことにも触れている。

7月 112012

 財務省の勝 栄二氏に踊らされて、民主党が政権交代を果たしてたった三年で、崩壊への道を歩むことがほぼ、決定づけられたようである。この政党ができた最大の功労者は、おそらく一番資金を提供したと巷間言われている鳩山由起夫氏であろう。今回の騒動で、その彼が半年の党員資格停止である。

<勝 栄二 氏>

 そして、その豪腕で、この政党に政権を取らせた男=小沢氏を今回、民主党の執行部は実質上、追い出してしまった。意味するところは、民主党、終わりへの道の始まりである。

ところで二年前に、小沢一郎という政治家をマスコミ、司法が、これほど「人物破壊キャンペーン」を繰り広げるのか、あまりに不可思議で下記のようなレポートを書いたことがある。

<以下、引用>

「小沢一郎は、なぜこれほどマスコミに叩かれるのか?」

 

 小生は、小沢一郎という政治家と面識もないので、彼についての私的な感情は、全くない。しかし、小沢一郎という政治家がこれほどマスコミに叩かれるのには、不可思議である。特に今回の民主党の代表選を巡る大手マスコミの世論調査の数字とネットでの世論調査との数字の大きな違いは余りに不可解である。今回は、その裏にどんな思惑が隠されているのかを考えてみたい。

 

 民主党の代表選挙は、これまでに前例のない展開になっている。新聞・テレビなどの大手メディアと、それ以外のメディア、特にネット上の世論が大きく分かれているのだ。9月6日に発表された朝日新聞の世論調査では、菅直人首相支持が65%で小沢一郎前幹事長が17%、同じ日の読売新聞の調査でも菅支持66%、小沢支持18%で、これだけ見ると大勢は決したように見えてしまう。ところがネット上の形勢は逆である。

例えばヤフー!の「みんなの政治」の投票では、菅氏29%に対して小沢氏が58%(7日現在)。4日に出演したニコニコ動画の投票では、21.5%対78.5%で小沢支持だった。ライブドアのBLOGOSのようなサイトでも、「想像を超えて雄弁だった小沢一郎の街頭演説」とか「小沢一郎さんの選挙の巧さ。」といった記事が上位に並び、ほぼ小沢支持一色になっている。あまりに都合が悪くて消された読売オンラインの民主代表選の世論調査の数字は、小沢76%、菅直24%であった。あまりに不自然である。意図的なものが隠されている判断するのが、自然であろう。





ところで、以下、興味深い記事を紹介する。

<エレクトリックジャーナル 2010 2月18日号より>

「小沢潰しを狙う三宝会」

 ところで、竹下登、金丸信両氏、それに小沢一郎といえば、旧経世会の三羽烏といわれていたのです。竹下、金丸とひとくくりにしていうと、金のノベ棒によって象徴される金権体質の政治家というイメージがあります。そして、小沢はそのDNAを引き継いでいる現代の金権体質の政治家の代表ということになってしまいますが、この見方は完全に間違っています。日本の政治の世界はそんなにきれいなものではありません。権力をめぐって権謀術数が渦巻き、政官業と大マスコミが癒着し、己の利益のためなら、マスコミを使って世論操作でも何でもするというひどい世界になっています。ですから、本気でこれを改革しようとする政治家があらわれると、政官業と大マスコミが謀略を仕掛けて追い落とすことなど、当たり前のように行われるのです。それは現在でも続いているのです。現在そのターゲットとされている中心人物が、小沢一郎なのです。彼が本気で改革をやりそうに見えるからです。それがウソと思われるなら、ぜひ次の本を読んでいただくとわかると思います。

               

平野貞夫著 『平成政治20年史』/幻冬舎新書

小沢は田中角栄にかわいがられた政治家であることはよく知られています。田中角栄は小沢に亡くした長男を見ていたのです。しかし、それを快く思わなかった人は少なくないのです。 その中の一人が意外に思われるかもしれないが、竹下登氏なのです。 

村山首相が政権を投げ出し、橋本龍太郎氏が後継首相になると、竹下氏は「三宝会」という組織を結成します。三宝会の本当の目的は、小沢を潰すことなのです。 

 もっと正確にいうと、自分たちの利権構造を壊そうとする者は、小沢に限らず、誰でもそのターゲットにされるのです。なぜ、小沢を潰すのでしょうか。それは小沢が竹下元首相の意に反して政治改革を進め、自民党の利権構造を本気で潰そうとしていることにあります。この三宝会について平野貞夫氏は、その表向きの設立の目的を次のように書いています。

 (三宝会の)設立の目的は「情報を早く正確にキャッチして、(中略)、行動の指針とするため、(中略)立場を異にする各 分野の仲間たちと円滑な人間関係を築き上げていく」というも のだった。メンバーは最高顧問に竹下、政界からは竹下の息が かかった政治家、財界からは関本忠弘NEC会長ら6人、世話 人10人の中で5人が大手マスコミ幹部、個人会員の中には現 ・前の内閣情報調査室長が参加した。要するに新聞、テレビ、 雑誌などで活躍しているジャーナリストを中心に、政治改革や 行政改革に反対する政・官・財の関係者が、定期的に情報交換 する談合組織だ。 

平野貞夫著  『わが友・小沢一郎』/幻冬舎刊

 この三宝会によって、小沢は長年にわたってことあるごとに翻弄され、しだいに悪玉のイメージが固定してしまうことになります。「剛腕」、「傲慢」、「コワモテ」、「わがまま」、「生意気」など、政治家としてマイナスのイメージは、三宝会によって作られたものなのです。 なお、三宝会のリストはいくつかネット上に流出しており、見ることができます。その会員名簿のひとつをご紹介します。

 http://www.rondan.co.jp/html/news/0007/000726.html

(*大変おもしろいリストを見ることができます。ご高覧下さい。)

 

 この会は現在も存続しているといわれており、上記の名簿の中には、現在、TBSテレビの「THE NEWS」のキャスターである後藤謙次氏(共同通信)の名前もあるのです。後藤謙次氏のニュース解説は定評がありますが、こと小沢に関してはけっして良いことを言わないことでも知られています。もっとも現在のマスコミにおいて、小沢を擁護するキャスターやコメンテーターは皆無でしょう。口を開けば「小沢さんは説明責任を果たせないなら、辞任すべきだ」――もう一年以上こんなことが飽きもせず続いているのです。

 昨年来の小沢捜査で、唯一小沢に対して比較的擁護すべき論陣を張っていたのはテレビ朝日系の「サンデープロジェクト」だけです。それは、元検察官で名城大学教授の郷原信郎氏の存在が大きいのです。郷原氏は2009年の大久保秘書逮捕のときからこの捜査を最初から無理筋の捜査であり、容疑事実からして納得がいかないと断じていたのです。郷原氏のコメントは実に論理的であり、納得のいくものであったのです。それは、今年になってからの小沢捜査でも変わらなかったのです。しかし、他局――というより、「サンデープロジェクト」以外の番組は、「小沢=クロ」の前提に立って、それは徹底的に小沢叩きに終始していたのです。一方、「サンデープロジェクト」以外の他局の代弁者は、元東京地検特捜部副部長のキャリアを持つ弁護士の若狭勝氏です。サンプロ以外のテレビにたびたび出演し、当然のことながら、若狭氏は一貫して検察擁護の立場に立って主張したのです。

 「サンデープロジェクト」の郷原氏に対して、同系列局も含めて他局はすべて若狭氏なのです。もっとも「サンデープロジェクト」では、1月29日深夜「朝まで生テレビ」でこの2人は激突しています。1対1の対決ではなく、小沢クロ派――平沢勝栄氏山際澄夫氏、それに若狭氏、これに対して、小沢擁護派は細野豪志氏、大谷昭弘氏と郷原氏という強力な対決であり、勝負にならなかったようです。しかし、ほとんどのテレビ局が反小沢というのは本当におかしな話です。

(引用終わり)

*田中紹昭の国会探検より

「あぶりだされるこの国の姿」

 

 民主党代表選挙によってこの国の姿があぶりだされている。「官僚支配」を続けさせようとする勢力と「国民主権」を打ちたてようとする勢力とがはっきりしてきた。

 アメリカは日本を「異質な国」と見ている。「異質な国」とは「自由主義経済でも民主主義でもない国」という意味である。ある知日家は「日本は、キューバ、北朝鮮と並ぶ地上に残された三つの社会主義国の一つ」と言った。またある知日家は「日本の司法とメディアは官僚の奴隷である。そういう国を民主主義とは言わない」と言った。

 言われた時には反発を感じた。「ロシアと中国の方が異質では」と反論したがその人は首を横に振るだけだった。よくよく自らの国を点検してみると言われる通りかもしれない。何しろ百年以上も官僚が国家経営の中心にいる国である。財界も政界もそれに従属させられてきた。「官僚支配」が国民生活の隅々にまで行き渡り、国民にはそれが当たり前になっていておかしさを感じない。

 北朝鮮には顔の見える独裁者がいるが、日本には顔の見えない「空気」がある。「空気」に逆らうと排斥され、みんなで同じ事をやらないといけなくなる。その「空気」を追及していくと長い歴史の「官僚支配」に辿り着く。それが戦後は「民主主義」の衣をまとった。メディアは「官僚支配」を「民主主義」と国民に信じ込ませてきた。

 

 確かに複数の政党があり、普通選挙が行なわれ、国民の意思が政治に反映される仕組みがある。しかし仕組みはあっても国民の意思で権力を生み出す事が出来ない。どんなに選挙をやっても自民党だけが政権につくカラクリがあった。社会党が選挙で過半数の候補者を立てないからである。つまり政権交代をさせないようにしてきたのは社会党であった。表で自民党、裏では社会党が協力して官僚は思い通りの国家経営を行ってきた。

 

 民主主義とは与党と野党が権力闘争をする事である。そうすれば国民が権力闘争に参加する事が出来る。選挙によって権力を生み出すことが出来る。ある時はAという政党に権力を与え、次にBという政党に権力を与える。AとBは権力を得るために切磋琢磨する。それが官僚にとっては最も困る。異なる二つの政策の政党を両方操る事は出来ないからだ。それが昨年初めて政権交代した。

 官僚の反撃が始まる。政権与党に分裂の楔を打ち込む工作である。一つは「政治とカネ」の攻撃で、もう一つは野党に昨年の選挙のマニフェストを批判させる事で民主党の分裂を誘った。最大の攻撃対象は小沢一郎氏である。それさえ排除できれば、民主党も自民党も手のひらに乗せる事が出来る。

 小沢なき民主党は自民党と変わらなくなる。それが官僚の考えである。案の定、昨年の民主党マニフェストが批判されると菅総理は自民党と似たような事を言い始めた。

 従って民主党代表選挙は「政策論争」の選挙になる筈だった。積極財政を主張する小沢氏と緊縮路線の菅氏の政策競争である。小沢氏は政策を掲げて路線も明確にした。

ところが菅氏が路線を明確にしない。「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と経済政策としては全く意味不明の事を言いだし、次いで「政治とカネ」を争点にした。

 積極財政と緊縮財政は、かつて自民党内の党人派と官僚出身者がそれぞれ主張した事から、「政治主導」か「官僚主導」かに分類する事は出来る。また総理就任以来の菅総理の言動は財務省官僚のシナリオで、かつての竹下元総理と同じである。大蔵省の言う通りの政権運営をした竹下氏を金丸氏や小沢氏が批判して経世会は分裂した。

 それだけ見ても小沢VS菅の争いは「政治主導」と「官僚主導」の戦いだが、菅氏が「政治とカネ」を持ち出した事でさらにその意味が倍加された。「政治とカネ」はロッキード事件以来、検察という行政権力が政界実力者に対して犯罪とも思えない事案をほじくり出し、それをメディアに騒がせて国民の怒りを煽り、無理やり事件にした一連の出来事である。

 小沢氏の疑惑も何が事件なのか元司法担当記者である私にはさっぱり分からない。騒いでいるのは検察の手先となっている記者だけだ。メディアは勝手に小沢氏を「クロ」と断定し、勝手に「政界追放」を想定し、勝手に「総理になる筈がない」と決め付けた。小沢氏が代表選に立候補すると、自分の見立てが外れて慌てたのか、「あいた口がふさがらない」と相手のせいにした。無能なくせに間違いを認めないメディアのいつものやり口である。

 メディアはこれから必死で小沢氏が総理にならないよう頑張るだろう。世論調査をでっち上げ、選挙の見通しをでっち上げ、足を引っ張る材料を探し回る。世論調査がでっち上げでないと言うなら、いくらの費用で、誰に調査させ、電話をした時間帯、質問の順序、会話の内容などを全て明らかにしてもらいたい。街頭インタビューと同様、あらかじめ決めた結論に沿ったデータを作る事などメディアにとっては朝飯前だ。

 メディアが頑張れば頑張るほどメディアの実像が国民に見えてくる。メディアは今自分があぶりだされている事に気づいていない。自らの墓穴を掘っている事にも気づいていない。

 

 「政治とカネ」が裁判になると「事実上は無罪だが有罪」という訳の分からない判決になる事が多い。しかし政治家は逮捕される前からメディアによって「クロ」にされ、長期の裁判が終る頃に「事実上の無罪」になっても意味がない。アメリカの知日家が言う通り、この国の司法は民主主義国の司法とは異なるのである。

 それを裏付けるように最高裁判所が9月8日、鈴木宗男氏に「上告棄却」を言い渡した。民主党代表戦挙の1週間前、北海道5区補欠選挙の1ヵ月半前である。多くの人が言うように一つは小沢氏を不利にする効果があり、もう一つは自民党の町村信孝氏を有利にする効果がある。最高裁の判決は二つの政治的効果を狙ったと疑われても仕方がない。疑われたくなければ10月末に判決を出しても良かったのではないか。

 北海道5区の補欠選挙への鈴木氏の影響力は大きいと言われる。自民党最大派閥の領袖が民主新人に敗れるような事になれば町村派は消滅する。官僚にとって都合の良い自民党が痛手を受ける。だからその前に判決を出した。民主党代表選挙に関して言えば、その日開かれた菅陣営の会合でいみじくも江田五月氏が言及した。「だから菅さんを総理にしよう」と発言した。最高裁判決は菅氏を応援しているのである。

 

 司法もまたその実像を国民の前にさらしている。行政権力に従属する司法が民主主義の司法なのか、国民はよくよく考えた方が良い。それを変えるためには国民の代表が集う国権の最高機関で議論してもらうしかない。

 江田氏が最高裁判決に言及した菅陣営の会合での馬渕澄夫議員の発言にも驚いた。「民主主義は数ではなく、オープンな議論だ」と言ったのである。すると民主党議員の間から拍手が巻き起こった。申し訳ないが民主主義を全く分かっていない。

重大な事案をオープンな場で議論する国など世界中ない。どんな民主主義国でも議会には「秘密会」があり、肝心な話は密室で行なわれる。

 日本の国会が異常なのは「秘密会」がない事だ。重大な話は官僚が決め、政治家に知らされていないので「秘密会」の必要がない。オープンな場で議論できることは勿論オープンで良いが、それだけで政治など出来る訳がない。「オープンな議論」を強調する議員は「官僚支配」を認めている話になる。政治主導を本当にやるのなら、「オープンな議論」などという子供だましをあまり強調しないほうが良い。

 

 民主主義は数である。国民の一票が大事な制度だからである。それをおろそかにする思想から民主主義は生まれない。政策を決めるにも一票が足りずに否決される事を考えれば、数がどれほど大事かが、分かる。それに加えてアメリカでは「カネ」が重視される。「カネ」を集める能力のない人間は政治家になれない。

 菅陣営にはそういうことを理解する人が少ないようだ。この前の国会でも「オバマ大統領は個人献金でヒモ付きでないから、金融規制法案も提案できるし、核廃絶を言う事も出来る。企業の献金を貰っていたらそうはならない」と発言した民主党議員がいて、菅総理がそれに同調していた。

 とんでもない大嘘である。オバマに対する個人献金は全体の四分の一程度で、ほとんどはウォール街の金融機関からの企業献金である。企業から献金を受ければ政治家は企業の利益のためにしか働かないというのは下衆の考えで、献金を受けても政策はそれと関係なく実行するのが政治家である。核削減も平和のためと言うより米ロの交渉に中国を加えたいのがオバマの真意だと私は思うが、とにかく献金を受けるのが悪で貰わないのが善という驚くほど幼稚な議論をこの国は続けている。

 政治家が幼稚であれば官僚には好都合である。このように民主党代表選挙は図らずもこの国の様々な分野の実像を見せてくれる契機になった。そして改めて対立軸は「官僚支配」を続けさせる勢力と、昨年の選挙で初めて国民が実感した「国民主権」を守る勢力との戦いである事を認識させてくれる。

(引用終わり)

 ところで、菅政権は小泉政権同様に財務省主導の経済政策で、「財政再建(緊縮財政)・金融引き締め・構造改革」路線であり、外交・安全保障政策では「対米追従」路線である。

 これに対して、小沢氏は、経済政策では「財政拡張(積極財政)・金融緩和・平等主義(分配主義)」路線であり、外交・安保政策では「対米自立アジア重視」路線である。

 いずれにせよ、今回の民主党代表選を通じて、菅首相と小沢氏の思想・政策の違い、換言すれば、民主党内の相反する思想・政策の違いが鮮明になるのは歓迎すべきことなのである。

 昨今の円高への対応をはじめ、これまでの民主党政権の経済政策を見ると、民主党が分裂して、政界再編に進むことこそが、政策のねじれを解消し、政局ばかりの日本の政治が、少しでもまともな方向に行くことに繋がるはずである。 

<以上、引用終わり>

上記のレポートに書いてある事情により、当然のごとく、日本のマスコミは今回の小沢一郎氏の行動にも批判的である。離党者が50人を切ったことを指摘して「小沢氏の力も落ちた」などと相変わらずトンチンカンな論評をしている。

細川総理を誕生させた1993年、小沢氏はたった44人で自民党を離党したのである。マスコミは都合良くそのことを忘れてしまったようである。ところがである。米国のウオールストリートジャーナルは全く違う論評をしている。一読されて吃驚される方もいるのではないだろうか。

(以下引用)

2012年 6月 29日

【社説】「闇将軍」小沢氏に日本再生のチャンス与えた消費増税

 

過去20年間にわたって消費増税を政治家に働きかけてきた日本の財務省がついに、思い通りの結果を手に入れた。6月26日に衆議院を通過した法案は、現行5%の消費税率を2014年4月に8%、2015年10月に10%にまで引き上げるというものだった。官僚たちは金融危機を防ぐために必要な措置だと言うが、経済に占める政府の割合が拡大されるのも事実である。これにより官僚はさらに大きな力を握ることになる。

この法案の可決によって得をしたのは財務省ぐらいだろう。6月6日付の朝日新聞の朝刊に掲載された世論調査の結果によると、回答者の56%は増税に反対していた。経済にとっても痛手となるはずだ。結果として、野田佳彦首相が率いる政権の余命はいくばくもなくなった。

 野田首相が代表を務める民主党所属の衆議院議員のうち57人がこの法案に反対票を投じた。野党である自民党、公明党の協力で衆議院を通過した同法案だが、参議院での可決後、両党は衆院解散・総選挙に追い込むため内閣に不信任案を提出することを明言している。

 これで優位に立ったのが、民主党内で造反を主導した小沢一郎氏である。その駆け引きのうまさから「闇将軍」として知られる同氏は民主党を離党し、新党を結成するとみられている。小沢氏への国民の支持は、4月に政治資金規正法違反事件で無罪となったこと、消費増税に長年反対してきたことなどが好感されて高まることもあり得る。

 そうなれば日本にとっては朗報である。小沢氏は減税と官僚制度改革に的を絞った新党設立のために自民党からの離反者を取り込んだり、選挙戦術を駆使したりするかもしれない。経済政策をめぐる論争がついに公の場に移され、1980年代のバブル崩壊からずっと問題を先送りにしてきた一連のコンセンサス主義の短命政権とは違う選択肢が有権者に与えられるかもしれない。

 これに似たことが起きるのではという期待感は、小沢氏の力で民主党が自民党に大勝し、政権交代が起きた2009年にもあった。しかし、初めて与党になった民主党の政治は、公的部門の組合の支持に頼っていることもあり、過去の保守的な党派政治に姿を変えてしまった。政治家が財務省の圧力に抗うのは容易ではない。というのも財務省には公共支出を各選挙区に振り分ける権限があり、これで政治家の再選を後押しすることも可能だからである。結局、消費増税をする前に行政機関を徹底的に見直し、無駄や不正を排除することを約束した民主党の選挙時のマニフェストが守られることはなかった。

 財務省の支配から脱却するには、米国の保守系草の根運動「ティーパーティー(茶会)」のようなものが必要になろう。日本の保守的な政治制度では無理なことのようにも思えるが、勇気づけられるような兆候もある。たとえば、大阪市や名古屋市で勢力を誇っている地域政党は「大きな政府」に異議を唱え、自由主義市場原理経済派のみんなの党もまだ小規模ながら全国的な支持を集め始めている。

 増税の開始が転換点になるかもしれない。1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた時のことを振り返ってみよう。経済はそれまでプラス成長を示していたが、翌四半期には前期比で2.9%、年率換算では11.2%も縮小し、1974年以来で最大の下げ幅となった。好調だった輸出の伸びがなければ、その縮小幅は14.7%にもなっていたという。消費の低迷はその後も続き、自動車の販売台数に至っては減少が32カ月間も続いた。

その影響が政治に現れるのにも長い時間はかからなかった。翌年、自民党は参議院の議席で過半数を失い、当時の橋本龍太郎首相は辞任に追い込まれた。景気がようやく回復したのは、小沢氏が当時代表を務めていた自由党が自民党との連立の条件として減税を要求してからのことだった。

 小沢氏を説得力のある改革の先導者候補にしているのは、同氏の官僚制度に対する根深い不信感である。衆議院で民主党を過半数割れに追い込むには、小沢氏は少なくとも54人の民主党議員を引き連れて離党する必要がある。

 「小沢チルドレン」と呼ばれる初当選議員にとって財務省に刃向うことは、大きなリスクとなる。そうした造反議員たちが慰めを見出せるとしたら、それは国民の間で広がっている無駄な政府支出や失敗に終わったケインズ主義的な景気刺激策に対する不信感だろう。

既得権益という時限爆弾は早急に処理されるべきであり、景気回復は規制緩和によって実現されるべきである。さもないと日本はギリシャのような危機に直面することになるだろう。今の日本に欠かせないのは、こうした議論を始めることである。

 (引用終わり)

 小沢一郎氏はもう70歳、古稀である。最後の大勝負に出た背景を上記のウオールストリートジャーナルの記事を読むと何となく想像できる。小沢氏を一貫して排除しようとしてきた米国勢力の衰退である。

 金融危機に喘ぐ米国の今回の大統領選には、盛り上がりがほとんど感じられないが、世界寡頭勢力の非公開会議と言われているビルダーバーグ会議が、2012年5月末から6月頭にかけて、米ワシントンDC郊外で行われた。

今回も、次期大統領を引き続きオバマで行くか、ロムニーで行くかが内々に決められた事は間違いない。ロムニーは、共和党候補でありながら、米戦争屋=ネオコンの影が非常に薄い。

  このように、次期米大統領がオバマかロムニーのどっちに転んでも、米戦争屋の影は薄く、かつてのブッシュ時代のように戦争屋政権(=石油利権派)に戻ることはない。

 要するに、オバマになってもロムニーになっても、米戦争屋のボスであったデビッド・ロックフェラーの天敵・ジェイ・ロックフェラーに近い大統領の誕生ということになることが決まっている。

さらに小沢氏はジョイ・ロックフェラーと共闘関係にあった欧州財閥の総帥ジェイコブ・ロスチャイルドとも近いと言う情報もある。

意味するところはやっと、92歳のデビッド・ロックフェラーの時代が終わるということである。 おそらく、小沢氏はこの変化を読んで、最後の勝負に出たのである。

  もちろん、現在の日本の支配層の多くは、デビッド・ロックフェラー系の米戦争屋ジャパンハンドラーを盲信して従属しており、現オバマ米政権とも距離がある。当然、デビッドの失脚とともに、これら、ジャパンハンドラーのパワーも急速に弱まっていく可能性が高い。おそらく、現在はその狭間なのである。

そうなると、これから、小沢氏への攻撃も弱まってくると予想できる。上記のウオールストリートジャーナルの記事はその兆候である。おそらく、その辺のところが、日本のマスコミは、読み切れていないか、わかっていても方向転換できないほど、既得権益が強いのか、どちらかであろう。

 先日のテレビ朝日の深夜番組「朝まで生テレビ」にて小沢氏のアンチ野田政権的行動(マスコミのいう造反)を評価する視聴者が66%に達した。一方、大手マスコミの世論調査では、どれもこれもそろって、小沢新党支持は15%前後しかない。どちらが本当か、今後はっきりすることになる。もっとも、反原発官邸デモが15万人、20万人という数字に膨れあがっても報道しない大手新聞社もあるのだから、日本のマスコミ報道そのものを、国民が信用しなくなる日が近づいていると考えるべきかもしれない。

*JB PRESS より

<前回>

 「オンラインでERSSへの現地情報が途絶した後でも『全交流電源喪失事故』のような過酷事故の進展を、原子炉ごとにシミュレーションしたバックアップシステムPBSが使えたはずだ。安全保安院はそれをしなかった」

 つまり「法律とシステム、マニュアルが正しく使われていたら、南相馬市、飯舘村、川内村などの住民のかなりの割合の人たちが被曝せずに済んだ」と言えるのだ。すなわち15条通報以後の「住民避難の失敗」は天災でも何でもなく「あらかじめ決めてあったことを政府ができなかった・あるいはやらなかったための人災」だと言える。

報道はもちろん、国会事故調査委員会の論点整理もこの「地震・津波」という天災と「避難の失敗」という人災の「2つの別種の災害」を「1つの災害」と誤解したまま論じている。

「住民を避難させることに失敗した」のは人災

 これを3.11の全体像の中に置いてみよう。「中間まとめ」と思って読んでほしい。

A原発事故の原因になった3.11のような巨大地震と津波は想定外だったかもしれない。

Bしかし「原発が全交流電源を喪失する」という甚大事故は予測され研究し尽くされていた。(NRC報告書を後述)

Cそして「そうなったとき」のための法律やシステム、マニュアルは完備していた。

D政府=特に専門家であるはずの官僚=原子力安全保安院(経産省)と学者=原子力安全委員会は、こうした法律やシステム、マニュアルをまったく使えなかった。あるいは使わなかった。

(注)「政府」という言葉には、政治家、官僚、学者などがプレイヤーとして含まれる。それぞれは負うべき責任の種類が違う。仔細な責任の在処は追って詳しく検証していく。

Eつまり「地震と津波で原発が全電源を失う事態に陥る」までは「天災」だったが「原発がそうなったあと、住民が被曝しないように避難させることに失敗した」という部分に関しては「人災」(あえて善意に解釈してあげれば『失策』)である。

この「人災」部分には多数のプレイヤーが介在し、それぞれが不作為のミスを重ねている。国、県。政治家、官僚、学者。それは複雑な地層のような多数のミスの重なり合いで、一見しただけでは誰がどこでどんなミスをしたのかが、判然としない。こうした「多重失態」の実態は追って少しずつ解明していくつもりだ。

格納容器は壊れないことになっている 

さて、松野元さんとの対話に戻る。



<松野 元プロフィール> 

原子炉主任技術者、第1種電気主任技術者。1945年1月1日愛媛県松山市生まれ。1967年3月、東京大学工学部電気工学科卒。同年4月、四国電力(株)に入社、入社後、火力発電所、原子力部、企画部、伊方原子力発電所、東京支社等で勤務。2000年4月、JCO臨界事故後の新しい原子力災害対策特別措置法による原子力防災の強化を進めていた経済産業省の関連団体である(財)原子力発電技術機構(現在の独立行政法人原子力安全基盤機構)に出向。同機構の緊急時対策技術開発室長として、リアルタイムで事故進展を予測し、その情報を中央から各原子力立地点のオフサイトセンター等に提供して、国の行う災害対策を支援する緊急時対策支援システム(ERSS)を改良実用化するとともに原子力防災研修の講師も担当し、経済産業省原子力防災専門官の指導にも当たった。2003年3月出向解除。2004年12月四国電力(株)を退職。

──「地震・津波」という天災と「全電源喪失後、住民の避難を失敗した」という人災は2つの別種の災害ではないかと私は考えています。どう思われますか。

 「その通りです。アメリカの原子力委員会(NRC)が1990年12月に『5つの原発についてシビアアクシデントが起きる確率』を計算して公表しています。その結果を見ると『福島第一原発のような沸騰水型では炉心溶融に至るようなシビアアクシデントの9割以上は全電源喪失で起きる」と計算している。が、アメリカの原発は地震や津波とはほとんど無縁です。その原因はテロということもありえる。つまり、全電源喪失や炉心溶融は、地震や津波と関係なく起きる事象なのです。1対1の関係ではない。『全電源喪失』と『地震や津波』とは話が別なのです。その対策や発生確率もまったく独立した別個の話だ。3.11では、たまたま津波が来て、日本の原子力安全思想の弱点を洗い出したに過ぎないのです」

 私が3.11の直後に福島県の現場で取材したときからずっと解消できないままの疑問があった。煙のようにもくもくと原発から噴き出して流れていった放射性雲(プルーム)から避難する境界線が、なぜ「原発から半径20キロ」というような地図に引いた人工的な線で決められたのか、という点だ。

 実際にプルームは官僚が地図にコンパスで引いた線などまったくおかまいなしに広がり、境界線の内側外側関係なく放射性物質で汚染した。ライン外の人は、避難のための交通手段や避難所の手配はおろか、避難が必要だという警告すらなかった。プルームが20キロラインでぴったり止まることなどありえない。子どもでも分かる馬鹿馬鹿しい失策である。実際に「30キロライン」の外側だった福島県飯舘村は避難はおろか警告すらなく、村人や避難者7000人以上がみすみす被曝した。

──そもそも、なぜ「原発を中心にした同心円で危険度を測る」という発想が出てきたのですか。

 「同心円での避難規制は『放射線源が1点』を前提にしています。放射線源が1点なら、距離が遠くなるほど、放射線は弱くなる。光と同じ影響特性ですから。そして線源は移動しない」(実際の放射能雲は、無数の放射線源を含み、かつ煙のように移動する)

──それは原発災害に備えた「原子力災害対策特別措置法」が1999年の東海村JCO臨界事故の反省で生まれた法律だからでしょうか。

 「確かに、臨界事故では放射線源は点でした。でもそれだけじゃない」

──どういう意味でしょうか。

現在の立地審査指針は格納容器が壊れないことを前提にしています。格納容器は壊れないことにして安全評価を行っている。格納容器は英語では“container”=『放射性物質の封じ込め容器』です。壊れると中から放射性物質が漏れ出す。それは『ないこと』にしてしまった。だから『原発から煙のように放射性物質が噴き出す』なんていう事態は考えていない。考えなくていいことになっている」

なぜ日本で「非居住地域」はたった半径1キロ圏なのか

──そんな馬鹿な。

「例えば、政府は原子力発電所の『立地審査指針』を定めています。『電力会社が原発を造ろうとしたとき、この基準を満たさなければ政府は許可しない』という基準です。ここに『非居住地域』『低人口地帯』を考慮して立地するようにと書いてある。しかし格納容器が壊れないことを前提とすれば、重大事故や仮想事故を仮定しても放射能影響は『1キロメートル以内=原発の敷地内』に収まることができるので『非居住地域』と『低人口地帯』を具体的に考えなくて済む

──1979年にスリーマイル島事故が起きています。燃料棒が融けて放射性物質が一部外部に漏れ出した事故です。そのときの避難範囲はほぼ5マイル=10キロ程度でした。つまり、もし格納容器が破損したとき=放射性物質が漏れ出したとき、住民への被害を避けるなら『非居住地域』『低人口地帯』は半径10キロでなければならないことが分かった。そのときに日本でも半径10キロに基準を変更すればよかったのでは?

10キロに広げると、日本では原発そのものの立地がほとんど不可能になるでしょう。アメリカやソ連と違って、この狭い国土に、半径10キロが非居住地域なんて、そんな場所はほとんどない。あったとしても、用地買収が大変だ。しかし半径1キロなら、原発の敷地内だけで済んでしまいます。半径10キロは砂漠や荒野を持つ国の基準です」

──それは「日本に原発を造るために、格納容器の破損はないことにしよう」という逆立ちしたロジックではありませんか。

「そうです。『立地基準を満たすために、格納容器は壊れないことにする』という前提です。この前提は福島第一原発事故で完全に崩れてしまった。それを無視したままで何も対策を取らないでいるのですから、今のままでは、日本政府には原発を運転する資格がないとさえ言えるでしょう」

全国の原発で同じ失敗が繰り返されるはず

「原発を立地できるように、格納容器は壊れないことにする」というロジックを聞いて、私が昨年春に福島第一原発事故の現場で見て以来、合点がいかずに悩み続けた数々の謎が氷解した。

(1)原子力防災の司令室になるはずだった「オフサイトセンター」が原発から5キロという至近距離に建設されていたために、交通や通信の途絶、空中線量の上昇で放棄せざるをえなくなった。司令塔を失った。なぜそんな至近距離に司令本部をつくったのか。

(2)福島県南相馬市・飯舘村など太平洋岸から脱出するための避難道路が整備されていない。阿武隈山地を越える片側1車線の道路が2~3本あるだけだった。車が数珠つなぎになり、麻痺した。なぜ脱出道路が整備されていなかったのか。

(3)なぜ原発周辺から脱出するためのバスなど移動手段の用意がなかったのか。

(4)なぜ原発周辺から外へ脱出する訓練が行われなかったか。

私は、福島第一原子力発電所で起きた「格納容器が破損し、放射性物質が外に漏れ出して住民を襲った」という事実を見て、どうしてこんなひどい事故から住民を守る対策が取られなかったのか、合点がいかなかった。「対策はあったが、誰かが忘れていたのか」「それは誰か」「故意なのか事故なのか」「対策そのものがなかったのか」。それを一つひとつ調べている。

 しかし「『格納容器が壊れることはない=放射性物質が外に漏れ出すことはない』という前提で立地審査が行われていた」かつ「『立地審査が通れば、事故も起きない』という誤謬がまかり通った」と考えれば、すべて説明がつく。

こうした「誤謬のうえに誤謬を重ねた前提」で決められた安全対策の構造は、全国の原発でそのまま残されている。オフサイトセンターの位置。貧弱な脱出避難の道路。脱出手段が用意されていないこと。貧弱な避難訓練。

例えば、再稼働が決定された福井県大飯町の大飯原発のオフサイトセンターは、同原発から5~6キロのところにある。だから仮に福島第一原発事故と同じ内容の事故が起きれば「フクシマ」に起きたのと同じ失敗が繰り返される。容易に想像できることだ。

「健全な原子力の推進には適切な保険が必要」

 

──では「地震や津波さえなければシビアアクシデントは起きない だから再稼働は許されるのだ」という論法は間違いだということになりますか?

「どこかの国のジョークに、こんな話があるそうです。夫が、珍しく仕事が早く終わったので、何年かぶりに早く帰宅した。すると奥さんが浮気していた。夫婦は離婚した。後で奥さんは言った。『あなたが珍しく早く帰宅したりしなければ離婚になんかならなかったのに』。

 これと同じです。確かに、津波が来なければ、3.11のような事故は起きなかったでしょう。しかし、全国の原発は、今なおその弱点を抱えたまま運転を継続しているということを想像してみてください。『テロ』『ミサイル攻撃』『航空機墜落』『勘違い誤操作』などに対して、依然弱点をさらしたままだ。

 そもそも原子力防災の精神は『事故がすぐに起きるとは思っていないが、事故対策は必要』です。『事故は必ず起きるから対策を取れ』というのは、占い師や反対派の言うセリフだと思います。健全な原子力の推進には適切な保険が必要なのです。適切な保険とは『世界水準の保険』にほかなりません」

──いつ、どうした経緯でこんなグロテスクなことになったのですか。

 「立地指針は1964年の策定です。その後、四国電力の伊方原発の設置許可をめぐって、裁判が争われました(1973年提訴。1992年に原告住民側敗訴の最高裁判決が確定して終結)。原発推進派と懐疑派双方が論客を動員して、論戦を繰り広げた。法廷を舞台にした、原発の安全性をめぐる総力論戦になった。ここで原子力安全委員会委員長の内田秀雄・東大教授(2006年死去)が『格納容器は壊れない』説を強弁した。それがずっと生きている」

──反論はなかったんですか。

「もちろん法廷でも『格納容器は本当に壊れないんですか』と教授自身が相手側弁護士に尋問された。そこで内田教授は『ディーゼル発電機そのほかのバックアップ電源がある。100万年に1回の確率だ』と主張した。裁判官も原子力発電所の安全基準なんて門外漢だから分からない。そこでこの『設置許可基準を満たせば安全』というロジックに乗ったんです。そのロジックをそのまま使った判決内容だった」

──伊方原発訴訟(2号機)の審理中に、スリーマイル島事故が起きています。その事実は裁判に影響しなかったのでしょうか。

「スリーマイル島事故では燃料が溶解していることが裁判の後で分かり、原告側が『1号機訴訟』(筆者注:訴訟は複数ある)で主張していた通りになっていた。しかし首の皮一枚で格納容器は破損しなかったのです。これが『格納容器は壊れない説』を補強するような格好になってしまった」

想定されていなかったシビアアクシデント

 私は暗い気持ちになった。この話をしている松野さんは現役時代、他ならぬ四国電力の技術者であり、伊方原発の勤務経験もあるからだ。国の下部機関への出向で原発事故防災の専門家になった松野さんは、裁判の詳しい内容も熟知している。言葉通り「原発反対派」でも何でもない。そのど真ん中の当事者である彼が、国が勝訴して四国電力の原発設置を裁判所が認めた判決を批判しているのだ。

──伊方訴訟の判決がその後の全国の原発行政にずっと影響を与えているのですか。

「『設置基準を満たしさえすれば、その原発は安全だ』という誤解が広まってしまった。これは本来まったくおかしい。設置基準と、実際に事故が起きるかどうかはまったく別の話だ。まして事故が起きたらどう避難するかは別次元の話です」

──もう少し分かりやすくお願いします。

「ビルを建てるときは防火基準を満たさなければならない。火事が起きても燃え広がらないような耐火建材を使う。中の人が脱出できるように非常口を設ける。でも、安全基準を満たしたからといって、火事が絶対に起きないとは言えない。だからこそ避難経路は決めておく。避難訓練をする。そうでしょう? 許可基準と事故の可能性とはまったく別の話だ」

 あえて補足すれば、こうだ。2011311日よりずっと前に、すでに日本の原発の安全対策(住民を被曝から救う対策も含む)は矛盾し、論理的に破綻していたのだ。それを政府は見て見ぬ振りをした。政治家や報道、裁判所は目を向けず無視した。気づかなかった。「壮大なグロテスク」だ。

──シビアアクシデントを想定していなかったことが、福島第一原発事故ではどのような形で具体的に現れていますか。

「電源を喪失してから電源車を必死で探したり、注水のためのポンプ車を探したりしていたのはおかしいと思いませんでしたか。『どうしてそういう訓練がなかったのだろう』と思いませんでしたか。あれは受験勉強をせずに難関大学を受験するようなものです。シビアアクシデントを想定できていれば、そしてそれへの対策不足を認識していればすぐに海水注入してベントもして、と手順はすぐに決まっていたはずです」

日本だけが30年遅れている

 

──どうして甚大事故への対策がこれほどお留守なのでしょうか。こんな状態なのは日本だけなのでしょうか。

「チェルノブイリ事故のあと、世界はシビアアクシデントに備えた対策を取るようになりました。日本だけが30年遅れています」

──日本の原発の安全設計は、国際水準から見ると、どれほど遅れていると考えればいいのでしょうか。

IAEAは『5層の深層防護』を主張しています。が、日本のそれは3層しかない。それが日本の原子力発電所の致命的な弱点です。

足りない2層は『シビアアクシデント対策』と『原子力防災』です。原子力防災がなかったために住民を逃すことが忘れられてしまったのです。ほぼ30年前のチェルノブイリ発電所事故の後に世界で行われたシビアアクシデント対策がしっかりしていれば、フィルター付きベントがほぼ機械的に行われて、住民避難が容易になったでしょうし、最後の最後には原子炉を廃炉にする余裕もあったと思います」

──なぜそんなお粗末な状態になったのですか。

「ちょうどそのころから、日本の原子力エネルギー政策はプルサーマル(筆者注:ウランだけでなくプルトニウムを添加して燃料とする発電。ウランとプルトニウムの混合燃料であるため『MOX燃料』と言われる。福島第一原発では3号機がMOX燃料)に傾斜していくのです。

 ちょうど核燃料サイクルがうまくいかなくなっていたころだった(注:原発で燃やしたあとのウラン燃料を青森県六ヶ所村で再処理してプルトニウム燃料に変えて福井県の高速増殖炉『もんじゅ』の燃料にする。もんじゅは度重なるトラブルで1994年以来休止)。

各地でMOX燃料を使う計画が持ち上がり、その地元説明会やその論理構築といった対策に一生懸命になった。真剣な原子力推進から空虚な原子力へと人事がシフトしました。それでシビアアクシデント対策が無防備なままになった」

──具体的にどんな対策が取りえたのでしょうか。

 

「例えば、シビアアクシデントを想定するなら、ベントで格納容器内の圧力を逃がすとき、放射性物質が外部に出ないよう、除去するフィルターを付けなくてはいけません。大飯原発(福井県)で言えば、フィルター付きベント弁もないまま再稼働してはいけません。シビアアクシデントを想定するならフィルターが付いていないのは無防備すぎる

──松野さんは経産省の「原子力災害防災専門官」を養成する研修の講師だったはずです。研修で「格納容器が壊れることはないという前提はおかしい。壊れたときの対策も考えておこう」と教えなかったのですか。

「『防災対策について国が決めている内容を説明せよ』という委託を受けていました。私は、格納容器が壊れたときの防災対策を説明していたつもりです。もちろん質問されれば答えたでしょう。端的に言えば、日本の原発の『設置許可』と『防災対策』はリンクしていないのです。『防災対策』は『設置許可』の条件になっていない。したがって、原子力防災専門官の防災教育の中で設置許可の話は、質問がなければできない」

拒絶された「100キロ圏内の避難訓練」の提案

 

──もし3.11のときに松野さんが防災の責任者で、避難範囲を設定するなら、半径何キロが適当だったと思いますか。

「1999年に東海村臨界事故が起きたあと『原子力災害対策特別措置法』が作られ、私は2000年に四国電力から原子力発電技術機構(現・原子力安全基盤機構)に出向しました。そこで、ERSSを改良・運用する責任者になりました。システムが完成して、訓練の高度化に取り組んだのが2002年です。

そのときに私は、EPZがそれまでの10キロ圏では大幅に不足すると考えていました。そこでチェルノブイリ級の事故を想定してERSSで『100キロ圏に影響が及ぶ過酷事故の予測訓練内の避難訓練』を実際に実施していたのです。しかし『100キロの想定』は拒絶されました」

──なぜですか。

 「防災指針で避難範囲(EPZ)を『8~10キロ』と決めたのは私だという学者が『私の顔を潰す気か』と立腹されたからです」」

──それは誰ですか。

 「いやいや、具体的には言えません」

──住民の被曝は誰の責任が重いと思いますか。

(福島第一原発事故の住民被曝は)サッカーで言う自殺点、オウンゴールのようなものです。政治家、官僚、学者、報道、関係者みんなが何らかの形で罪を犯しています。家に火がついているのに、全員が見て見ぬふりをしたようなものだ。あるいは『自分が無能なことを知っていながら該当ポストに就いて給料を受け取っていた』と言うべきかもしれない。この責任を報告書にまとめるのは並大抵ではないでしょう。部内者ではだめです。真面目な専門家を入れた第三者でないとできないでしょうね

──近く報告書を出す予定の国会事故調査委員会の調査をどう見ておられますか。

「国会事故調査委員会は専門家なしで調査を進めています。本来は『全交流電源喪失事故とはなんなのか』『15条通報が原発からあったとき、何をすればよかったのか』を助言する立場の原子力安全委員会(筆者注:学者)は、自分が被告席にいるので、聞かれたことしか答えません。

『ERSS/SPEEDIを使った初動とはどういうものか』を説明するはずだった原子力安全・保安院(同:官僚)も同じ被告の立場です。聞かれたことしか答えません。ですから『停電で使い物にならなかった』と強弁して『ERSS/SPEEDIに手動計算やPBSというバックアップがあったこと』など自分からは説明しません。

こんな調子で、委員会には『深掘り』の力がない。海に浮かぶ小舟のように、自分の『近所」しか分からないまま報告書を出そうとしている。『(首相官邸の)過剰介入』とか『(東電社員の原発事故現場からの)撤退』などは本質的な問題ではないのです。

 『事故原因は津波だ』と言い、一方では『システムの欠陥(ERSS/SPEEDI)だ』と言う。あたかも、この2つに責任があるかのように言っている。技術的な要因について真剣な追究がない。

『あの時それぞれの関係者がどうすれば住民の避難を最も素早く容易にすることができたのか』とか『発電所側は住民に被曝させないために何をしなければならなかったのか』とか核心に迫った内容になっていない。

『津波があっても住民を被曝から守る方法はあったのではないか』という核心に触れた報告書でなければ、スリーマイル島発電所事故の後に出された米国の『ケメニー報告』などと比べて見劣りするものになるのではないかと心配です。何しろ最後の最後になってやっと(本連載のリポートが出て)真実の一端が明るみに出たのです。それを反映しない第2論点整理の状態のまま調査報告が出たら、世界の物笑いになるでしょう」

*参考資料

金融ワンワールド

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7月 022012

「時代が変わったと考えるべきではないのか?!」 

 二十年前だったら、東京大学法学部を卒業して、住友金属に勤め、経済企画庁に出向し、経済白書作成に関わり、その後、野村證券で日本初のM&Aを仕掛けた男が、このような内容の本を出版することは、おそらくあり得なかった。このような知識を一般に公開することはなかったはずだ。その意味で時代が変わったのである。 

そう言った時代の大きな変化に抗うように、地上波のテレビと大新聞では、未だに冷戦パラダイムの枠の中で、いわゆる「閉ざされた言語空間」の中で「舌足らずの子供向け番組?」=「日本人を精神年齢15歳以下にするために制作しているとしか思えない内容の番組?」を半世紀前にGHQに戦後指導されたまま、慣性の法則のようにわが同胞の日本国民に向けて恥ずかしくもなく報道している。

今回紹介する本はその対局にあるものである。

系統立てて、この手の本を読んでいない方には内容についていくのが、少々、大変かもしれない。だが、固定観念でガチガチにされてしまった頭を柔らかくするためにも是非とも読んでいただきたい本である。特に会社を経営している方、資産運用をされている方には、必読の書だと思われる。



巻末に、落合氏が2005年に知ったプラザ合意の真相が書かれている。 

米軍の「HAARP計画」の資金を日本から巻き上げる遠大な計画が、「プラザ合意、前川リポート、バブル経済、バブル崩壊という戦略」だったというのだ。ご存じのようにHAARPは、気象変動を可能にする電磁波兵器とも言われているものである。



それでは、目次から紹介しよう。

 

<目 次> 

序として 教科書とマスメディアが隠していること 

第1部 金融ワンワールドの淵源 

(近代国家を支配する者世界秘密結社を論ず 

ヴェネツィア・コスモポリタン 

日本に渡来したユダヤ=古イスラエル人 

海人王朝から明治の元勲=ヴェネツィアの末裔まで)

第2部 通貨経済の本質(金融皇帝ロスチャイルド

シュメル・コスモポリタンの末裔=本朝の長者・分限)

第3部 通貨経済の終焉(ゼロ金利社会という策謀

金融ワンワールドの変質

この私が目撃した金融ワンワールド)

終わりに 歴史に向き合うことの重要性



 落合氏は、昭和60年頃、ウエスティングハウス・ジャパン副社長の水谷民彦氏、ニューヨーク工科大学の馬野周二氏と三人で「魔孫(マッソン)研究三人会合」を作り、そこでユダヤ人に関する研究をされたようである。著者によると、昭和60年頃までの日本人はユダヤに関する正確な知識をほとんど持っていなかった鎖国状態であったという。しかし一方、日本を離れて海外に住んでいた人たちはユダヤ人に関して詳しい知識を持っていた。

例えばNew York は「Jew York」と言われるほどユダヤ人が多いところだから、そこに住めばいやでもそれについて関心を持たざるを得ない。落合氏は、その「魔孫研究三人会合」で、ユダヤ人に関していろいろな知識を得ていくことになる。



 このことを、日月神示の中矢伸一氏も指摘しているが、日本の新興宗教に大きな影響を与えている大本教の出口王仁三郎師がユダヤ、フリーメンソンに関して興味深いことを語っていることに落合氏も注目する。

王仁三郎はユダヤの神=「ガガアルの神」、フリーメンソン=「石屋の弥陀六爺さん」と比喩的に語っているが、『神霊界』大正8年8月12日で以下のように言っている。



「支那の帝政を覆し露国の君主制を亡ぼし、次いで独逸その他の君主国を破壊したガガアルの悪神の御魂は、米国に渡りて、ウヰルソンの肉体を機関と致して世界を乱らし(中略)手を代え品を変えて日本の神国を奪る陰謀を、大仕掛けに致して居るから(後略)」

 

 つまり、王仁三郎は、清帝国が亡ぼした辛亥革命、ロシアのロマノフ王朝を亡ぼしたロシア革命を始めとしてドイツなどの君主制を亡ぼしたのはユダヤの神の仕業だと指摘しているのだ。

もしそうだとすれば、日露戦争で、明石元二郎がロシアの後方撹乱を狙ってレーニンなどのロシア革命勢力に資金援助したことにより日露戦争に勝ったことは、これもユダヤに操られていたとも言えるのかもしれない。(私が以前、書いたレポート「日本人の独自性」に引用した村松愛蔵氏の本のことを思い出していただきたい。)http://www.yamamotomasaki.com/archives/619



「魔孫研究三人会合」で学んだことに、その後得た情報をまとめたものが、下記のユダヤに関する定義である。

   呼 称
  宗 教
   構  成
シオニスト
(ユダヤ第一種)
ユダヤ教徒
A:スファラディ(セム系)、ミズラヒ(セム系) B:アシュケナージ(トルコ系)
イスラエルに住み、ニューヨークを徘徊するユダヤ教徒。
・スペイン~ポルトガルにかけてのユダヤ人をスファラディと呼ぶ。
・ドイツ~ポーランドにかけてのユダヤ人をアシュケナージと呼ぶ。全世界のユダヤ人の9割がアシュケナージ。人種的にはトルコ系白人種のハザール族。
・アジアに流移して回教圏に住んでいるユダヤ人をミズラヒと呼ぶ。
・オランダ人はスペインから逃げてきたユダヤ。
ワンワールド
(ユダヤ第二種)
看做しユダヤ
ヴェネツィア・コスモポリタン(シュメル系)
宗教ワンワールド ― ヴァチカン
世界王室連合 ― 王侯貴族(金融ワンワールドに利用される)
白人至上主義者 ― WASP(ワスプ)
(軍事ワンワールド― 各国海軍将校・砲兵将校)
ユダヤと自称していないが、ユダヤと呼ばれている。俗にいう「フリーメンソン」のこと。ワンワールド・バンカー(国際銀行家)、コスモポリタン・ジュウとも呼ばれる。日本の皇室も世界王室連合に含まれる。
日本の九鬼水軍、村上水軍はコスモポタンの傍流を引き継いでいると思われる。
金融ワンワールド
(混在)
実質無宗教
ロスチャイルドモルガンロックフェラー
 















日本の皇室も上の表にある世界王室連合に取り込まれ、「金融ワンワールド」に利用されている?

落合氏は、京都皇統から情報を得たようで、以下のように述べている。

「ウィーン会議により成立した欧州王室連合の世界戦略に対する対応策として、孝明天皇が崩御を装い、皇太子睦仁親王と倶に、堀川通り本圀寺内の堀川御所に隠れ、以後はシャーマンとして国家安泰を祈りながら、国際天皇となります。公的な皇室は、南朝血統の大室寅之祐が睦仁親王と交替し、明治天皇として即位します。
こうして、明治維新後の皇室は、表裏二元に分離し、表は東京皇室の明治天皇が大日本天皇として公式に臣民に君臨し、裏では京都皇統が秘かに国際事項に対処します。すなわち、外交面ではワンワールドの海洋勢力に与し、大陸・満洲政策に対処するため、革命党の孫文、清朝皇室の愛新覚羅醇親王、満洲の覇王張作霖の三者を等距離においてロシアの南下に対応しました。また国際金融面では、J.P.モルガンと組んで中国の鉄道金融に参加し、ロスチャイルドに協力して金本位制の創設に尽しました。」 





世界の経済は「金融ワンワールド」が裏で糸を引いており、彼らが儲かるような仕組みが考えられて各国の経済を牛耳っている。その基本的な方法は、戦争の勝ち負けなど国家レベルの情報を操作して株価を底値まで落として買いまくり、その後に株価が上がるような情報を流して大儲けするというものである。

たとえば、

・ギリシャ国債の例でも判るように、国政を担当する政治家・官僚が根本的にウソを吐いているであるから、国家の下働きをしている学校やメデイアがウソを吐くのは当然である。



・債務者に何の関係も有しない金融業者が、誰に頼まれもしないのに、当該債務者の倒産による損失を補償する契約を売り出したのが、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)であり金融工学が生んだバクチ商品である。そもそも保険と   バクチは、同じ本質の異なる表現であり、賭博にはとかくインチキが付き物である



・ヴェネツイア・コスモポリタンが信用創造を制度化して信用通貨制度を発明し、「金融ワンワールド」の萌芽を作った。



1995年から始まった日銀のゼロ金利政策は何処かから強制されて実行したものである。



・商工ローンは、金融バブルに参加しなかった金持ちを連帯保証人にして、そこから金をむしり取るためのシステムである。これは偶然ではなく、日本社会を崩壊させようという計画であった。



FRBThe CITYに低金利を強制したのは「金融ワンワールド」で、これはアメリカとイギリスの住宅バブルを煽り、しかもそれを行き過ぎるまで持続させるためであった。



 とにかく、ここまで、本当のこと?が、素直に書かれている本が現在、出版されている。誰でも読もうと思えば読むことができる。驚きである。

 

<落合 莞爾プロフィール>

1941年、和歌山市生まれ。東京大学法学部卒業後、住友軽金属を経て経済企画庁調査局へ出向、住宅経済と社会資本の分析に従事し、1968年~69年の『経済白書』の作成に携わる。その後、中途入社第1号として野村證券に入社、商法および証券取引法に精通し、日本初のM&Aを実現する。1978年に落合莞爾事務所を設立後は経営・投資コンサルタント、証券・金融評論家として活躍。日本および世界の金融経済の裏のウラを熟知する人物として斯界では著名な存在である。著書に『先物経済がわかれば本当の経済が見える』(かんき出版)『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』(時事通信社)『教科書では学べない超経済学』(太陽企画出版)『平成日本の幕末現象』『平成大暴落の真相』『ドキュメント真贋』(いずれも東興書院)などがあり、本書が15年ぶりの書き下ろし新刊となる。

6月 282012

JPRESSより

本の紹介です。日本の政府・電力会社には、原子力発電所という巨大施設を危機管理する能力がないのがよくわかる悲しいレポートです。優秀な技術者がいても、今の日本のシステムではその能力を活用することさえできない状態であることがよくわかります。 

コマーシャリズムによって、まともな報道が「地上波のテレビ、新聞」ではほとんど存在しませんので、一読する価値があります。わかりやすい教科書のような本です。

「福島第一原発事故を予見していた電力会社技術者」 

~無視され、死蔵された「原子力防災」の知見~

2012.05.31(木)

 

烏賀陽 弘道 Hiromichi Ugaya>

 1963年、京都市生まれ。1986年京都大学経済学部卒業。同年、朝日新聞社に入社。三重県津支局、愛知県岡崎支局、名古屋本社社会部を経て91年から2001年まで『アエラ』編集部記者。92年にコロンビア大学修士課程に自費留学。国際安全保障論(核戦略)で修士課程を修了。2003年に退社しフリーランスに。主な著書に『「朝日」ともあろうものが。』『カラオケ秘史』『Jポップとは何か』『Jポップの心象風景』『報道の脳死』などがある。フクシマの原発災害を取材するため、私が次に訪れたのは四国だ。愛媛県松山市である。 

 

フクシマの原発災害を取材するため、私が次に訪れたのは四国だ。愛媛県松山市である。

それは私が『原子力防災─原子力リスクすべてと正しく向き合うために』という本に出合ったからだ。3.11後、原子力発電所事故に関する文献をあさっていて、この本を見つけて読んだとき、椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。

 http://www.amazon.co.jp/dp/4881423037?ie=UTF8&tag=jbpress.ismedia-22

(松野元著、創英社/三省堂)

 

福島第一原発事故、そのあとの住民の大量被曝など、原発災害すべてについて「そうならないためにはどうすればよいのか」という方法が細部に至るまで具体的に書かれていたからだ。逆に言えば「これだけの災害が予想できていたなら、なぜ住民を被曝から救えなかったのか」という疑問が心に焼き付いた。

 私がずっとフクシマ取材で「答えが見つからない」「答えを見つけたい」と思っている疑問は「なぜ、何万人もの住民が被曝するような深刻な事態になってしまったのか」「どうして彼らを避難させることができなかったのか」だ。だから「どんな避難計画があったのか」「どんな訓練をしてきたのか」を福島県や現地の市町村に聞いてまわってきた。その「調べるたびに分かった部分」を、本欄を借りて報告している。

 ところが、その大きな疑問の大半に、この本は明快に答えていた。だから、現実に政府が取った対策が、いかに「とっくに予測されていたことすら回避できなかった幼稚極まるもの」だったかが分かった。

「ムラ」内部から指摘していた「防災」体制の欠陥

てっきり3.11後に書かれた本なのだと思って「奥付」を見直してまたびっくりした。20071月とある。つまり、この本の著者は、事故の5年前に「フクシマ」を的確に予言していたことになる。

 一体著者は誰だと思った。小出裕章氏のような在野の研究者なのだろうか。それも違った。四国電力の元技術者であり、伊方原発にも勤務していたばかりでなく、原子力安全基盤機構にも在籍していたと著者略歴にある。つまり「電力業界」「原子力ムラ」の人でないか。「ムラ」の内部にも、住民を原発災害から守るはずの「防災」態勢の欠陥を指摘していた人がいたのだ。

 そして、その知見は事故の5年も前に刊行され、共有されていた。しかも、特殊な専門書ではない。170ページ、1冊2100円。私はアマゾンで買った。

 ここまで分かっていたなら、電力業界・原子力ムラは一体何をしていたのだろう。政府はなぜこれだけの知見を踏まえた事故対策が取れなかったのだろう。

どうしても、著者に会って話が聞きたいと思った。電力業界内部の人だから、断られるかもしれない。恐る恐る連絡を取った。ところが、携帯電話に出た男性は、その場で取材を快諾してくれた。私は東京から松山に向かう飛行機に飛び乗った。

全国の原発事故の対策システムを設計運用

 その著者は、松野元さんという。

 路面電車が走る道後温泉の街・松山の駅前で、松野さんと会った。松山市の出身。1967年、東大工学部電気工学科を卒業し、四国電力に入った。2004年に四国電力を定年退職したそうだ。

 柔和な紳士だった。駅前の喫茶店で向かい合った。仕事の内容を聞いてますますびっくりした。松野さんは、全国の原発事故の対策システムを設計運用する責任者だったのだ。

 原子力安全基盤機構(当時は原子力発電技術機構)の緊急時対策技術開発室長だった当時、「ERSS」(緊急時対策支援システム)の改良と実用化を担当したという。ERSSは、原発事故が起きたときに、原子炉の圧力や温度、放射性物質放出量の予測といったデータをオフサイトセンターや東京の関係部署に送る重要なシステムだ。

 話題になった「SPEEDI」が放射性雲の流れを警告する「口」なら、ERSSはそれと対になる原子炉の情報収集をする「目と耳」である。自然な流れとして、松野さんはERSSとSPEEDIの両方に精通している。

 また「原子力防災研修」の講師もしていたという。この研修には、原子力発電所の防災対策を「監督」する経産省の原子力防災専門官も参加する。つまり松野さんが書いた本は「教科書」であり、3.11で国は「教科書レベル」のテストにすら落第したということなのだ。

 ということは、松野さんが書き残した知見は、今も経産省や、その下にある原子力安全・保安院に受け継がれていなくてはならないはずなのだ。

 「なぜ住民を避難させることができなかったのか」という疑問の手前には「なぜSPEEDIのデータが住民の避難に使われなかったのか」という疑問がある。これまで本欄で見てきたように、SPEEDIが本来の機能を果たしていれば、3月15日に放射性雲が北西(南相馬市~飯舘村)に流れることは予測できたはずであり、その住民に警告を出して避難させることができたはずだからだ。

私はそうした疑問を松野さんに1つずつぶつけていった。松野さんの答えはいずれも明快であり、原子力災害を知り尽くした人にしかない説得力があった。

15条通報」で住民避難が始まるはずだった

──当初、国は「原子炉が高温高圧になって温度計や圧力計が壊れたため、SPEEDIのデータは不正確だから公表しなかった」と説明していました。しかし「事故に備えたシステムが事故で壊れた」など矛盾した説明で、とうてい信用できませんでした。

率直に言って、たとえSPEEDIが作動していなくても、私なら事故の規模を5秒で予測して、避難の警告を出せると思います。『過酷事故』の定義には『全電源喪失事故』が含まれているのですから、プラントが停電になって情報が途絶する事態は当然想定されています

 ここでもう、私は一発食らった気持ちだった。3.11の発生直後の印象から、原発事故は展開を予測することなど不可能だと思っていたからだ。

──どういうことでしょうか。

 

*松野さんは全国の原発事故の対策システムを設計する責任者だった

 「台風や雪崩と違って、原子力災害は100倍くらい正確に予測通りに動くんです」

──当初は福島第一原発から放出された放射性物質の量がよく分からなかったのではないのですか。それではどれくらい遠くまで逃げてよいのか分からないのではないのでしょうか。

 

「そんなことはありません。総量など、正確に分からなくても、大体でいいんです」

 そう言って、松野さんは自著のページを繰った。そして「スリーマイル島事故」と「チェルノブイリ事故」で放出された希ガスの総量についての記述を探し出した。

 「スリーマイル島事故では、5かける10の16乗ベクレルのオーダーでした。チェルノブイリ事故では5かける10の18乗のオーダーです。ということは、福島第一原発事故ではとりあえず10の17乗ベクレルの規模を想定すればいい」

 「スリーマイル島事故では避難は10キロの範囲内でした。チェルノブイリでは30キロだった。ということは、福島第一原発事故ではその中間、22キロとか25キロ程度でしょう。とにかく逃がせばいいのです。私なら5秒で考えます。全交流電源を喪失したのですから、格納容器が壊れることを考えて、25時間以内に30キロの範囲の住人を逃がす

──「全交流電源喪失」はどの時点で分かるのですか。どこから起算すればいいのですか。

簡単です。『原子力災害対策特別措置法』第15条に定められた通り、福島第一発電所が政府に『緊急事態の通報』をしています。311日の午後445分です。このときに格納容器が壊れることを想定しなくてはいけない。つまり放射性物質が外に漏れ出すことを考えなくてはいけない。ここからが『よーい、スタート』なのです」

 私はあっけにとられた。そういえばそうだ。法律はちゃんと「こうなったら周辺住民が逃げなくてはいけないような大事故ですよ」という基準を設けていて「そうなったら黙っていないで政府に知らせるのだよ」という電力会社への法的義務まで作っているのだ。「全交流電源喪失・冷却機能喪失で15条通報」イコール「格納容器の破損の恐れ」イコール「放射性物質の放出」なのだ。

 そして、それは同日午後2時46分の東日本大震災発生から、わずか1時間59分で来ていたのだ。すると、この後「全交流電源喪失~放射性物質の放出」の間にある「メルトダウンがあったのか、なかったのか」という論争は、防災の観点からは、枝葉末節でしかないと分かる。

 「15条通報」があった時点で「住民を被曝から守る」=「原子力防災」は始まっていなくてはならなかったのだ。

原子炉を助けようとして住民のことを忘れていた?

 

甲状腺がんを防止するために子どもに安定ヨウ素剤を飲ませるのは、被曝から24時間以内でないと効果が急激に減ります。放射性物質は、風速10メートルと仮定して、12時間で30キロ到達します。格納容器が壊れてから飲むのでは意味がない。『壊れそうだ』の時点で飲まないといけない

 ところが、政府が原子力緊急事態宣言を出すのは午後7時3分である。2時間18分ほったらかしになったわけだ。これが痛い。

 「一刻を争う」という時間感覚が官邸にはなかったのではないか、と松野さんは指摘する。そういう文脈で見ると、発生から24時間経たないうちに「現地視察」に菅直人首相が出かけたことがいかに「ピントはずれ」であるかが分かる。

──首相官邸にいた班目春樹(原子力安全委員会)委員長は「情報が入ってこなかったので、総理に助言したくでもできなかった」と言っています。SPEEDIERSSが作動していないなら、それも一理あるのではないですか。

 

「いや、それは内科の医師が『内臓を見ていないから病気が診断できない』と言うようなものだ。中が分からなくても、原発災害は地震や台風より被害が予測できるものです。

 「もとより、正確な情報が上がってきていれば『専門家』は必要ないでしょう。『全交流電源喪失』という情報しかないから、その意味するところを説明できる専門家が必要だったのです。専門家なら、分からないなりに25時間を割り振って、SPEEDIの予測、避難や、安定ヨウ素剤の配布服用などの指示を出すべきだったのです」

 ひとこと説明を加えるなら、福島第一原発が全交流電源を失ったあと、首相官邸が必死になっていたのは「代わりの電源の用意」(電源車など)であって、住民の避難ではなかった。本欄でも報告したように、翌日3月12日午後3時前の段階で、原発から3キロの双葉厚生病院(双葉町)での避難すら完了せず、井戸川克隆町長を含む300人が1号機の水素爆発が噴き出した「死の灰」を浴びたことを思い出してほしい。

 「ERSSの結果が出てくるまでの間は、SPEEDIに1ベクレルを代入して計算することになっています。そのうえで風向きを見れば、避難すべき方向だけでも分かる。私なら10の17乗ベクレルを入れます。それで住民を逃がすべき範囲も分かる」

──どうして初動が遅れたのでしょうか。

 「地震で送電線が倒れても、津波が来るまでの1時間弱は非常用ディーゼル発電機が動いていたはずです。そこで東京にあるERSSは自動起動していたはずだ。このとき原発にはまだ電源があったので、予測計算はまだ正常に進展する結果を示していたでしょう。しかし、ERSSの担当者が、非常用ディーゼル発電機からの電源だけで原子炉が正常を保っている危うさを認識していれば、さらに『ディーゼル発電機も故障するかもしれない』という『全電源喪失』を想定した予測計算をしたと思います。この計算も30分でできる。私がいた時はこのような先を読んだ予測計算も訓練でやっていた。原子力安全・保安院のERSS担当部署がそれをやらさなかったのではないか。この最初の津波が来るまでの1時間弱のロスが重大だったと思う」

──すべてが後手に回っているように思えます。なぜでしょう。

 

「何とか廃炉を避けたいと思ったのでしょう。原子炉を助けようとして、住民のことを忘れていた。太平洋戦争末期に軍部が『戦果を挙げてから降伏しよう』とずるずる戦争を長引かせて国民を犠牲にしたのと似ています」

──廃炉にすると、1炉あたり数兆円の損害が出ると聞きます。それでためらったのではないですか。

 「1号機を廃炉する決心を早くすれば、まだコストは安かった。2、3号機は助かったかもしれない。1号機の水素爆発(12日)でがれきが飛び散り、放射能レベルが高かったため2、3号機に近づけなくなって14日と15日にメルトダウンを起こした。1号機に見切りをさっさとつけるべきだったのです」

──その計算がとっさにできるものですか。

 「1号機は40年経った原子炉なのですから、そろそろ廃炉だと常識で分かっていたはずです。私が所長なら『どうせ廃炉にする予定だったんだから、住民に被曝させるくらいなら廃炉にしてもかまわない』と思うでしょう。1機1兆円です。逆に、被害が拡大して3機すべてが廃炉になり、数千人が被曝する賠償コストを考えると、どうですか? 私は10秒で計算します。普段から『老朽化し、かつシビアアクシデント対策が十分でない原子炉に何かあったら廃炉にしよう』と考えておかなければならない」

このままうやむやにすると、また同じことが起きる

 

私にとって不思議だったのは、これほど事故を予見し尽くしていた人材が電力業界内部にいたのに、その知見が無視され、死蔵されたことだ。松野さんにとっても、自分の長年の研究と専門知識が現実の事故対策に生かされなかったことは痛恨だった。

 「私の言うことは誰も聞いてくれませんでした。誰も聞いてくれないので、家で妻に話しました。しかし妻にもうるさがられる。『私の代わりにハンガーにかけたセーターにでも話していなさい』と言うのです」

 松野さんはそう言って笑う。

 「このままうやむやにすると、また同じことが起きるでしょう」

「広島に原爆が落とされたとき、日本政府は空襲警報を出さなかった。『一矢報いてから』と講和の条件ばかり考えていたからです。長崎の2発目は避けることができたはずなのに、しなかった。国民が犠牲にされたんです」

 「負けるかもしれない、と誰も言わないのなら(電力会社も)戦争中(の軍部)と同じです。負けたとき(=最悪の原発事故が起きたとき)の選択肢を用意しておくのが、私たち学者や技術者の仕事ではないですか」

 そして、松野さんはさらに驚くような話を続けた。

 そもそも、日本の原発周辺の避難計画は飾りにすぎない。国は原子炉設置許可の安全評価にあたって、格納容器が破損して放射性物質が漏れ出すような事故を想定していない。もしそれを想定したら、日本では原発の立地が不可能になってしまうからだ。

 そんな逆立ちした論理が政府や電力業界を支配している、というのだ。

*参考資料 「フクシマの嘘」

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