「東大話法」という詭弁術

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5月 282012

   安富 歩という東大の先生が書いた「原発危機と東大話法~傍観者の論理・欺瞞の言語~」という本が「東大話法」という言葉を一部で流行させている。

確かに、311福島原発事故以降、専門家と言われる人たちが、多くの嘘を平気で放言していたことは、安富氏が指摘するように、私たちの記憶にも新しいところである。この本は、その背後にある根深い日本社会に根付いた精神構造を分析したものである。はっきり言っておもしろい。特に香山リカ氏の小出裕章助教批判や、池田信夫氏の原発に関するブログ記事が、いかに「東大話法」的かをこと細かに論証している部分は、「なるほど」と納得のいく内容となっている。

 是非、これから、テレビを中心とする大手マスコミで流される、この手の話法に騙されないためにも読んでおきたい本である。



それでは、著者の言う「東大話法」とは、どう言うものなのか。それは以下の規則である。

(1)『自分の信念』ではなく、『自分の立場』に合わせた思考を採用する。

(2)自の立場の都合のよいように、(自分勝手に)相手の話を解釈する。

(3)(自説にとって)都合の悪いことは無視し、(自分にとって)都合の良いことだけを返事する。

(4)都合の良いことがない場合には、関係ない話をしてお茶を濁す。

(5)どんなにいいかげんでつじつまが合わないことでも(タレント政治家橋下徹のように)自信満々で話す。

(6)自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。

(7)その場で自分が立派な人だと思われることを言う。

(8)自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

(9)『誤解を恐れずに言えば』と言って、うそをつく。

(10)スケープゴートを侮辱することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。

(11)相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。

(12)自分の議論を『公平』だと無根拠に断言する。

(13)自分の立場に沿って、都合の良い話を集める。

(14)羊頭狗肉。

(15)わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。

(16)わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。

(17)ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。

(18)ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。

(19)全体のバランスを常に考えて発言せよ。

(20)『もし○○○であるとしたら、おわびします』と言って、謝罪したフリで切り抜ける。 

この中で、重要なポイントは、(1)、(2)、(8)、(13)、(20)の規則である。特に「東大話法」というものを理解するのに重要な概念が「立場」という考え方である。

著者はそのことを解説するために「「役」と「立場」の日本社会」という章を書いている。

 それでは、「東大話法」の実例を紹介しよう。

『思考奪う 偽りの言葉 高慢 無責任な傍観者』

安冨歩(東京新聞 2月25日より)

 

着想は福島原発事故後、NHKに出ずっぱりだった関村直人(原子力工学)の話しぶり。

関村教授は不安でテレビにかじりつく視聴者に向かって、ずっと楽観的な『安全』を強調し続けた専門家。1号機爆発の一報にも『爆破弁を作動させた可能性がある。』と言い切り酷い学者不信を招いた。

『過酷事故が目の前で起こっていても、官僚や学者は原発を安全と印象づける「欺瞞言語」を手放さなかった。東大で見聞きする独特の話しぶりにそっくりだと思った。』

『東大話法』は東大OBが最も巧みに操るが、出身大学とは関係ない。

爆発事故を『爆発的事象』と繰り返した東北大出身の枝野幸男官房長官も、典型的な東大話法。

『正しくない言葉で、まず騙しているのは自分自身。目の前で爆発が起こっている現実を直視できなくなり、正気を疑うようなことも平気でできるようになる。』

経済学博士の安冨歩教授はバブルに突き進んだ銀行の暴走と、戦争に向かってひた走った昭和初期の日本社会の相似に気づき、既存の学問分野を超えて『なぜ人間社会は、暴走するのか』を探求してきた。

安冨歩教授は、『最も恐ろしいことは、危機的な事態が起こった際、正しくない言葉を使うこと。それは一人一人から判断力を奪う』と強調する。

『危険なものを危険といわず』戦前、戦時中に『日本は神の国だ』などと言い続けたことが、客観的な現状認識を妨げ、いたずらに犠牲者を重ねた。

そんな『言葉の空転』が原子力ムラでも蔓延。『危険』なものを『危険』と言わない東大話法が偽りの安全神話を支え、事故を招いた。



『上から目線の話しぶりに潜む東大話法のウソ』

規則1:自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する

『原子力関係者がよく使う言い回しに、「わが国は・・・しなければなりません」がある。

「私」ではなく、往々にして国や役所などを主語にするのが「立場」の人です。』

日本人のほとんどは、立場に合わせて考え、『立場上そういうしかなかった』といった言い訳もまかり通りがちだ。

『責任から逃げている「立場」がいくつも寄り添い、生態系のように蠢いているのが日本社会。しかし、「立場の生態系」がどこにいくのかは、誰一人知らない。』



高慢 無責任な傍観者

周囲もあぜん 『記憶飛んだ』

規則8:自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル張りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

原子力ムラでは自分を『傍観者』とみなしたがる。

『客観的であることと傍観することをはき違え、なんら恥じるところがない』傍観者ぶりが際立っているのが、原子力安全委員会の斑目春樹委員長。

国会の原発事故調で『一週間寝ていないので記憶が飛んでいる。(官邸に)どんな助言をしたか覚えていない』と、当事者とは思えない言い訳をして、周囲を唖然とさせた。

『原発に反対し続けた京大原子炉実験所の小出裕章さんが、講演のたび「原子力に、かかわってきた者として謝罪したい」と繰り返しているのと比べると驚くばかりの傍観者ぶりだ。』

規則3:都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけを返事する。

規則5:どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも、自信満々で話す。

九州電力の『ヤラセ討論会』の大橋弘忠東大教授(システム量子工学)も典型的な東大話法。

小出助教授の『人は間違うし、想定外の事態も起こり得るので、安全余裕をなるべく多くとるのが、原子力のようなものを扱うときの鉄則だ』に対して、大橋教授は『安全余裕を完全に間違えて理解している方の考え方』と冷笑。

水蒸気爆発の心配をする市民団体にも、『私は水蒸気爆発の専門家』と胸を張り、見下す。

 

『プルトニウム拡散の遠因』

『原子炉を四十年間、研究をしてきたのは小出さんの方。ところが、大橋教授が討論会を仕切ってしまった。その結果、九州電力の玄海原発には危険なプルトニウム混合燃料が投入された』。

福島第一原発でもプルサーマルが始まり爆発事故でプルトニウムが飛び散った遠因に、大橋教授の『プルトニウムを飲んでもすぐに排出される』東大話法が貢献した。

『東大話法』にだまされないために安冨教授は、『自らの内にある東大話法に向き合い、考えることから逃げない姿勢が大切。東大話法を見つけたら、笑ってやること』と提案する。

笑われて、恥ずかしいことだと気づくことで東大話法から抜け出せる。どこに向かうかわからない『立場の生態系』については、パイプに詰まったごみのような存在が迷走を止める役割を担うこともある。

『官僚にも学者にも、あるいはメディアにも、自分の言葉を持つ人たちがわずかにいる。そんな一人一人の存在でかろうじて社会がもっている。もし、人間社会が卑怯者の集団になったら、社会秩序は維持できない。』



『東電の〝派遣教員〟東大教授〝逆ギレ〟反論の東大話法』サンデー毎日」4/1

 

『プルトニウムは飲んでも大丈夫』のセリフで有名な東大大学院の大橋弘忠教授(59)。九州電力玄海原発へのプルサーマル導入の安全性を問う(第三者委員会が九電の『やらせ』と断定した)公開討論会。大橋氏は、余裕の笑みとも受け取れる表情を浮かべ、持論を展開。

『事故の時にどうなるかは、想定したシナリオにすべて依存する。(原子炉の)格納容器が壊れる確率を計算するのは、大隕石が落ちてきた時にどうするかという起こりもしない確率を調べるのと一緒。専門家になればなるほど、格納容器が壊れるなんて思えない』

『プルトニウムは実際には何にも怖いことはない。水に溶けないので飲んでも体内で吸収されず、体外に排出されるだけだ』

ところが福島第1原発事故では『想定したシナリオに依存どころか、制御不能に陥る。

プルトニウム混合のプルサーマルに否定的な京大原子炉実験所の小出裕章助教(62)らに対して、〝上から目線〟で安全性を強調する大橋教授。

『都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする』

『どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す』

『誤解を恐れずに言えば、と言って嘘をつく』

安富歩教授は『国内初となる玄海原発へのプルサーマル導入に、大橋氏の〝原発推進トーク〟がひと役買ったと言われても仕方がない。その延長線上で10年9月には福島第1原発の3号機にMOX燃料が投入され、半年後にその3号機が水素爆発で大量の放射性物質をばらまいた』

大橋教授は、東大原子力工学科から東電。現在は同大学院工学系研究科システム創成学の教授で『東電の派遣教員』(東大関係者)。

大橋教授は、原発推進の立場から国策の一翼を担って、保安院原子炉安全小委員会委員長や総合資源エネルギー調査会委員など政府の委員を歴任。昨年10月には北陸電力の志賀原発運営に助言する『原子力安全信頼会議』委員。

 

プルトニウム発言や、『大隕石が落ちる確率と同じ』はずの格納容器の損傷が確実となった今、大橋教授が自らの発言に対する説明責任は完全無視。

事故の反省も、避難住民や国民への謝罪は無いが、『説明責任』『プルトニウムは飲めるか』『話し方について』『やらせ事件』などの6項目を、自身のホームページで『身内』にはこっそりと反論、『プルトニウムは飲んでも安全』に関しては>『プルトニウムは水に溶けにくいので、仮に人体に入っても外へ出ていく、と述べたのが、それならプルトニウムは飲めるのか、飲んでみろ、となっているらしい。文脈を考えればわかるのに、いまどき小学生でもこんな議論はしないだろう』と開き直る。

安冨教授は呆れながら、『これは「スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる」という東大話法の典型例です。しかも、水に溶けないから安全というのは、それこそ文脈を考えてみれば、むちゃくちゃな議論であることは

明らかです。プルトニウムを吸い込めば肺の中にとどまり、放射線を出し続けるおそれがあるからです』



『この人は学者ゴロにすぎない』

九電の『やらせ問題について』では、第三者委員会委員長を務めた郷原信郎弁護士(57)に対する〝暴言〟も。>『私は佐賀県から依頼されてた・・・この種の討論会は、推進派も反対派も動員をしてそれぞれの立場から質疑を行うのは当然・・・国会答弁でも何でも同じ。

目立ちたがり屋の弁護士さんが「やらせやらせ」と言い出し、それに社会全体が翻弄された』傲岸不遜を地でいくような発言に、郷原氏も『大橋氏は小出氏らの発言に噛み付き、ケチをつけているだけ。学者ではなく「学者ゴロ」「原発ゴロ」にすぎない』。

『論外です。発言がデタラメすぎる。我々は徹底した調査で巧妙なやらせのカラクリを解明したわけで、大橋氏がまともに反論できることがあれば、堂々と私に反論したらどうか。自分の身分、立場を隠して世論を誘導する質問を仕込んだ推進派と他の聴衆は一緒にできない』

公開討論で大橋教授と対峙した小出助教は、『(反論を読んで)ただただ、あきれました。こんな人が東大教授なのですね。もともと東電の人だから、こんなことをやってきたのでしょう。「技術的」「客観的」など何の根拠も示さないまま、自分勝手な論理を主張するだけで、「いまどき小学生でもこんな議論はしないだろう」と彼に言葉を返したい。

福島原発の事故が起きてしまっている現実をまず見るべきだし、自分がどういう役割を果たしてきたのか、胸に手を当てて考えるべきでしょう。』

大橋教授は『多忙につき取材(面談、書面とも)はお受けできない』と拒否、向き合うべきは、学内の身内ではなく国民ではないのか。



『東大から起きた「原子力ムラ」内部批判』

東大原子力工学の学者の欺瞞が凝縮。事故を矮小化し、反省もせず、国民を欺く姿悪質。

福島第一原発爆発後、核燃料サイクル、放射性廃棄物が専門で、産官学『原子力ムラ』の中心の日本原子力学会会長の田中知東大教授は、『今一度、我々は学会設立の原点である行動指針、倫理規定に立ち返り、己を省みることが必要であります。すなわち、学会員ひとりひとりが、事実を尊重しつつ、公平・公正な態度で自らの判断を下すという高い倫理観を持ち、(中略)社会に対して信頼できる情報を発信する等の活動を真摯に行うことができるよう会長として最大限の努力を致す所存であります』と原発事故後、高邁かつ誠実な精神を謳い上げた。

しかし田中東大放射線管理部長の『環境放射線対策プロジェクト』が、多数の東大教員から、『まったく信用できない』批判される。

田中教授は原発事故後東大キャンパスの放射線量を調査し同時期の本郷キャンパスと比べ格段に高かったが、柏キャンパスの線量が高い理由は>『測定値近傍にある天然石や地質などの影響で、平時でも放射線量率が若干高めになっているところがあります><結論としては少々高めの線量率であることは事実ですが、人体に影響を与えるレベルではなく、健康になんら問題はないと考えています。』

ところが柏市の高線量『ホットスポット』は文部科学省調査などから明らか。低線量被曝の仮説は、放射線による発がんリスクには放射線量の閾値はなく、放射線量に比例してリスクが増える。

不正確な『東大話法』に対して、東大人文社会の島薗進教授など東大教員有志(理系より文系が多い)45人で改善要請文を大学側に大学側に提出。

『東大は「放射能の健康被害はない」との立場を明確に示したことになりますが、「健康に影響はない」と断定するのはおかしい。多様な意見を考慮せず、狭い立場で一方的な情報を出しているとしか思えない。より慎重なリスク評価を排除するのは適切ではありません』

『低線量でもそれに比例したリスクは存在するとした標準的な国際放射線防護委員会(ICRP)モデルに基づいた記述とし、「健康に影響はない」という断定は避ける』など、『東大の原子力ムラ』に対して東大内部から批判が公然化し『健康に影響はない』を削除。

濱田純一総長から『さまざまな角度からの幅広い議論が必要な問題と思いますので、引き続き忌憚のないご意見をいただきたい』『担当者に速やかな検討の指示』の返信。

しかし総長の思いとは裏腹に、田中教授を責任者とするプロジェクト側には、『非を認めて謝るのではなく、単に表現が悪かったので修正した』との姿勢が窺える。東京電力寄付講座は一部が消滅。トップを動かしたとはいえ『巧妙に非を認めようとしない言い逃れだ。こうした思考法は「東大話法」という独特のものです』と安冨教授。

放射線の人体への影響について放射線防護の専門家の多くが安全論に傾いたのは、全国の大学で電力会社や原子力産業の資金で研究が進められたことが背景にある。



『傍観者を決め込む御用学者』

東電との『産学連携』の東大の原子力ムラに関して安冨教授は、『たとえ東電からカネをもらって研究するにしても、東電ではなく公共に尽くす。そうした研究の独立性をいかに維持するかが重要なのだ。東電のカネで行っていた過去の東大の研究が、学問としての独立性を保っていたかどうかをきちんと検証する必要があります。独立性がなかったと認められたならば、被災者に還元する。検証をせずズルズル状態のままでは東大の権威と信頼は守れません』

安全神話の神髄こそが『東大話法』だ。

 

『原発事故をめぐっては数多くの東大卒業生や関係者が登場し、その大半が同じパターンの欺瞞的な言葉遣いをしていることに気付いたのです。東大関係者は独特の話法を用いて人々を自分の都合のよいように巧みに操作しています。言うならば、原発という恐るべきシステムは、この話法によって出現し、この話法によって暴走し、この話法によって爆発したのです』。



東大話法の根幹は『自らを傍観者と見なしたがること』。

学者は常に客観的でなければならないとの信条を盾にして、『だから自分はいつも傍観者でいることが正しい』と、自分に好都合な結論を引き出す。

『原発事故では、明らかに大きな権限を持つポストにいる御用学者が、完全に傍観者を決め込んでいます。その代表格が東大工学部出身で原子力安全委員会の斑目春樹委員長(元東大教授)です』。

『原子炉格納容器が壊れる確率は1億年に1回』と発言し、事故後もこれを撤回していない大橋弘忠東大教授も『東大話法』の使い手で規則9、15,20以外はすべて該当する。

 

大橋教授は玄海原発ヤラセ討論会での無責任暴言が有名。

『北陸電力は昨年10月、志賀原発運営に助言する原子力安全信頼会議を設置し、委員に大橋教授を選任したのには心底驚きました。「格納容器が壊れる確率は1億年に1回」とした発言の誤りが明らかになった現状で委員を引き受けたのもあまりにも無責任です』(押川教授)

『徹底した不誠実さと高速計算』

安冨教授は、『東大話法使い』の資質をこう定義する。

『徹底した不誠実さを背景として、高速回転する頭脳によって見事にバランスを取りつつ、事務処理を高速度でやってのける。多少なりとも良心がうずけばボロが出ます。そういうものを一切さらけ出さないほどに悪辣かつ巧妙であるためには、徹底した不誠実さと高速計算とがなければできません。東大にはそういう能力のある人材がそろっているのです』



「原子力ムラ」への改善要求について、東大医科学研究所の上昌広特任教授は、『柏キャンパスの放射線量をめぐる議論は結論が出ない神学論争』?であるとして事実上、科学論争を拒否。

(なるほど、徹底した不誠実さと素晴らしい高速計算ぶりである)

*(以上、サンデー毎日2012/03/04号より)

 

 ところで、第四章の「「役」と「立場」の日本社会」の章が、著者の本当に言いたいことだと思われるので簡単にその考えを紹介しておく。

 この章において、悪辣な「東大話法」というものが日本社会全体に行き渡ってしまった理由を分析している。

 「「東大話法」「東大文化」の中では、「立場」という概念が大きな役割を果たしている。」と、指摘している。そして、この日本社会における「立場」という概念を理解することが、今回の事故のあり方、日本の原子力発電のあり方を理解する上で、決定的に重要だとも指摘している。

 そして、夏目漱石の作品群を分析し、次のように説明している。

「漱石は、純日本的な「立場」、つまり、「世間的な夫の立場」からして、というようなの「立場」にpositionstanceを統合し、それが自分の人格をそのものである、という「立場主義」の思想を的確に表現しているのです。これは近代日本社会に形成されつつあった人間を統御し、抑圧するシステムを、明確に言語化するものであったと思います。」

そして、先の大戦で、死んでいった英霊の手紙を分析して次の結論に到るのである。

「日本社会では、「義務」と「立場」がセットになり、立場に付随する義務を果たすことで、立場は守られ、義務を果たさないと、立場を失うことになります。立場を失うと言うことは、生きる場を失う、ということです。

それゆえ、日本人の多くは、義務を果たすことに邁進し、うまくできれば、「安らかさ」を感じるのです。」

著者は、先の大戦を経て、日本社会は、人間ではなく、「立場」で構成されるようになったと、指摘する。その結果、「無私の献身」と「利己主義」が不気味に共存する。ある面、道徳的でありながら、果てしなく、不道徳である戦後日本社会が完成されたのだと分析している。

 そう言えば、作家の瀬戸内寂聴氏が、90年の人生の中で、戦争中に比較しても「こんなに悪い時代はなかった」と原発反対のハンガーストライキのインタビューで答えていたが、このことを直截に表現した言葉と受け止めてもいいのではないか。

 そして、「役」という概念が日本社会を根底から支える哲学だと安富氏は指摘する。

「役を果たせば、立場が守られる、立場には役が付随する。役を果たさなければ、立場を失う。」

この原理は、戦後、日本社会で、国・企業をはじめ、あらゆる組織で明確に作動している。

そして、昨年から詭弁の象徴となった原子力御用学者の「役」と「立場」の分析をしている。原子力業界では、ほとんどすべての論文が「我が国」で始まる。

なぜか。原子力の「平和利用の推進」は、原子力基本法で定められた「国策」で、原子力の研究や推進は、すべてこの「国策」に発する事業の一部である。だから、彼らは、「御公儀」の配分する「役」を担うことで、自らの「立場」を守っているのである。

そして、著者は、この「役と立場」の概念から次のように分析するのである。



「海外の人々は津波の衝撃を受けながらも、自分のやるべきことをやり、絶望したり、自暴自棄になったりしない日本人を、驚嘆の目で眺め、賞賛しました。日本人のこの尊敬すべき行動は、「役と立場」のゆえだと考えます。

 そしてまた、原発事故に際しては、どう考えても危険極まりのない状況で、政府が「安全」だと言っているからといって悠然と日常生活を続けている日本人を見て、海外の人々は吃驚しました。しかし今度は、賞賛していたのではなく、あきれていたのです。これもまた、「役と立場」のゆえなのです。」

 「東大話法」ということばが適切かどうかは、わからないが、勉強になる本である。

 

<安冨 歩(やすとみ・あゆむ)プロフィール>

東京大学東洋文化研究所教授

1963年大阪府生まれ。86年京都大学経済学部卒業。京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。博士(経済学)。住友銀行勤務を経て、京都大学人文科学研究所助手、ロンドン大学滞在研究員、名古屋大学情報文化学部助教授、東京大学東洋文化研究所教授。09年より現職。著書に『生きるための経済学』、『原発危機と東大話法』など。

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