日本人の素晴らしさがまた、サーカーの澤選手に続いて高校生の女性によって世界にアピールされた。快挙を喜びたい。




*東京新聞より 

ローザンヌ優勝 菅井さん会見 「こんなに幸せでいいのかな」

スイスのローザンヌ国際バレエコンクールで優勝し、六日に帰国した私立和光高校(東京都町田市)二年菅井円加(すがいまどか)さん(17)=神奈川県厚木市=が同日午後、厚木市内で記者会見し「支えてくれた人たちに感謝したい。こんなに幸せでいいのかなと思う。優勝はバレエ人生の第一歩です」と、世界を見据えて精進を重ねる決意を述べた。


 会見には報道陣約百人が詰めかけた。菅井さんは「成田空港でも(報道陣が多く)びっくりしたが、日本はアットホームな感じで安心した」と終始笑顔。快挙について「練習を積み重ねて自分なりに努力した。結果は後からついてきたと思う」と振り返った。


 菅井さんは二〇一〇年四月、本紙主催の「第六十七回全国舞踊コンクール」のバレエジュニア部で優勝した経歴も持つ。


 同県大和市内の教室で、連日深夜十一時ごろまで練習する日々だ。


 「壁に当たり、イメージ通りできずやめたいと思ったこともある」と明かしたが、「舞台で大きく、楽しく踊れた経験を糧にまた頑張れる。バレエは人生の一部であり、不可欠」と強調した。


 会見に同席した指導者の佐々木三夏さん(49)は「運動能力や筋力がアスリートみたいに高いので『菅井選手』というニックネーム」と笑いを誘い、「もう少し女性らしくして」と課題を挙げた。


 会見後、母の賀子(よしこ)さん(48)は「成長を頼もしく思った。野菜の煮物をつくってあげたい。早く寝かせてあげたい」と娘をいたわっていた。



             菅井円加 ( ローザンヌ国際バレエコンクール優勝者の演技

本の紹介です。

「通貨戦争」 

~陰の支配者たちは世界統一通貨をめざす~ 

宋 鴻兵 (著), 河本 佳世 (翻訳), 橋本 碩也(監訳)

 

<宋 鴻兵> プロフィール(ソン ホンビン)  

1968年中国四川省生まれ。遼寧省瀋陽市の東北大学卒。1994年米国留学、ワシントンのアメリカン大学で修士号取得。専門は情報工学と教育学。修了後、アメリカで就職、様々な経験を積む。2002‐07年、ファニーメイとフレディマックでコンサルタントを務める。2007年11月に中国に帰国。2008年環境財経研究院院長に就任

<目 次>

第一章 ドイツ 国際銀行家発祥の地

第二章 イギリス 金権の高地

第三章 フランス金権の割拠

第五章 不安定な欧州

第六章 ヒトラーの「ニューディール」 

第七章 銀行家と情報ネットワーク

第八章 エリート統制と寡頭ステルス

第九章 ポスト金融危機

第十章 バックトゥザフューチャー

 

 著者、 鴻兵は、サブプライムローン問題に端を発した2008年の世界金融危機を完璧に予測した中国の俊英エコノミストである。 

『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ』の続編となる本書は、18世紀初頭から約300年にわたるドイツ、イギリス、フランス、アメリカのすべての重要な国際銀行家一族の人脈や、各国で起きた戦争・革命・政変・危機と彼らとの関係を膨大な資料を読み解くことによって、その裏にあった金融操作の手法と意志決定のメカニズムを解析している。そして現在も、国際金融資本家が世界経済をコントロールしようと遠大な世界統一通貨構想のシナリオを進めているのではないか、そのことを膨大な資料を基に検証している。

平均すると一日、5万文字の資料を1,000日かけて眼を通したと著者が前書きで語っているが、大変な労作である。結果、読む人は情報量の多さに圧倒されることになるはずだ。類書はあるが、この本が、直近のリーマンショックを含んでいること、アジア人、中国人の視点で書いていることに大きな意味がある。

  とにかく、勉強になる本だが、小生が注目したのは、以下、三点である。

 

1.ヴィクター・ロスチャイルドについてかなり詳細に書いていることである。

・彼は、第二次世界大戦の企画、実行の黒幕だったこと。

・彼が.第二次世界大戦後の世界の構造(冷戦構造)を創ったこと。

・彼がマンハッタン計画を主導し、ヒロシマ、ナガサキに、種類の違う原爆を2発投下させた張本人であること。

・自らが構築した冷戦構造に合わせ、東西両サイド(世界)に、それぞれ、核兵器、原潜、原子力空母、原発、ウランの独占的に拡大販売を行い、莫大な上がりをあげ、それをもって世界を支配したこと。

おそらく、一般にはあまり、知られていないが、ヴィクター・ロスチャイルドは、二十世紀が生んだ天才の中の天才である。一言で言えば、悪魔のように頭の切れる男である。

彼の支配の方法はいたってシンプルである。

○有り余る金(相手が金に困っていたり、借金を抱えている場合は話が早い)を有効に用い隷属させる。

○ある種の脅し、脅しが効かない場合は暴力を用い、力で隷属させる。

彼は、生物学(これは、人間の生物学的な本性、本能、隷属させる方法等)を徹底的に研究し、学び、勲章までもらっている。(これは、博物学、博物館等を造った伯父ウォルターの影響である)核物理学も、一流の知識と理解を持ち、当時の核物理学者と対等または 対等以上に渡り合う。そして、驚くべきことに原爆、水爆等の核兵器に対する具体的なアイデアやイメージまで持っていたようである。

経済学では、いつも、アポなしで、ケインズを訪問し、20歳も年上のケインズと対等以上に論じ合ったという。 ただ、抽象的で実践的でない空論的な思考には取り合わず、

ひたすら、現実の世界で何が役に立つのか? その一点に絞られた探究しかしなかった。

その辺は、ディズレーリの小説に出てくる「シドニア」なる人物、そのシドニアのモデルであるライオネル・ロスチャイルドにあこがれ尊敬していたということだ。

また、大学生の頃は、学内最高のテニスプレイヤーであり、また、音楽の才能もありジャズピアノの名手であった。

また、この本の中には、ケンブリッジ・サークルのなかにソビエトのスパイ網がつくられていたことも書かれている。ここまで、ヴィクター・ロスチャイルドのことを書いた本を不勉強な小生は初めて読んだ。

以下、本書より抜粋

KGBの「ケンブリッジ5人組」

国際情報機関に関係している人間でキム・フィルビー Harold Adrian Russell “Kim” Philby(1912-1988)を知らない者は殆んどいないと思う。

フィルビーはソ連KGB〔※ソ連国家保安委員会 Komitet gosudarstvennoy bezopasnosti の略称〕の諜報員としてイギリス情報機関に20年余り潜伏し、シニア連絡官 Senior Liaison Officer としてイギリスからアメリカCIA〔※アメリカ中央情報局 Central Intelligence Agency の略称〕に派遣されたこともあり、英米両国間における反ソ連諜報活動の調整を受け持っていた。彼の役職、潜伏期間の長さ、そして、英米両国の諜報網に対する打撃の大きさから行って、冷戦中の最大事件であったと言える。

英米の反ソ防諜活動の最高責任者がソ連の諜報員とは、前代未聞の珍事である。フィルビーは1963年にベイルート Lebanon, Beirut 経由でソ連に亡命し、1965年にソ連赤旗勲章 Order of the Red Banner を授与され、1968年に回顧録『My Silent War:The Soviet Master Agent Tells His Own Story』(Grove Press 1968年刊行)を出版し、たちまち世界のベストセラー Best Seller となった。フィルビー事件は英米情報機構にとって恐らく史上最悪のスキャンダル Scandalであろう。

フィルビーは1人で英米の情報機関に潜伏したわけではなく、彼の周りにはかの世界に名立たる“ケンブリッジ5人組 Cambridge Five”がいた。5人組とは、ケンブリッジ大学 University of Cambridge で共に過ごした5人のソ連KGBの仲間達のことである。

5人組の内、一番早く明るみに出たのはドナルド・マクリーン Donald Duart Maclean(1913-1983)とガイ・バージェス Guy Francis De Moncy Burgess(1911-1963)であった。

マクリーンはイギリス情報局MI5〔※軍情報部第5課 Military Intelligence section 5 の略称〕とMI6〔※軍情報部第6課 Military Intelligence section 6 の略称〕で重要なポストに就き、後にワシントン Washington, D.C. のイギリス大使館 British Embassy in the United States に赴任して情報関連を担当し、原子力の研究開発情報やチャーチル Winston Leonard Spencer-Churchill(1874-1965)とルーズヴェルト Franklin Delano Roosevelt, FDR(1882-1945)、トルーマン大統領 Harry S. Truman(1884-1972)間の政策制定の進捗(しんちょく)〔※物事が捗ること〕状況など重要な情報をソ連に送っていた。

マクリーンは最初にマーシャル・プランの本当の意図をソ連に流した張本人であった。

「マーシャル・プラン Marshall Plan」は実に一石二鳥の妙案であった。その確信はドイツが戦争賠償金を支払う代わりに、アメリカ金融勢力が欧州の再建を実現し、併せてソ連の経済発展を阻止することであった。

「ヤルタ秘密協定 Yalta Agreement」や「ポツダム宣言 Potsdam Declaration」では、ドイツがドイツ産の機械設備、産業、自動車、船舶、原材料などによってソ連に戦争賠償金を支払うことが出来ると定めていた。そして、当時のソ連は甚大な戦争被害を受け、製品の輸出による外貨獲得能力をほぼ喪失しており、ドイツの戦争賠償金はソ連の経済再建にとって最も重要な外部資源となるはずであった。

しかし、マーシャル・プランは、ドイツがソ連へ賠償することを排除し、アメリカが欧州に金融支援を行うという内容であった。表向きにソ連と東欧にもこの支援プランは適応出来るが、マーシャル・プランが提起した経済の自由化などの条件はソ連の計画経済体制と全く相容れないものであった為、「仕方なく」ソ連は援助対象外となった。

マーシャル・プランのもう1つの「妙味」は、アメリカ納税者達の税金を国際金融家達が戦争中に被った被害の賠償に充てることであった。マーシャル・プランは第1次世界大戦後のドーズ案 Dawes Plan やヤング案 Young Plan の複製品とも言えた。130億ドルに上る巨額資金が欧州の銀行家に「貸付けられ」たが、ドイツを除いては、誰からも返済されることはなかった。

国際金融家達にとっては誰が戦争に勝とうが負けようが大した問題ではなく、誰が金を払うかだけのことであった。不思議なことに戦勝国アメリカの納税者が2回の世界大戦 World War の最大の支払人となった。

マクリーンが正確な情報をソ連に送っていたお蔭で、ソ連は最初からマーシャル・プランの本質を見抜き、参加を拒んだ。同時に東欧の他の国の参加をも阻止し、ドイツから各種重工業装置を撤収した。

 

1951年5月25日、奇しくもマクリーン38歳の誕生日にイギリス情報局に疑われ、ケンブリッジ5人組 Cambridge Five の1人バージェスと共にソ連に逃走した。後にKGBの大佐となった。

バージェスは、第2次世界大戦中はイギリスの外務期間に勤務し、これもケンブリッジ5人組の1人であったアントニー・ブラント卿と共に連合軍の戦略計画や外交政策をKGBに流していた。後にバージェスもワシントンのイギリス大使館に派遣され、フィルビーと一緒に暮すようになった。ソ連に逃走後の彼は、酒に溺れ、これが原因で死亡した。

 

5人組の中で4番目に露見したのはアントニー・ブラント卿 Anthony Frederick Blunt(1907-1983)であった。彼はMI5に勤め、解読したドイツの軍事情報をソ連に送っていた。戦争が終息する前に、彼はイギリス王室からドイツ行きを命じられ、ウィンザー公爵 Edward Ⅷ(Duke of Windsor)とヒトラー Adolf Hitler(1889-1945)の秘密書簡や、ヴィルヘルム2世 Wilhelm Ⅱ(1859-1941)〔※ドイツを第1次世界大戦へと導いたドイツ帝国皇帝〕の母方の祖母に当たるヴィクトリア女王 Queen Victoria(1819-1901)とドイツにいる親戚間で交わした書簡の回収活動を行った。

そして、1956年に、イギリス王室 British Royal Family からナイト称号 Knight of the Garter を授与され、後にケンブリッジ大学の芸術史教授にもなっている。彼がソ連の諜報員であることが露見し、エリザベス2世 Elizabeth Ⅱ(1926-)によってナイトの称号を剥奪され、更にサッチャー首相 Margaret Hilda Thatcher(1925-)がこの事実を公開したことで、イギリス国内は一時騒然となった。アントニー・ブラントは1983年ロンドンの自宅で亡くなった。

ケンブリッジ5人組の5人目は未だに分からず、世界の諜報史の重大ミステリーとなった。人々との間で様々な憶測が飛び交い、長きに渡り話題を提供し続けている。有名な国際情報学者ローランド・ペリー Roland Perry1946-)は、多くの事実から、神秘の5人目はヴィクター・ロスチャイルド Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild19101990)だとはっきりと指摘した。

 2.米国のルーズベルトのニューディール政策は、実際には失敗だったが、ドイツのヒットラーのニューディールは大成功した。その要因は中央銀行を完全にコントロール下に置いたことにある。中央銀行の国有化である。

以下、本書より抜粋。

 「第2次世界大戦 World WarⅡにおけるナチス・ドイツ Nazi Germany の強力な軍事力は世界の人々の知るところであり、ヒトラー Adolf Hitler(1889-1945)は憎むべき悪魔となった。しかし、ナチス・ドイツの通貨制度と経済システムの運用状況は学者以外には殆んど知られていない。

1930年代に発生した世界恐慌の中で、ドイツは最も深刻な被害を被り、経済が衰退し、空前の失業率に達した。ナチスが民主的選挙を経て合法的に政権を執ったのも、当時のドイツの経済危機と密接な関係がある。ナチスはよくこの機運を掴み、経済危機を救済する「ニューディール New Deal」というカードを切り、選挙に勝利した。ナチスにスローガン Slogan と宣伝だけで経済危機を乗り越える能力がなければ、ヴァイマール共和政 Weimarer Republik と同様、直ぐに民心を失い、崩壊したはずだ。

1933年、政権を握ったヒトラーの前には極度に混乱したドイツの経済が横たわっていた。1929年から1932年の間、ドイツの工業生産は40%落ち込み、対外貿易高は60%減り、物価は30%下落し、失業率は30%に達した。経済危機によって社会のいたるところで衝突が起き、3年間に1000回余りのストライキ Strike が発生した。

ナチス政権は直ちに経済救済に取り組み、いわゆるヒトラーの「ニューディール New Deal」を実施し始めた。一連の有効措置によって、ドイツ経済は急速に回復し、急成長の軌道を描き始め、失業率は急激に下がり出した。1938年の失業率は僅か1.3%にまで改善していた。1933年から1939年で、重工業と軍事産業の生産高は2.1倍となり、消費財は43%増え、GDPの成長率は100%を超えた。更に全国に高速道路網を敷設(ふせつ)し、重工業の基盤システムを構築し、近代的軍隊も備えるようになった。

 

1919年9月の或る日、ヒトラーが労働者党の集会に参加した時、或る講演者の講演内容にヒトラーは強く惹き付けられ、深い感銘を受けた。その講演者とはゴットフリート・フェーダー Gottfried Feder(1883-1941)であった。

1924年に出版されたヒトラーの『我が闘争 Mein Kampf』において、フェーダーに触れ、「初めてフェーダーの講演を聞き、或る概念が脳裏に浮かび上がった。こうして、我が(ナチス)党の重要原則を見つけた」と述べている。フェーダーに声を掛けられ、ヒトラーはドイツ労働者党 Deutsche Arbeiterpartei(DAP)〔※1919年に設立され、翌1920年、国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP、ナチス党)に引き継がれた〕に入党した。

では、ヒトラーにナチス党の原則を見つけさせたこのフェーダーは、一体何者で、どのような講演をしたのだろうか。

フェーダー―ヒトラーの金融の師

ヒトラーは労働者党に加入してからフェーダー Gottfried Feder(1883-1941)を経済と金融の師として仰ぎ、彼の影響を受けて、通貨、金融、雇用、経済危機などに深い関心を持つようになった。

フェーダーは経済金融の専門家ではない。彼は1917年から金銭、経済、不況、雇用、戦争と国家の関連を考え始め、伝統的アカデミック Academic〔※学術的〕な考えとは一線を画した、そして人々を驚かせた、一連の理論を提起した。フェーダーは、通貨供給の支配権は国が有するものである、中央銀行は国有化を進めるべきであり、民間が中央銀行を支配してはならないと提唱し、個人が中央銀行を支配する場合の最大の問題は、創出された金利収益やその他の利益が国や国民に幸福を齎さずに、個人の懐に入ることである、と指摘した。

軍人出身のヒトラーは経済金融に全く無知であり、ドイツの敗戦とその後に発生したハイパーインフレ Hyper Inflation は純粋な政治問題だと考えていたが、フェーダーの教えを聞いた後では、金融が万事の中心であることに気付き、「クリエイティブな産業資本」と「貪欲と略奪的な金融資本」の根本的な違いを明確に認識した。

金融と金融を支配する集団がドイツの運命の主宰者であることを悟ったヒトラーは、鋭い洞察力と斬新な視点から、彼が困惑していた過去の問題を整理し、未来のドイツ国家運営とナチス党の「重要原則」の枠組みを明確に描けるようになった。

1920年、ヒトラーはフェーダーらと議論と模索を重ねた上で、ナチス運動の哲学的原理体系を提起した。哲学的な綱領(こうりょう)であることから、ヒトラーはこの綱領が「永遠不変」だと考えていた。その思想体系は「25カ条綱領 25-Punkte-Programm」として纏められ、1932年に開催されたニュルンベルク・ナチス党大会 Reichsparteitag(英:Nuremberg Rally)では再び政党綱領としての地位を与えられた。

 

「25カ条綱領」はナチス党の全ての基本概念と政策を網羅し、フェーダーの経済思想は、綱領の中で経済に関する要求と主張に反映された。ポイントを以下に挙げてみた。

 第11条:不労所得を撤廃させ、寄生地主を打倒する。

これはフェーダーが主張していた「利息の束縛からの破棄」、「クリエイティブな産業資本」と「利息略奪性金融資本」の区分に合致する。フェーダーは、資本は実体経済の循環に入ってから初めて価値を創出するが、金融システムの中で「流動し金利を獲得する」「略奪性」の金融資本は他の労働者の成果を略奪する、と認識していた。

 第12条:全ての戦時利得の取締と没収を要求する。

ヒトラーは、ドイツ軍が第1次世界大戦で軍事的に敗戦したわけではなく、前線の軍人達は「国家利益を売った」資産階級やユダヤ金融家に背後から刺された。彼らが引き続き戦争で金儲けすることは道義上到底許されることではない、と考えた。

第13条:我々は、(今迄に)既に存在する全ての企業(トラスト Trust)の国有化を要求する。

フェーダーは、国有企業という巨大な空母を建造し、国が社会の主要資源を管理し、過度な利益追求による競争と貧富の格差を回避することを提案し、国有化されたトラストによって資本家の合理的な利益と労働者の安定雇用のバランスをとることを考えた。

第14条:我々は、大企業の利益の分配を要求する。

フェーダーは、大企業が社会に利益を還元し、社会各階級が共に経済の繁栄を享受することを主張した。

第16条:我々は、健全な中産階級の育成とその維持、大規模な百貨店の即時公有化を要求する。

フェーダーの考え方は小ブルジョワ Petite Bourgeoisie と平民階級の利益訴求を反映しているものの、いわゆる哲学原則ではなく、具体的な政策に属する。

第17条:我々は、国民の要求に合致する土地改革、及び公益目的の為の土地の無償収用を定める法律を制定し、地代徴収の撤廃、全ての土地投機の制限を要求する。

フェーダーが一番容認出来なかったのは「労せずして得ること」と「投機取引」であり、彼は全ての社会資源を実際の生産活動に投じたいと考えていた。彼は抽象的な理想社会に生きており、人間の天性を軽んじていた。フェーダーの問題点は矛と盾を分離して自分に都合のよいことだけを選んでいることである。

第18条:売国奴、高利貸と投機筋を死刑にする。

 

上記以外にも、フェーダーは「国家の権威」を以て、「経済銀行」を創設し、国家証券を発行し、社会の公共事業の資金を調達することを主張し、国際金融家達が既に金 Gold を独占していることから、金本位制 Gold Standard から脱却し、国家において流通する通貨総額を決め、国家の実体経済の生産能力で通貨を下支えし、商品を以て海外と交換を行い、海外資本によるドイツ通貨と外国為替の支配から脱却することを提案した。

ヒトラーの「ニューディール」

1933年に政権を握ったヒトラーは極度の経済混乱に直面していた。

1929年から1932年の間、ドイツの工業設備稼働率は36%に下がり、工業生産は40%落ち込み、対外貿易高は60%減少し、物価は30%下落し、鉄鋼生産量は70%減少し、造船業生産高は80%減少し、工業危機に起因して金融危機も発生した。

1931年7月、ダルムシュタット銀行 Darmstädter und Nationalbank の倒産によって取り付け騒ぎが発生し、金備蓄量が23億9000マルクから13億6000マルクまで激減し、ベルリンの9つの銀行の内4行が倒産に追い込まれた。また、失業率が急増し、1932年には30%、半失業者を加えると総労働者数の半分に達した。経済危機のよって社会では色々な衝突が増え、3年間で1000回余りのストライキ Strike〔※同盟罷業〕が発生した。

ドイツが見舞われた経済危機の打撃は欧米諸国より遥かに大きかった。ナチス政権が誕生すると、直ちに経済救済に取り組み、いわゆるヒトラー版「ニューディール New Deal」を開始した。

一連の有効措置によって、ドイツ経済は急速に回復、成長し、失業率も急激に改善され、1938年には僅か1.3%となった。1932年から1938年の間に、ドイツの銑鉄生産量は390万トンから1860万トンに、鋼生産量は560万トンから2320万トンに増え、アルミニウム AluminiumAl)とマグネシウム MagnesiumMg)及び工作機械の生産量がアメリカを上回った。

1933年から1939年で、重工業と軍事産業の生産高は2.1倍となり、消費財は43%増え、GDP〔※Gross Domestic Productの略称。国民総生産〕成長率は100%を超えた。更に全国に高速道路網を敷設(ふせつ)し、重工業の基盤システムを構築し、近代的軍隊も備えるようになった。

3.FRBの前理事長、グリーンスパンの哲学上の師が、なぜか米国で高名な女流作家:アイン・ランドだった。本書では彼女の「肩をすくめるアトラス」という本が紹介されている。

 

彼女の考えは、普通の日本人の感性からは全く考えられないものかもしれない。

何しろ「合理的な利己主義こそが真の道徳の基準であり、利他主義・博愛主義は極めて非道徳的」だということなのだから。

たしかに、この本が出版された1950年代は社会主義・共産主義への反感が強い時代だった。共産主義の脅威にパラノイアを抱くアメリカ人には、非利他主義の彼女の本を受け入れやすい土壌があったのも事実だ。

米国人のエリートの共感があったから、8,000万部も売れたのだろう。その意味で、米国のエリートが、日本人と全く違う思考様式で生きていることを知るのには絶好の本だと言える。

 



アイン・ランドプロフィール(Ayn Rand, 1905年2月2日 – 1982年3月6日)

アメリカ合衆国の小説家、劇作家、脚本家、哲学者。本名アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム。代表作に『水源』、『肩をすくめるアトラス』など。

文学的評価はこれまで高いとはいえず、二十世紀のアカデミアでは無視されてきた。発表当時から1970年代までは若者が熱狂し、通り過ぎる文学という位置づけだったが、1980年代、レーガン政権では最も影響力の大きい思想家とされたこともあり、1990年代のアメリカ経済の象徴でもあったアラン・グリーンスパンはランドを思想的母と仰いでいた。

1991年のアメリカ議会図書館の調査で、「20世紀アメリカで聖書の次に影響力を持った小説」と紹介されている。また、1998年のランダムハウス/モダンライブラリーの「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」で『肩をすくめるアトラス』が第一位、『水源』が第二位を獲得し、また10位内に4つの作品がランクインした。

2008年のリーマンショック以降、あらためてランドを見直す機運が高まり、2009年の『肩をすくめるアトラス』の売上は米国国内のみで50万部を突破した。2010年の中間選挙の茶会系共和党の躍進においても思想的根拠として保守系のラジオショーのホストらに参照されることが多く、現在も熱狂的なファンが多い。

以上、三点が、私が注目したところである。特にヒットラーの経済政策には現在、注目すべきではないか。彼だけが世界恐慌から戦争前に国家の経済回復に成功した唯一の政治家であった。この成功は、私たちに通貨を支配する中央銀行のあり方そのものを、原点に戻って考える必要がある事を教えてくれている。現在の金融危機も、民間に所有されているFRBをはじめ、各国の中央銀行のあり方に原因があることは間違いない。

それにしても日本のマスコミに登場する有識者は、なぜ、ポジショントークしかしないのだろうか。彼らの出身母体、たとえば、財務省、マッキンゼーの顧客企業、国際金融資本、その他、経歴を調べれば彼が、どうしてそう言う話しをするのか、およそ推測が付く人ばかりである。

ところで、浅学菲才の小生には、この本で著者が指摘している国際銀行家たちの数百年の悲願である世界中央銀行の設立と世界統一通貨の発行が達成されるとはとても思えないのだが、

もちろん、人類がごく少数の自由人と大多数の奴隷に分別しようという彼らの意図は阻止されるべきものである。

ヴィクター・ロスチャイルドについては、以下参照。

Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild From Wikipedia, the free encyclopedia 

http://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Rothschild,_3rd_Baron_Rothschild

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