1.現在の日本には本当の意味で「報道の自由」はないし、「ジャーナリズム精神」というものも幻想になりつつある。もっとも資本主義社会におけるマスコミの限界は世界共通である。 

<解 説>

 1880年、『ニューヨーク・タイムズ』紙の著名な記者であったジョン・スウィントンが、ニューヨークプレスクラブのパーティにおいて「報道の自由」に乾杯がなされたことに対して行った辛口のスピーチを以下に紹介する。

(以下引用)

「世界の歴史における今日のアメリカにおいて、報道の自由などというものは存在しない。あなたはそれを知っているし、私も知っている。あなた方のうち、誰一人として正直な意見を書けるものはいないし、もし書いたとしても、それが決して新聞に載ることはないことを知っている。私は私の正直な意見を新聞に書かないことで給料をもらっている。あなたがたも同じことをして給料を得ている。もし正直な意見を書こうなどという、愚かな考えを持つ者がいれば、すぐに失職して別の仕事を探さなければならないだろう。

 もし私の正直な意見が新聞に掲載されようものなら、24時間以内に、私はくびになるだろう。ジャーナリストの仕事は、真実を壊し、公然と嘘をつくことであり、判断を誤らせ、中傷し、富の邪神の足元にへつらい、自分の国も国民をも、日々の糧のために売り渡すことである。あなたはこれを知っているし、私も知っている。報道の自由に乾杯など、どんなにばかげたことか。

 我々は金持ちたちの舞台裏の道具であり、召使だ。我々は操り人形で、彼らが糸を引き、我々が踊る。我々の才能も可能性も命も、他の人間の道具なのである。我々は知性の売春婦なのだ。」

  (出所:Labor’s Untold Story, by Richard O.Boyer and Herbert M. Morais, Published by United Electrical, Radio&Machine Workers of America, NY 1955/1979) 

  

ところで、ジャーナリズムの目的とは何だろう。

マスコミ人が常々言っている「真実を伝えること」とは本当だろうか。311以後の原発報道等を見てかなり怪しいと感じている日本人が多くなっているのではないだろうか。

 ここまで、不可思議な報道を大手マスコミが行っている現状では、心ある人が、いろいろな関わり合いの中で、得ている本当の情報を多くの人に知ってもらう努力をすべき時代に入ったと考えるべきではないだろうか。

残念ながら現在、大手マスコミが今行なっているのは、情報隠蔽と情報操作と情報誘導と歪曲・矮小と言っても過言ではない状況にある。

 たとえば、全国で地方都市の商店街の衰退が続いているが、マスコミ(NHK、民放テレビ局、新聞各紙)は商店主の頑張りや行政の梃子入れで客を取り戻したわずかな成功事例、もしくはコンサルがでっち上げた偽りの成功例を紹介してお茶を濁している。

大元は、米国の圧力で決めた大店法の廃止、規制緩和にあったのではないか。日本人のための、今日的な地域コミュティーのための大店法のあり方を日本のマスコミが紙面で論じたことがあっただろうか。

 現在、地方の医師不足が深刻だが、この原因は医局制の廃止と診療報酬のマイナス改定によってもたらされたものである。しかし、日本のマスコミはこのことには、絶対に触れず、医師の増員を説く専門家の話と、創意工夫で乗り切る地域の涙ぐましい努力を紹介するだけで本質に迫ることはない。

 一頃盛んに言われた「限界集落」の問題についても、農水省の統計によれば、前回の調査から全国で500の集落が消失し、全国の過疎地比率は50パーセントを超えた。

2000年の農地法改正が離農に拍車を掛けた形だが、食管法廃止に始まる農業自由化と関係づける報道を見たことがない。マスコミは、農水省の後援も得て、大規模化と法人化による成功事例を紹介するばかりである。現在、放射線による汚染で海外では日本の農産物の多くは輸入禁止になっている。TPP論議において、いまだに高付加価値の日本の農産物の輸出を主張している強者がマスコミに出てきている。ここまでくるとブラックジョークの世界に近い。

 2007年5月に新会社法が施行された。外国株対価の合併を認め、外資による国内企業の買収を円滑にする三角合併の解禁が盛り込まれている。しかしマスコミは、「一円から会社が設立できるようになった」「企業の社会的責任を重視する世論に応えた」と礼賛してきて、先進国の中で一人株価が低迷していた日本にとって如何に不利な取り決めかを一切解説しなかった。

余剰弁護士を抱える米国は、わが国を「リーガルマーケット」にするため司法制度改革を要求してきた。しかし、日本のマスコミは「日本は弁護士が足りない」「裁判を身近に」とその宣伝に努めてきた。改革が持つ本当の意味に触れず、新試験の合格率が目標を下回ったことや不合格者の進路などをわざと本質を外した問題を書いている。

 郵政民営化で、わが国は国債売却による金融システム崩壊の危機リスクを抱えることになった。しかし、マスコミは「郵政選挙」で国益擁護派議員を「抵抗勢力」とたたき、“刺客”を「小泉チルドレン」と持ち上げた。郵政公社職員の給与に一切税金は使われていないのに、「公務員10万人を減らせる」との小泉前首相のデマを一生懸命宣伝していた。

 また、民営化ブームに乗って、道路公団の赤字体質を宣伝し、民営化に追いやった。しかし、公団は、一貫した黒字経営で、償還準備金を12兆円も積み立て無料化寸前だったことをマスコミは報道しただろうか。(つまり、焼け太りの民営化だったことをご存じだろうか?)

 また、「社会保険庁の解体」を招いたのは年金納付率の低下が非難されてのことだったが、2002年に徴収業務を市町村から引き上げたことをどのマスコミも伝えていない。米国は、公的年金を運用受託する米国の金融機関が運用先の日本企業で株主権限を行使(委任投票)できるよう求めてきた。年金記録のずさん管理が大報道された末に出てきたのは、ICチップを使って個人情報を一元管理する「社会保障カード」の導入であった。米国はこの数年、日本に無線ICチップの導入も求めている。

これらの改革はすべて、毎年米国から出される『年次改革要望書』に明記されているが、奇妙なことにどの新聞もこの文書をまともに取り上げ、詳細な解説したことがない。

 また、教育市場の開放も『日米投資イニシアティブ報告書』にもある通り米国の要求なのに、いじめや未履修の問題を騒ぎ立て、参入の障壁となる教育委員会を批判することだけを意図的に行っている。

 

大手菓子メーカーの不二家は、内部告発によって期限切れの材料を使ったと連日報じられたため、販売休止に追い込まれた。インサイダー情報を得たある外資系証券会社は事件前に不二家株を大量取得し、空売りして大儲けをしていた。そして、本社の土地と建物は、見事に米シティーグループのものになった。

 竹中平蔵氏らの「りそな銀行」等のインサイダー疑惑を指摘していた植草一秀元教授の痴漢容疑は、裁判で無実を決定づける証言が出てきた。起訴状で犯行があったとされる時間帯に植草氏が何もしてなかったことを、7月4日の公判で目撃者が明かしたのである。しかし、どのマスコミもこのことに触れず、「大した証言は出てこなかった」と切り捨てている。

 もちろん、マスコミをめぐっては、記者クラブ制度や再販制度、広告、電波の許認可制、テレビ局が払っている電波使用料などさまざまな制約があるから、記者が無意識でも「長いものには巻かれろ」として動いてしまうことになってしまうのも仕方がないのかもしれない。

ところで、、わが国の場合、1990年以降、電通を中心としてマスコミを支配する「金持ち」は外国の資本家であり、さらにわが国の政府は、彼らが牛耳る米国の意向を100%聞くことを戦後一貫して基本戦略にしている。

そのため、わが国におけるジャーナリズムの目的とは、真実を隠し、外国による支配を円滑にすることに残念ながら繋がってしまっている状況である。

そのために今、日本は大変な隠蔽社会になってしまっている

米国が日本経済の強さを容認していた冷戦時代はそれでもよかったのかもしれない。

しかし、1980年代後半から米国の「日本封じ込め戦略」によってどんどん日本の国力が削がれていき、それが極端なまでの経済のグローバル化と重なると、日本政治の劣化が際立ってくるとともに限界が見えてきた。政治力が必要なときに政治がまったく役に立たず、むしろ事態を混乱させ、増長させているからである。もちろん。米国の言うことを100%聞くことが善だという戦後一貫して続く官僚の意識にも大きな問題がある。

2011年の現在、東日本大震災と原発事故の惨状を見て、もはや多くの心ある日本人は日本の「中枢機能の崩壊」に近いものを感じているのではないのか。

政治家・官僚・大企業が責任を果たしていないという声は水面下では、今までもずっとあったが、それが一気に噴出したのが311の福島原発事故以降である。

現在、日本でも多くのデモが起きていて国民が明確に政治や企業やメディアに対して批判の声を強めている。脱原発デモ・韓国偏向批判デモ・TPPデモと立て続けに起きているのを見ても分かるが、国益を考えない権力層の現実に気がついた市民が毅然としてノーを突きつけ始めたようである。たしかにそれはまだ大きなうねりにはなっていない。なぜならば、批判されているなかにメディアも含まれていて、メディアは自分たちが批判されているデモ等を一切報道したくないからである。

フジテレビに対するデモが行われたが、これはフジテレビが執拗な韓国崇拝?を報道し続けることによる反発として生まれてきたデモだった。フジテレビが報道しないのは自己防衛だから分かるが、それを他のテレビ局も報道しない。考えてみれば、他のテレビ局にとってはフジテレビとの競争に勝つ好機なのにまったく動かない。メディアに競争原理が働いていないのだ。要するに日本は、悪い意味での「仲良しクラブによる隠蔽社会」になってしまっているのである。

それでは現在、日本はどんな課題を抱えているのか?

日本は今までどんな大きな問題が起きても、それをすべて「先延ばし」にして「後は野となれ山となれ」で処理してきたように見える。見て見ぬ振りをしてやり過ごそうとしてきたのかもしれない。要するに「事なかれ主義」だったのだ。日本のすべての問題がこの事なかれ主義によって深刻化してしまっている。

官僚・政治家は、大きな問題に取り組む前に選挙や自身の出世を考え、問題を回避することを常に選択してきたようである。

解決すべき問題が発生しているのにもかかわらず、それを避けたり、あるいは見て見ぬふりをしたりして、係わり合いになるのを避け、決断をすることなく問題を放置してきたのである。問題から逃げると問題はさらに大きくなる。なぜなら、問題は先送りにしても問題は消えてなくなるものではないからだ。

ギリシャの金融危機を見ても分かる通り、問題を先送りにすればするほど、どんどんこじれて最終的にはそれが「致命傷」になっていく。ユーロはギリシャという小さな国の債務問題を放置して議論はすれども結論は先延ばししてきた。そのツケが回って、いまやユーロ圏が瓦解するのではないかと言われるほどのダメージに陥っている。

深刻な問題は事なかれ主義で対処してはいけないのである。

日本が直面している数々の問題

 それでは、具体的に日本は今、何を「事なかれ主義」で放置しているのか。

・国家主権問題(米国隷属からの脱却)

・国防(自衛隊・憲法9条・沖縄・米軍基地問題)問題

・政治力低下問題、官僚の無責任体制

・検察・官僚・行政制度の金属疲労、腐蝕

・デフレ経済からの脱却

・地方経済崩壊問題(地方分権:財政を渡すことができるか)

・財政問題(累積債務の処理の仕方)

・放射能汚染・原発問題

・中国・韓国・北朝鮮・ロシアとの外交

・TPP問題(米国のブロック経済に飲み込まれるかの瀬戸際)

・食料自給率問題(世界の食糧危機への対応)

・高齢化・少子化問題

・格差問題

・年金破綻問題

・教育崩壊問題

・経団連・経営者の質の劣化問題

・メディア・報道への不信問題

 これらの大きな課題を、日本人はずっと「先延ばし」してきており、それらの間隙を諸外国に突かれ、国益の損失に繋がっている。

放射能汚染ひとつ取っても、これを隠蔽したり、放置したり、数値をごまかしていたりすると、将来にどれだけの禍根を残すのか、現在の政治家・官僚たちは真摯に考えたことがあるのだろうか。我々日本人の遺伝子が傷つき、今の子供たちが健康を害し、産まれてくる子供たちに先天的な遺伝子欠陥があったときに、誰が責任を取るのだろうか。

このような状況下では、どうしてもこれからは、自分で考えて自分で行動することが求められている。そのために必要なのが「本当の情報」である。しかしながら、今のマスコミには全く期待できない。

 みんなが淡々と忙しく日常生活を送っているから、何もしなくてもいいと思うことも根本的に間違っている。災害が起きたとき、頭を働かせないでみんなと同じ行動を取る人が多いが、それは他人に判断力を預けているのと同じだ。

「みんなが逃げないから逃げなくても大丈夫だ」

「みんなが大丈夫だと言っているから、大丈夫だ」

「みんなが走っているから、自分も走ろう」

スマトラ沖大地震のときも、津波が来ると思った人たちは速やかに海岸沿いから離れるか高いところに避難した。しかし、逃げている人たちを笑い、「逃げなくても大丈夫だ」とイスに座って海を見ていた人も大勢いた。「みんなが大丈夫と言っているから大丈夫だ」というわけだ。2004年12月26日の大地震・大津波で亡くなった人は20万人。この中で、最初から必死で逃げていれば助かった人たちも多い。大丈夫だとのんびりしている人たちを見て、自分ものんびりして、やっぱり駄目だった人も相当数いるのである。

他人と同じようにしていれば助かるというのは幻想だ。自分が逃げたほうがいいと思えば、他人と同調していないで逃げておくほうが素直でいい。

 

その意味で、本当の情報を共有するネットワークづくりをすることを一人一人が求められている時代に入ったと言えよう。そしてそう言った人たちがより大きなネットワークを創り上げて地域社会からその輪を拡げていく必要がある。本当の情報を共有するネットワークが地域社会に根ざせば、百人力である。

© 2011 山本正樹 オフィシャルブログ Suffusion theme by Sayontan Sinha