6月 282012

JPRESSより

本の紹介です。日本の政府・電力会社には、原子力発電所という巨大施設を危機管理する能力がないのがよくわかる悲しいレポートです。優秀な技術者がいても、今の日本のシステムではその能力を活用することさえできない状態であることがよくわかります。 

コマーシャリズムによって、まともな報道が「地上波のテレビ、新聞」ではほとんど存在しませんので、一読する価値があります。わかりやすい教科書のような本です。

「福島第一原発事故を予見していた電力会社技術者」 

~無視され、死蔵された「原子力防災」の知見~

2012.05.31(木)

 

烏賀陽 弘道 Hiromichi Ugaya>

 1963年、京都市生まれ。1986年京都大学経済学部卒業。同年、朝日新聞社に入社。三重県津支局、愛知県岡崎支局、名古屋本社社会部を経て91年から2001年まで『アエラ』編集部記者。92年にコロンビア大学修士課程に自費留学。国際安全保障論(核戦略)で修士課程を修了。2003年に退社しフリーランスに。主な著書に『「朝日」ともあろうものが。』『カラオケ秘史』『Jポップとは何か』『Jポップの心象風景』『報道の脳死』などがある。フクシマの原発災害を取材するため、私が次に訪れたのは四国だ。愛媛県松山市である。 

 

フクシマの原発災害を取材するため、私が次に訪れたのは四国だ。愛媛県松山市である。

それは私が『原子力防災─原子力リスクすべてと正しく向き合うために』という本に出合ったからだ。3.11後、原子力発電所事故に関する文献をあさっていて、この本を見つけて読んだとき、椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。

 http://www.amazon.co.jp/dp/4881423037?ie=UTF8&tag=jbpress.ismedia-22

(松野元著、創英社/三省堂)

 

福島第一原発事故、そのあとの住民の大量被曝など、原発災害すべてについて「そうならないためにはどうすればよいのか」という方法が細部に至るまで具体的に書かれていたからだ。逆に言えば「これだけの災害が予想できていたなら、なぜ住民を被曝から救えなかったのか」という疑問が心に焼き付いた。

 私がずっとフクシマ取材で「答えが見つからない」「答えを見つけたい」と思っている疑問は「なぜ、何万人もの住民が被曝するような深刻な事態になってしまったのか」「どうして彼らを避難させることができなかったのか」だ。だから「どんな避難計画があったのか」「どんな訓練をしてきたのか」を福島県や現地の市町村に聞いてまわってきた。その「調べるたびに分かった部分」を、本欄を借りて報告している。

 ところが、その大きな疑問の大半に、この本は明快に答えていた。だから、現実に政府が取った対策が、いかに「とっくに予測されていたことすら回避できなかった幼稚極まるもの」だったかが分かった。

「ムラ」内部から指摘していた「防災」体制の欠陥

てっきり3.11後に書かれた本なのだと思って「奥付」を見直してまたびっくりした。20071月とある。つまり、この本の著者は、事故の5年前に「フクシマ」を的確に予言していたことになる。

 一体著者は誰だと思った。小出裕章氏のような在野の研究者なのだろうか。それも違った。四国電力の元技術者であり、伊方原発にも勤務していたばかりでなく、原子力安全基盤機構にも在籍していたと著者略歴にある。つまり「電力業界」「原子力ムラ」の人でないか。「ムラ」の内部にも、住民を原発災害から守るはずの「防災」態勢の欠陥を指摘していた人がいたのだ。

 そして、その知見は事故の5年も前に刊行され、共有されていた。しかも、特殊な専門書ではない。170ページ、1冊2100円。私はアマゾンで買った。

 ここまで分かっていたなら、電力業界・原子力ムラは一体何をしていたのだろう。政府はなぜこれだけの知見を踏まえた事故対策が取れなかったのだろう。

どうしても、著者に会って話が聞きたいと思った。電力業界内部の人だから、断られるかもしれない。恐る恐る連絡を取った。ところが、携帯電話に出た男性は、その場で取材を快諾してくれた。私は東京から松山に向かう飛行機に飛び乗った。

全国の原発事故の対策システムを設計運用

 その著者は、松野元さんという。

 路面電車が走る道後温泉の街・松山の駅前で、松野さんと会った。松山市の出身。1967年、東大工学部電気工学科を卒業し、四国電力に入った。2004年に四国電力を定年退職したそうだ。

 柔和な紳士だった。駅前の喫茶店で向かい合った。仕事の内容を聞いてますますびっくりした。松野さんは、全国の原発事故の対策システムを設計運用する責任者だったのだ。

 原子力安全基盤機構(当時は原子力発電技術機構)の緊急時対策技術開発室長だった当時、「ERSS」(緊急時対策支援システム)の改良と実用化を担当したという。ERSSは、原発事故が起きたときに、原子炉の圧力や温度、放射性物質放出量の予測といったデータをオフサイトセンターや東京の関係部署に送る重要なシステムだ。

 話題になった「SPEEDI」が放射性雲の流れを警告する「口」なら、ERSSはそれと対になる原子炉の情報収集をする「目と耳」である。自然な流れとして、松野さんはERSSとSPEEDIの両方に精通している。

 また「原子力防災研修」の講師もしていたという。この研修には、原子力発電所の防災対策を「監督」する経産省の原子力防災専門官も参加する。つまり松野さんが書いた本は「教科書」であり、3.11で国は「教科書レベル」のテストにすら落第したということなのだ。

 ということは、松野さんが書き残した知見は、今も経産省や、その下にある原子力安全・保安院に受け継がれていなくてはならないはずなのだ。

 「なぜ住民を避難させることができなかったのか」という疑問の手前には「なぜSPEEDIのデータが住民の避難に使われなかったのか」という疑問がある。これまで本欄で見てきたように、SPEEDIが本来の機能を果たしていれば、3月15日に放射性雲が北西(南相馬市~飯舘村)に流れることは予測できたはずであり、その住民に警告を出して避難させることができたはずだからだ。

私はそうした疑問を松野さんに1つずつぶつけていった。松野さんの答えはいずれも明快であり、原子力災害を知り尽くした人にしかない説得力があった。

15条通報」で住民避難が始まるはずだった

──当初、国は「原子炉が高温高圧になって温度計や圧力計が壊れたため、SPEEDIのデータは不正確だから公表しなかった」と説明していました。しかし「事故に備えたシステムが事故で壊れた」など矛盾した説明で、とうてい信用できませんでした。

率直に言って、たとえSPEEDIが作動していなくても、私なら事故の規模を5秒で予測して、避難の警告を出せると思います。『過酷事故』の定義には『全電源喪失事故』が含まれているのですから、プラントが停電になって情報が途絶する事態は当然想定されています

 ここでもう、私は一発食らった気持ちだった。3.11の発生直後の印象から、原発事故は展開を予測することなど不可能だと思っていたからだ。

──どういうことでしょうか。

 

*松野さんは全国の原発事故の対策システムを設計する責任者だった

 「台風や雪崩と違って、原子力災害は100倍くらい正確に予測通りに動くんです」

──当初は福島第一原発から放出された放射性物質の量がよく分からなかったのではないのですか。それではどれくらい遠くまで逃げてよいのか分からないのではないのでしょうか。

 

「そんなことはありません。総量など、正確に分からなくても、大体でいいんです」

 そう言って、松野さんは自著のページを繰った。そして「スリーマイル島事故」と「チェルノブイリ事故」で放出された希ガスの総量についての記述を探し出した。

 「スリーマイル島事故では、5かける10の16乗ベクレルのオーダーでした。チェルノブイリ事故では5かける10の18乗のオーダーです。ということは、福島第一原発事故ではとりあえず10の17乗ベクレルの規模を想定すればいい」

 「スリーマイル島事故では避難は10キロの範囲内でした。チェルノブイリでは30キロだった。ということは、福島第一原発事故ではその中間、22キロとか25キロ程度でしょう。とにかく逃がせばいいのです。私なら5秒で考えます。全交流電源を喪失したのですから、格納容器が壊れることを考えて、25時間以内に30キロの範囲の住人を逃がす

──「全交流電源喪失」はどの時点で分かるのですか。どこから起算すればいいのですか。

簡単です。『原子力災害対策特別措置法』第15条に定められた通り、福島第一発電所が政府に『緊急事態の通報』をしています。311日の午後445分です。このときに格納容器が壊れることを想定しなくてはいけない。つまり放射性物質が外に漏れ出すことを考えなくてはいけない。ここからが『よーい、スタート』なのです」

 私はあっけにとられた。そういえばそうだ。法律はちゃんと「こうなったら周辺住民が逃げなくてはいけないような大事故ですよ」という基準を設けていて「そうなったら黙っていないで政府に知らせるのだよ」という電力会社への法的義務まで作っているのだ。「全交流電源喪失・冷却機能喪失で15条通報」イコール「格納容器の破損の恐れ」イコール「放射性物質の放出」なのだ。

 そして、それは同日午後2時46分の東日本大震災発生から、わずか1時間59分で来ていたのだ。すると、この後「全交流電源喪失~放射性物質の放出」の間にある「メルトダウンがあったのか、なかったのか」という論争は、防災の観点からは、枝葉末節でしかないと分かる。

 「15条通報」があった時点で「住民を被曝から守る」=「原子力防災」は始まっていなくてはならなかったのだ。

原子炉を助けようとして住民のことを忘れていた?

 

甲状腺がんを防止するために子どもに安定ヨウ素剤を飲ませるのは、被曝から24時間以内でないと効果が急激に減ります。放射性物質は、風速10メートルと仮定して、12時間で30キロ到達します。格納容器が壊れてから飲むのでは意味がない。『壊れそうだ』の時点で飲まないといけない

 ところが、政府が原子力緊急事態宣言を出すのは午後7時3分である。2時間18分ほったらかしになったわけだ。これが痛い。

 「一刻を争う」という時間感覚が官邸にはなかったのではないか、と松野さんは指摘する。そういう文脈で見ると、発生から24時間経たないうちに「現地視察」に菅直人首相が出かけたことがいかに「ピントはずれ」であるかが分かる。

──首相官邸にいた班目春樹(原子力安全委員会)委員長は「情報が入ってこなかったので、総理に助言したくでもできなかった」と言っています。SPEEDIERSSが作動していないなら、それも一理あるのではないですか。

 

「いや、それは内科の医師が『内臓を見ていないから病気が診断できない』と言うようなものだ。中が分からなくても、原発災害は地震や台風より被害が予測できるものです。

 「もとより、正確な情報が上がってきていれば『専門家』は必要ないでしょう。『全交流電源喪失』という情報しかないから、その意味するところを説明できる専門家が必要だったのです。専門家なら、分からないなりに25時間を割り振って、SPEEDIの予測、避難や、安定ヨウ素剤の配布服用などの指示を出すべきだったのです」

 ひとこと説明を加えるなら、福島第一原発が全交流電源を失ったあと、首相官邸が必死になっていたのは「代わりの電源の用意」(電源車など)であって、住民の避難ではなかった。本欄でも報告したように、翌日3月12日午後3時前の段階で、原発から3キロの双葉厚生病院(双葉町)での避難すら完了せず、井戸川克隆町長を含む300人が1号機の水素爆発が噴き出した「死の灰」を浴びたことを思い出してほしい。

 「ERSSの結果が出てくるまでの間は、SPEEDIに1ベクレルを代入して計算することになっています。そのうえで風向きを見れば、避難すべき方向だけでも分かる。私なら10の17乗ベクレルを入れます。それで住民を逃がすべき範囲も分かる」

──どうして初動が遅れたのでしょうか。

 「地震で送電線が倒れても、津波が来るまでの1時間弱は非常用ディーゼル発電機が動いていたはずです。そこで東京にあるERSSは自動起動していたはずだ。このとき原発にはまだ電源があったので、予測計算はまだ正常に進展する結果を示していたでしょう。しかし、ERSSの担当者が、非常用ディーゼル発電機からの電源だけで原子炉が正常を保っている危うさを認識していれば、さらに『ディーゼル発電機も故障するかもしれない』という『全電源喪失』を想定した予測計算をしたと思います。この計算も30分でできる。私がいた時はこのような先を読んだ予測計算も訓練でやっていた。原子力安全・保安院のERSS担当部署がそれをやらさなかったのではないか。この最初の津波が来るまでの1時間弱のロスが重大だったと思う」

──すべてが後手に回っているように思えます。なぜでしょう。

 

「何とか廃炉を避けたいと思ったのでしょう。原子炉を助けようとして、住民のことを忘れていた。太平洋戦争末期に軍部が『戦果を挙げてから降伏しよう』とずるずる戦争を長引かせて国民を犠牲にしたのと似ています」

──廃炉にすると、1炉あたり数兆円の損害が出ると聞きます。それでためらったのではないですか。

 「1号機を廃炉する決心を早くすれば、まだコストは安かった。2、3号機は助かったかもしれない。1号機の水素爆発(12日)でがれきが飛び散り、放射能レベルが高かったため2、3号機に近づけなくなって14日と15日にメルトダウンを起こした。1号機に見切りをさっさとつけるべきだったのです」

──その計算がとっさにできるものですか。

 「1号機は40年経った原子炉なのですから、そろそろ廃炉だと常識で分かっていたはずです。私が所長なら『どうせ廃炉にする予定だったんだから、住民に被曝させるくらいなら廃炉にしてもかまわない』と思うでしょう。1機1兆円です。逆に、被害が拡大して3機すべてが廃炉になり、数千人が被曝する賠償コストを考えると、どうですか? 私は10秒で計算します。普段から『老朽化し、かつシビアアクシデント対策が十分でない原子炉に何かあったら廃炉にしよう』と考えておかなければならない」

このままうやむやにすると、また同じことが起きる

 

私にとって不思議だったのは、これほど事故を予見し尽くしていた人材が電力業界内部にいたのに、その知見が無視され、死蔵されたことだ。松野さんにとっても、自分の長年の研究と専門知識が現実の事故対策に生かされなかったことは痛恨だった。

 「私の言うことは誰も聞いてくれませんでした。誰も聞いてくれないので、家で妻に話しました。しかし妻にもうるさがられる。『私の代わりにハンガーにかけたセーターにでも話していなさい』と言うのです」

 松野さんはそう言って笑う。

 「このままうやむやにすると、また同じことが起きるでしょう」

「広島に原爆が落とされたとき、日本政府は空襲警報を出さなかった。『一矢報いてから』と講和の条件ばかり考えていたからです。長崎の2発目は避けることができたはずなのに、しなかった。国民が犠牲にされたんです」

 「負けるかもしれない、と誰も言わないのなら(電力会社も)戦争中(の軍部)と同じです。負けたとき(=最悪の原発事故が起きたとき)の選択肢を用意しておくのが、私たち学者や技術者の仕事ではないですか」

 そして、松野さんはさらに驚くような話を続けた。

 そもそも、日本の原発周辺の避難計画は飾りにすぎない。国は原子炉設置許可の安全評価にあたって、格納容器が破損して放射性物質が漏れ出すような事故を想定していない。もしそれを想定したら、日本では原発の立地が不可能になってしまうからだ。

 そんな逆立ちした論理が政府や電力業界を支配している、というのだ。

*参考資料 「フクシマの嘘」

貴重な現場の声を伝える本です!

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6月 262012

「原発にふるさとを奪われて~福島県飯舘村・酪農農家の叫び~」 

長谷川健一著(宝島社)

  この本は、311・フクシマ原発事故の歴史の証言として、一世紀先にも残る本である。また、そうすべき本でもある。原発事故が一生懸命、ごく普通に生きてきた酪農家にこれだけの迫力のある文章を書かせた。そのおかげで、我々は原発事故、原子力ムラの現実をすべてではないが、何分の一かを知ることができたのである。著者の努力に心から感謝したい。アマゾンコムに短い書評が載っていたので、まず、ご紹介させていただく。

「自分も飯舘村村民だが飯舘村村民として経験したことが全て同意出来る。自分も体験した事実が率直に書いてある。

よくこのような本を書いてくれたと思う。飯舘村村長の本も読んだがデタラメばかりで頭に気来て、ぶん投げた。

長谷川さんは酪農家として生きていくために必要なもの全てを原発事故による汚染で奪われ、前田地区の行政区長として地域のため対策に追われ本当に大変だったと思う。

作者は全国各地で要請があれば講演している。被害者の苦しみは言葉では伝えきれるものではない。実際体験した人間でなければ分からない苦しみがある。

是非、この本を読んでテレビや新聞、雑誌で知っていた情報と比べながら読んでほしい。自分も村民の一人としてこの本に書かれている事が真実である事は間違いないと言いきれます。

この本に書かれている情報隠蔽や加害者側の一方的な押し付けが現在まで続いている事を大勢の人に知ってほしいと思います。」

もう一つ 日刊ゲンダイ2012年2月21日から

飯舘村のアキれた実情 酪農家はミタ 放射線量改ざん

 

「飯舘村は原子力ムラのコントロール下に置かれている」――。福島原発事故で高濃度の放射能汚染に見舞われた飯舘村の酪農家、長谷川健一氏(58)が「原発に『ふるさと』を奪われて」(宝島社)を出版。20日、都内で会見を開いた。著書は原発事故直後から現在に至るまでの村の日々をつづったルポだが、驚くのは村民の被曝の影響を無視し、今も汚染の実態をヒタ隠しにし続ける村や国の対応である。



「強制的に下げられた放射線量の数値が全国に公表されている」――。20日の会見で、長谷川氏は、仰天の「放射線量改ざん」疑惑を暴露した。

「昨年11月末ごろ、国の除染モデル事業を請け負った大成建設の作業員とみられる10人ほどが、村のモニタリングポストを高圧洗浄機で洗い、土台の土をソックリ入れ替える作業を行っていた。その様子を複数の村民が目撃していたのです」

 文科省が20日夜に公表した飯舘村の放射線量は、毎時0.755マイクロシーベルト。長谷川氏によると、村内に設置された別のモニタリングポストだと、最近も平均毎時3マイクロシーベルトだ。

 国は「改ざん」数値を根拠に「飯舘村の線量は下がった」と喧伝したいのだろう。フザけた話だ。

 長谷川氏は、国の主導で進む除染事業の効果にも疑問を投げ掛ける。飯舘村の75%は山林だ。しかし、除染の実施範囲は農地や住宅地ばかり。

「どんなに除染しても、山から(放射性物質が)浮遊してくれば意味がない。彼ら(請負業者)にとって、除染はビジネス。線量が下がろうが、下がらなかろうが関係ないのです」

 そもそも、飯舘村の放射能汚染への対応は最初からデタラメだった。

 長谷川氏の著書によると、3号機が爆発した昨年3月14日当時、役場にあった線量計は「毎時40マイクロシーベルト超」を、計測した。平常時の年間許容量(1ミリシーベルト)を1日余りで超える危険水域だ。驚く長谷川氏に、村職員は「この数字、公表しねえでくれよ。(菅野典雄)村長から『絶対人に言うな』と止められている」と“口止め”した。

 京大原子炉実験所の今中哲二助教が3月下旬に村内各地で計測した放射線量を菅野村長に伝えた際も「とにかくこのデータは公表しないでほしい」といった問答が、しばらく続いたという。

 村にはその後、山下俊一長崎大教授(当時)ら放射線専門家が入れ代わり立ち代わり訪れ、「安全だ」「大丈夫だ」と吹聴し、やがて〈放射能をことさら危険視するほうがおかしいという雰囲気さえ漂い始めた〉。

 長谷川氏は、村の復興計画会議の委員に原発推進派の識者が含まれたことを挙げて〈すでに飯舘村は原子力ムラの御用学者たちに牛耳られている〉と強調。20日の会見では、菅野村長を操る黒幕の存在についてこう言及した。

「実は今、菅野村長の行くところすべてに付いて回っている経産省の官僚がいるのです。村役場でも、常に村長のそばにいる。そして、マスコミの取材の際もその彼が出張ってきて、あれこれと指示を出しているんですね。今では彼がマスコミ取材対応の窓口となって取材をさばくようになった」

 これでは、村長が村民無視で経産省の操り人形になっていても不思議はない。やっぱり国の放射能対策を信じてはダメだ。(引用終わり)

*森住 卓」の写真ブログより 0110525

<飯舘村から 長谷川さんの牛が連れて行かれた>

きょう午前中、飯舘村の酪農家をまとめていた長谷川さんの牛が連れて行かれた。
成牛12頭。
「一頭一頭全部思い出があるからな」といって、原発事故が起こってから「村の事を記録しておかなければ」と買ったビデオカメラで我が子同然に育ててきた牛の積み出しを撮影していた。目尻に光る物が一筋すーっとほほを伝っていった。
朝の光がそのしずくの通った道を光らせていた。悔しさと無念さがにじみ出ていた。

<俺は何でこんな写真ばかり撮るんだ・・・・・・??。>





本当に勉強になる内容。一部紹介させていただく。

序章」「何も知らないまま「被爆者」にされて」

地割れ……

「でかい地震だ、ということすぐ分かりました。そのうえ、揺れている時間もすごく長い。まるで海が波打つように、畑が波打つ感じなのです。揺れ続けるうち、今度は畑に地割れがババババーッと起き始めました。一瞬のうちに五○メートルくらいの亀裂がビビーッと走るんです。それが一本じゃなく、何本も走る。地割れが走る瞬間を見ることなんて、もちろん初めてのことでした。-略-」

マスコミは森住のみ。

「私がマスコミを通じて一番訴えたかったのは、まさにこの点でした。インタビューでも、この話を一番強調したんです。でも、テレビはこの話の部分をすべてカットして放送するんですね。結局、私の「なぜ、飯舘村を“たんこぶ”のように囲まないのか」という声を取り上げてくれたマスコミは、なぜかひとつもありませんでした。

 ただ、フリージャーナリストで写真家の森住卓さんだけは違いました。

 森住さんが初めてウチを訪ねてきたのは、三月二七日のことです。森住さんは三月一五日にも飯舘村を訪れていて、前田地区の集会所のあたりでその日の午後五時半頃、持っていた一○○マイクロシーベルトまで測れる線量計の針が振り切れていたことを教えてくれたのでした。そして私は、まさにその直後に集会所に人を集め、部落の緊急集会を開いてしまったことを知ったのです。愕然としました。-略-」



今中哲二(京大助教)の放射線測定

【隠ぺい】乞う村長

「今中先生はまるで異次元に飛び込んできたような感じがして、本当にびっくりしたのだそうです。

 そして、今中先生が菅野村長に、放射線量の計測結果を伝えたところ、村長は「この結果を公表しないでほしい」と、今中先生に頼んだというんですね。

 今中先生は、「こんな線量の高いところに人が住んでいるなんておかしい」と言い、村長は「こういう放射線量を浴びながら生活できる術はないのか」と、涙を流しながら訊ねる。今中先生が「いや、そんなことは無理だ」と答えると、村長が「とにかくこのデータは公表しないでほしい」といった問答が、しばらく続いたといいます。こうしたやり取りがあったということは、同席していた日本大学生物資源科学部の糸長浩司教授から後に聞きました。

 この対応といい、三月一四日に村役場で測定された「毎時四○マイクロシーベルト」を隠そうとしたことといい、まるで菅野村長は、本当のことを村民に伝えないようにしているとしか思えません。実際、村長は広報などを通じてこの計測結果を知らせることはありませんでした。

 しかし、汚染の事実を隠し通すことなど、できるものではありません。おまけら、今中先生たちが村内を測定して回ったことは、すでに日本テレビのニュースでも報じられていました。測った数値を公表しなければ、今度は今中先生たちが責められるわけです。

 今中先生たちは村長に「一日だけ、公表するのを待つ」と言ったのだそうです。そして、その翌日、菅野村長から糸長教授のところに電話がかかってきた。やはり「公表するのだけはやめてくれ」と言ったそうです。

 計測結果は四月四日、インターネットを通じて公表されたといいます。ただ、飯舘村民でインターネットをこまめにチェックしている人など、そうそうおりません。だから、せっかくの計測結果が肝心の飯舘村村民にすぐさま伝わることはありませんでした。

 現に私自身、今中先生たちの計測結果のことを知ったのは、公表されてから数日後のことです。ウチの隣に住んでいて、今、被曝した子どもちの健康問題で走り回っている村の若手の中心人物、佐藤健太君から教えてもらいました。」



毎時1ミリシーベルトあったという

「これはとんでもないことになっていると思ってあたりを見渡すと、子どもたちが外で遊んでいるんです。家々にはたくさんの洗濯物が干してある。大人たちもまた、外で普通に野良仕事をしていました。私は矢も盾もたまらず、村役場にある対策本部にクルマを飛ばしてすっ飛んで行ったんです。」



「大丈夫」保安院がいうから、大丈夫

「議長たちはこう答えました。

「長谷川さん、原子力安全・保安院まで飯舘にやってきて『大丈夫だ』と言われてんだど。俺らこれ以上、何できるって。米を作って、米から放射能出てダメな時は、賠償求めっぺ」

 偉い役人や先生が次々と飯舘村にやってきて「安心」を振りまいたものだから、私の話になど聞く耳を持たないんです。すっかり洗脳されてしまっている。そんな彼らとこれ以上、いくら話をしたところでダメだろうと思って、諦めました。」



「大丈夫」と次々に送られてくる御用学者

「そんな最中でも、放射線の専門家だけは、飯舘村に続々と送り込まれてくるんですね。四月六日には、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの高村昇氏がまたやってきて、今度は高い放射線量が測定されていた長沼地区や蕨平地区などの住民を相手に講演会をしています。地区が違うので私は行きませんでしたが、参加した酪農仲間からは、以前とまったく同じ「大丈夫」を連発していたと聞きました。」



甘い! 

「「村の認識は甘いんでねえが? 一体何やってんだ」と。この日の時点で、村に滞在し続けていた人たちの積算被曝線量は、大人であっても子どもであっても六ミリシーベルトを超えていました。国の基準では、原発事故で住民の被曝放射線量の積算が一○ミリシーベルトを超える地域は「屋内退避」になります。-略-」



山下俊一=「専門家」には見えない

「ところで、長崎大の山下氏をはじめとした「放射線の専門家」たちは、一体、何のために飯舘村までやってきたのでしょうか? それほど飯舘村が安全だというのなら、なぜ自らの学者生命を賭けてでも政府の「計画的避難区域」指定に反対しなかったのでしょうか?

 難しいことはよく分かりませんが、彼らはまるでピエロのようです。あまりにもいい加減すぎて、とても「専門家」には見えません。

 ともあれ、彼らは私たち福島県民のためにここまでやってきたわけではない--ということだけは確かだと思います。実際、彼らが来たことも、私たちに話した内容も、私たち原発事故の被災者にとっては何の役にも立っていないのですから。きっと私たちのことなど、実験動物のモルモットくらいにしか思っていないのでしょう。私は、決して山下俊一たちのモルモットにはなるまいと決意しました。」



自殺と民主党代議士

「翌日の一三日、改めて彼の家に行き、集まってきていた酪農仲間たちと通夜の準備の話をしていると、そこに国会議員が来ました。福島県選出の民主党代議士です。その代議士に対し、自殺した彼のお姉さんは泣きながら、それこそ半狂乱になって政府の無策を責めたのです。

「お前たちが弟を殺したようなものだ」と。でも、代議士は一言もしゃべらないのです。お詫びの言葉もありませんでした。

 さすがに私も頭にきて、一言、彼に言ったんです。

「こういう事態の時にこんなことしてっと、これからの民主党はどんどん落ちっど(落選するぞ)」

 それでも代議士は、ただ黙って立っているだけでした。その場にいたみんなからは「何しに来たんだ?」と言われていました。」

建設し、推進している自民党ですね。脱原発なんて、ほとんどききませんね……。



「除染実験」も、いきなり上から……【原発ムラ】の儲け……

「今、さまざまな形で試みられている飯舘村内での「除染」作業や実験に、東京電力は一切関わっていないのです。

 その一例に、飯舘村の草野地区で計画されている「除染実験」があります。山や川、田んぼや畑、そして人家もある地域を選んでそこを四○○メートル四方で囲むようにして区切り、その中を重点的に除染しようというものなのですが、その四○○メートル四方の中に入っている地権者の三、四人が、実験を行なうことにいまだ承諾していないのです(二○一一年一一月現在)。

 それはなぜかというと、地権者の彼らに対して事前の相談や説明が一切なかったからなのですね。実験の枠組みを決め、国から予算を獲得し、最後に住民への説明をしていました。村民には何の相談もなしに、いきなり上から「こういうことになったから」と、すでに結論が出ているかのような形で話が降ってくるわけです。

 こうしたやり方は、除染作業で出た汚染土の「仮置き場」を村内に作る時でもあったんです。誰にも相談のないまま、村が勝手に決めるのです。原発事故が起こるまでは、そんな一方的な話の進めか方など一切ありませんでした。「非常事態」の名の下、行政の傍若無人な振る舞いがまかり通っているのです。当の村民が何も知らないところで、村全体が見ず知らずの誰かの“実験場”にされていくような気さえしてくるのです。-略-恐らく、飯舘村での「除染実験」にも、こうした原子力産業が関わることになるのでしょう。彼らには、なんでもビジネスチャンスに見えるようです。」



「除染実験」6億円

「策士、策に溺れ、村、原子力ムラに牛耳られる」

--菅野村長は『報道ステーション』でヒーロー気取り。500人の雇用を守ったという。苦情電話がなりっぱなしだったという。



その後、閉鎖された工場など……

「村長が誇らしげに「自分が守った」と語っていた「村内企業の操業継続」は、社長たちにこうした苦難や犠牲を強いる結果になっていたのでした。この会社にしても、いつまで操業を続けられるのか、甚だ疑問です。そして、こうした現実を、菅野村長が知らないはずはありません。」



発狂『美しい村に放射能が降った』村長の本

「放射線リスクだけで、村民の仕事や家庭を壊すわけにはいかない。(一五三ページ)」

甘いといわれても仕方がないですね。健康管理は「自己責任」……。国や行政の責任は回避していくくせに……。

詐欺師でもいえる「放射能を怖がれ」。こんなタイトルの本も御用学者でさえ出していますね。村長も言い出したそうです。意味わかってなくても、いえるらしい。除染ビジネスのために怖がれ……。

御用学者を信ずるアホ村長。アホでももちろん罪だ。司馬遼太郎がいうように……。

「村で九月二八日にまとめた「飯舘村除染計画書」の中に、「いいたて復興計画村民会議」の委員名簿が載っています(次ページの表)。見ると「アドバイザー」の肩書で、東京大学附属病院放射線科准教授の中川恵一氏の名前と、放射線安全フォーラム代表で元・日本原子力学会会長の田中俊一氏の名前が載っているではありませんか。これを見つけた時、村長がなぜ村民の意向を無視して暴走を続けるのか、その理由がわかったような気がしました。」



「御用学者」に支配される飯舘村。

「-略-村長は、なぜ私たち村民の声を聞こうともせずに、こうした御用学者の話にばかり耳を傾け続けるのでしょうか。

 驚くべきことに、すでに飯舘村は原子力ムラの御用学者たちに牛耳られているのです。原子力施設など、村には一つもないにもかかわらず。



 如何だろうか。現在の日本社会がどこか、歯車が狂ってしまっている様子が、原発事故という厳しい状況の中であぶり出されてくるのが、よくおわかりになるのではないだろうか。

*以前に書いたレポートから一部引用。



日本人が、自分たちがモルモットとして人体実験されているというのに気がついたのは、広島・長崎に投下された二つの原子爆弾だった。人類史上初めて使われた大量破壊兵器であり、その威力があまりにも強力でそれ以降は一度も実際の戦争では使われていない。

投下した米国としては、その影響がどのようなものかを調査するのは当然のことだろう。米国は、2発の原子爆弾をヒロシマ・ナガサキに投下して、そのあとに多くの医師を派遣して原爆の影響を調査させたが、そのときに入ってきたのは医者だけではなかったことはよく知られている。軍事専門家は当然として、政治学者も心理学者も人類学者も哲学者も環境学者も物理学者も、ありとあらゆる専門家が両地域に派遣されて膨大なデータがアメリカに蓄積されていった。それが、先般のレポートで説明した試算被爆基準値T65Dをつくる元になったのである。



そして、今回の福島原発事故である。人口の多い地域である日本で起きた今回の事故はチェルノブイリを超える可能性のある核災害・放射能汚染の現場になった。

地震によって原子力発電所が破壊され、水素爆発(あるいは核爆発)を引き起こして4機の原発が次々と壊滅的な損傷をしていき、いまだに放射性物質を大気に飛び散らせている。これによって海洋と大地は汚染されて、しかも原発から250キロの地点にある首都圏にまで被害が及んでいる。

本来ならばすぐにでも避難しなければならなかった福島県の人たちを避難させずに、「放射線研究」をしている山下俊一氏を「放射線アドバイザー」に任命させて、今後の経過を見ようとしているかのようである。

 

100ミリシーベルトまでは問題ない」、「笑っていれば放射能は逃げていく」と言って福島の人たちを「研究」しようとする山下俊一氏の姿勢は、まさに実験室でモルモット実験をしている科学者の態度である。

実際、この人は、この8月、ドイツのシュピーゲル誌のインタビューに答えて被験者は200万人の福島県民全員と答え、科学界に記録を打ち立てる大規模な研究なると正直に答えている。



本当のことを少しでも知ると背筋が寒くなるような日本社会の現実がある。「知らぬが仏」という言葉は、今の日本社会にぴったりだ。

日本人が頭に入れておくべきこと(5)

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6月 182012

 日本では高額所得者?のコメディアンの母親が、生活保護を受給していたことが大きな社会問題として取り上げられている。たしかに2011年、11月時点で生活保護受給者の数が200万人を超えてしまったのも事実である。しかし、こんなことはどう考えても大きな問題ではない。この場合は、おそらく、不正受給ではないが、戦後、家族制度や日本の伝統を否定しておいて意図的にこの騒ぎを起こしている人たちの狙いはどこにあるのだろうか。

 冷静に考えてみる必要がある。おそらく、現在の消費税と同じく、財務省サイドの話であろう。不正受給を本当になくしたかったら、歳入庁をつくって社会保険と税金を一括管理すればいいというストリーをつくりたいのであろう。これは、資産家が嫌う国民総背番号制に繋がる話である。財務省出身の片山さつき議員が大きな声をこの問題であげているのも宜なるかなである。

 

 現在の我々が注目すべきは、日本を戦争で負かしてから、日本の安全を保障するというスタンスを表向きとり続けている同盟国である米国の現実である。

そのアメリカで、日本の生活保護にあたるフードスタンプ受給者の数が、7,000万人をついに超えたようである。ところで、米国の人口が今、どれだけかご存じだろうか。約3億1千万人である。7,000万人という数字は、総人口の20%を優に超える驚くべき数字である。

このような内情を抱える国が、日本をただで守ってくれるはずもないし、本当に対等な自由貿易をしてくれるはずもないのである。普通に考えれば誰でもわかることである。

フランスの碩学、エマニュエル・トッド氏がその著書で何回も指摘しているようにアメリカの乳幼児死亡率は、先進国としては異常な高さの1000人当たりの死亡率は6~7を維持している。日本は、その半分の2~3である。ニクソンショック、オイル危機以来、米国という国は、人様から借金したお金で世界一の軍事力を維持し、その軍事力を背景に政治力を発揮しているきわめて異常な形の国なのである。決して日本が見習うような国ではない。



少々古いが、アメリカの現状を分かりやすく解説しているので、日経ビジネスから一部引用させていただく。

(*日経ビジネス 2011年10月3日(月)より (引用はじめ))

 

「貧困層のフードスタンプに群がる米国外食産業 景気後退の足音に身構える米国民」

 

 米国では家計所得の低下から、2010年の貧困率が17年ぶりの高水準に達した。景気低迷の影響が長引き、失業率も9%台と高止まりしたまま厳しい台所事情を抱える米国民。そんななか、教育費や医療費は軒並み上昇を続けており、米国民は今後一層厳しいやりくりを強いられそうだ。



 9月13日に米国国勢調査局が発表した数字は、米国民に衝撃を与えた。2010年時点で連邦政府が定める貧困ライン(4人家族で所得が2万2314ドル以下、1ドル77円計算で約170万円)を下回る生活を送る人の割合は09年から0.8ポイント増加し、15.1%になった。これは93年以来、最悪の数字となる。貧困層に属する人は、前年の4360万人から4620万人へと増加しており、52年間に渡る統計調査の歴史で過去最多数となった。景気低迷が長引くなかで、中間層が貧困層へと没落していく事実を突きつけられたかたちだ。

 貧困人口の割合は、6人に1人に迫る勢いだが、人種別の格差も目立つ。黒人の貧困率が27.4%と突出しており、その後ヒスパニックが26.6%と続いている。つまり黒人とヒスパニック系は4人に1人以上という高い割合で貧困に属していることになる。

 貧困層が拡大しただけでなく、平均的な国民の生活が地盤沈下していく姿も浮かび上がる。2010年の世帯年収の中央値(インフレ調整後)は、4万9445ドル(約380万円)と、2009年から2.3%減少。60年代後半から開始された世帯年収中央値の値をグラフを見てみると、徐々に上昇してきた世帯年収の中央値は1999年にピークをつけ、そこから2010年までに7%も減少している。世帯年収の中央値の減少は、10年以上も続いていることになる。

 連邦政府が支給するフードスタンプ(低所得者層向けの食料配給カード)の受給者は、ここ一年で12%増、2年前に比べると30%も増えている。貧困ラインの生活を強いられた国民は、社会保障によってようやく生活成り立たせているような状況だ。現在フードスタンプは、スーパーマーケットなどで野菜や飲み物、パンといった調理前の食品に利用できるようになっている。しかし、利用者の急拡大が起こったことにより、マクドナルドやピザ屋など、ファーストフード店舗もプログラム参入を狙う動きを見せる。お金に困窮する低所得者が持つフードスタンプ市場は、今やシェア争いが繰り広げられる成長分野なのだ。(引用終わり)

それでは、映像でアメリカ社会の現状を確認していただきたい。日本のマスコミではまず、報道されることはないので、驚かれる方もいるかもしれない。ビジネスインサイダーのロバートジョンソンという記者の書いたものだ。

http://www.businessinsider.com/lakewood-new-jersey-homeless-tent-city-2011-9?op=1より

AMERICA TODAY: Heartbreaking Pictures From New Jersey’s Homeless ‘Tent City’

Robert Johnson | Sep. 8, 2011





Doug Hardman wakes up every morning with a song in his head—a vague memory of his days on stage.

Inside his tepee in the woods outside Lakewood, NJ, at the homeless Tent City, the roosters wake early and the mornings are already cooler. A musician who lost his Florida home in the housing crisis, Hardman says he floats in and out of Tent City, that he’s proud of his kids, and misses the life he no longer has.

He has a lot of company out here.



Tent City made the news recently and while community leader Steven Brigham says the media attention brought in greater donations, it also brought unwanted attention from the local politicians.

After battling with the city for years to have access to the public land here, Brigham found a New Jersey lawyer to represent his case pro bono.

The attorney, Jeff Wild, argued that the homeless population are part of the public and should therefore have access to public lands. Rather than take the case to court, Lakewood City Council settled, and Brigham signed an agreement to put up no more shelters and allow no more than 70 people to stay.

But last winter the community put up three wooden structures to house everyone and keep them warm.

“We didn’t lose anybody last year,” Brigham says, “and nobody got sick.”

This year could be different. After City Council members saw the shelters on TV, they sent demolition crews in. The walls were torn down around whatever was inside, and meager furnishings were left to the elements.

This year, the tent city’s residents will have to put wood-stoves in tents and plastic shanties, increasing fire risk. Brigham says the town is making it impossible to survive there, hoping to get the homeless out, and he’s concerned it will end up killing people this year.

More than 700,000 people are currently homeless in the U.S. and the number has grown 20 percent from 2007 to 2010.

A recent UN report says the way the U.S. denies its citizens access to water, basic sanitation, and criminalizes homelessness is a violation of the Universal Declaration of Human Rights and the International Covenant on Economic, Social and Cultural Rights.

Brigham can relate. He started the camp five years ago and more people show up every year. Some stay, some find part-time work where they can, move on, and wind up coming back.

“There’s a real glut of low-skilled manual labor in the area,” he says. “There’s just nothing for people to do.”

Brigham works as a high-voltage electrical contractor on the bridges and tunnels around New York, but his mission is here in the Lakewood forest.

“I found this spot that had no underbrush, which is very unusual,” he says, “and this community’s become a living protest.”

I ask him what he means, and he says, “We’re protesting the insincerity of the political system. It’s supposed to be for the people and its not.”

(Reverend Steve Brigham can be reached at P.O. Box 326, Lakewood, NJ 08701)



Outside the town of Lakewood New Jersey, across from this intersection..



70 people live at this homeless camp in the woods



Some people have lived here for years and consider it their home



The camp is run by Reverend Steven Brigham and welcomes residents from all walks of life



Food comes in sporadically, like these baked goods from a local grocery store



Nina is from Poland and according to Steve, moved into camp when her husband kicked her out (she’s eating borscht)



This is Nina’s shanty



She has family in Poland that she misses very much



This is musician Doug Hardman who plays piano for the church services — watch a video of him playing below



Video of Doug Hardman playing piano. http://www.youtube.com/watch?v=KuEVp3rYsr0&feature=youtube_gdata_player

Daily essentials



This woman and her boyfriend didn’t want their kids to recognize them online



But they live here and allowed me inside



The living room



Walls insulated with old sleeping bags, the firewood supply, and a litter box filled with sand



Which is why community sleep houses like this were put up – to keep everyone warm and safe in the winter



But the town came in and tore them all down



Leaving a mess and a winter filled with wood-burning fires inside everyone’s tents and shanties



Despite their situation, people here still love their country

ガイアのつぶやき

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6月 102012

  以前のレポートで下記(太字斜体)の文章を引用させていただいたことがある。

先日、知人の好意で、元自衛官の池田整冶氏に久しぶりにお会いする機会があって下記の文が脳裏に浮かんできた。その池田氏が大変良い文章をブログに書かれていたのでご紹介させていただく。

ところで最近、「中国化する日本」(與那覇 潤)という本が話題になっている。確かにおもしろい本だが、著者の「江戸時代は悪」という超単純な歴史観には首を傾げざる得ない。

考えてみれば、日本大衆文化のルーツは、ほとんど江戸時代にあるといっても過言ではない。現代の日本人は、近代国民国家を欧米の圧力によって急拵えでつくらなければならなかったために忘れさせられていることがあまりに多い。

あの司馬遼太郎氏が言っていたように明治維新は正しく、大東亜戦争は間違っていたというような単純な歴史観は、たしかに昭和の高度成長期には気持ちがよかったが、現実はそんなものではないだろう。                     

 参照http://www.yamamotomasaki.com/archives/182

「ひとことで言えば、自他ともに幸せになり、その社会を人間の望みうる理想のものとするには、日本を見習うべきだということなのである。―――もし自然が生活に必要なもの、そのすべてを与えたとしたら、そして、もしその国が国民の勤勉により、世界に例を見ないまでに発展しているとしたら、その国は外国に頼るこなしに存在できるのである。これは大きな利点である。これによって他国より来る邪悪、放蕩,軽薄、戦争、変節などに乱されることなく、国内に大きな問題も起こらず、危急の場合、外国の攻撃から身を守ることができるのである。これこそ日本が他国よりすぐれている点である。」著者の生前は出版されることのなかったケンペル著「日本誌」の一節から岩松睦夫著「緑の大回廊~森が語る日本人へのメッセージ」(1984年 東急エージェンシー)より 

 

(ペリーが黒船で日本を脅す前に読んでいた日本についての情報は、ケンペルの『日本誌』によっていた。シーボルトが日本にくる前に読んでいたのもケンペルの『日本誌』である。ケンペル以降に日本に来た外国人の大半は『日本誌』を読んでいる。世界的なベストセラーだった。江戸時代の日本を西洋人は上記のように理解したのである。)

 

(以下引用)

ガイアのつぶやき・・・その2

                                  池田整冶

 

 勝てば官軍、負ければ賊軍

  明治維新から語られてきたこの言葉の真の意味をどれくらいの日本人が自覚してきたでしょうか。

 今では江戸時代の市民社会もかなり見直され、自然と一体化した、士農工商の身分に関係ない共生の「パラダイス社会」だったことも徐々に理解されてきました。その象徴として、江戸市民が身につけていた「江戸仕(思)草」も紹介されてきています。傘かしげ、肩引き、お心肥やし、こぶし腰浮かせ、時泥棒などがその代表的なものです。

でもそれは、「形」としてかろうじて伝え残っているもので、大切なことは、その根っこにある、自然も含む一切のものとの共生の生き方、つまり日本人本来の「こころ」「生き様」なのです。これを今では「ヤマトごころ」と言っているわけです。

 つまり江戸時代は、社会を構成する「人づくり」が、講や寺子屋あるいは寄り合い等でシステム的にもキチンと行われていたということです。江戸仕(思)草では、「3才こころ、6才躾、9才言葉、12で文(ふみ)、15理(ことわり)で末決まる」といわれていました。

 言葉というのは、あいさつだけでなく、大人と同様の世辞が自分の言葉でキチンと言えることをいいます。つまり、「おはようございます」に加え、「本日はお暑うございますね」というような人間関係を築く大人の会話力を身につけることを意味します。

 このために幼少時から、意味はわからなくとも古典を丸暗記させることを徹底したわけです。この「日本語(やまとことば)の語彙力」が、その後の学問、教養としてだけでなく、人間力養成の基盤となっていったわけです。

 12才文(ふみ)というのは、12才になれば、両親の代わりに代筆で手紙をかけるということです。さらに15才理(ことわり)というのは、世の中の仕組みをしっかり理解して、店の番台を親の代わりに勤められるようになることなのです。

 このようにして心豊かに何世代も積み重ねられて育まれた50万の市民が暮らす江戸は、まさに人間性豊かで、心温まるパラダイス社会だったに違いありません。ちなみに江戸100万人の残り50万のほとんどは、参勤交代でやってくるお登りの地方侍たちです。歴史的に文書で残っているのは、この武士たちの、いわゆる公的な書物であり、市民の文化は文書として残されなかったのです。

 それを唯一、絵で見せて残しているのが浮世絵と言えます。ところが明治政府は、この江戸を否定して成り立っているのですから、なんと江戸仕草そのものさえも禁止してきたのです。

 この為、戦後に日本を統治したGHQがこの江戸仕草を「解放」したときに、秘かに江戸仕草を伝えていた人たちがお礼にGHQを訪れたほどです。こういう面までも考えてGHQは、二重、三重にマインドコントロールを戦後の日本社会にかけていったわけです。

  ところで、江戸末期に日本を訪れた西欧人たちは、江戸の市民生活を見て、「この世のパラダイス」と手記に書き残したり、母国の家族等に手紙で送っています。彼らが江戸社会をどう感じたのか、訪れた日にち順に追体験的に見ていきましょう。

 もちろん、彼らは旅行の物見遊山で来たわけではありません。欧州を起点とする白人による世界の植民地化前線の東回りと西回りが巡り会う最終局面として、黄金の国・ジパングの植民地化が究極の目的でした。もっとも、彼らも世界金融支配体制者たちに使われる駒に過ぎませんが。

 彼らは航海上、日本に来る前に中国に立ち寄ります。その中国を「ウジ虫を知らずに踏んでしまった気色の悪い気持ち」であると書いています。居住区は汚いし、子どもたちは「ギブ・ミー・マネー」であり、「売られている製品は全てコピー製品であり、吐き気をもよおし、二度と来たくない」、とまで母国の母親に書いた随行員もいます。そこからさらに極東の地である日本に行くわけですから、あまり期待はしなかったと思われます。

 ところが日本に一歩踏み込んだ途端に大讃辞に変わります。まず、船からみる国土が美しい。緑豊かな野山に、綺麗に整備された段々畑や棚田がとけこんでいます。これまでの世界のどこでも見たこともない自然と人工物がシンクロした絵画そのものの立体風景です。

 下田あるいは横浜の寒村に着くと、浮世絵で見た色鮮やかな着物を着た健康そうな子どもたちが、「うちにおいでよ~」と手を引きます。その農家に行って見ると、士農工商で一番貧しいはずの農家は、四辺が綺麗に生け垣で仕切られ、その中に小さないながらも見事な日本庭園と色鮮やかな鯉が泳ぐ池があります。家に入れば、土間があり、床の間には綺麗な掛け軸がかけられています。

 当時の欧州では、彼らの階級は「農奴」であり、文字も書けず、何世代も藁葺きの中で雑魚寝生活でした。つまり、世界でもっとも裕福な農民が暮らす国、それが日本だったのです。

 個人宅にもお風呂があり、さらに出される食事にビックリです。なんと陶磁器が使われています。他の国では、このような食器は貴族以上でないと使っていません。しかも海の幸、山の幸に溢れ、自然の風味を最高に活かした世界最高の美味しい健康食です。特に、欧米人さえ見たこともない醤油や味噌など健康に素晴らしい発酵食品を使っています。

 帰り際には、農民であるはずの彼らが書いた掛け軸までプレゼントされます。最下級の農民が芸術的な書道が出来ることに最後までビックリ仰天です。せめてお礼にペンでもと渡そうとすると、頑なに受け取りません。

 そうなのです。これが日本の「おもてなし」であり、日本各地のどこでも日常から旅人たちに振る舞われていた日本人の慣習そのものだったのです。ちなみに私が小さい頃の四国伊予の実家では、このおもてなしをお遍路さんたちに行っていました。

彼らは、その後陸路で江戸に向かうのですが、街道が綺麗に整備されていることにも驚きます。キチンと歩ける道路が整備されているだけでも、世界広しといえども当時は日本しかありません。しかも街道沿いに旅人のための日陰を提供する松などの樹木が植えられています。さらに一定間隔で宿場町が整備され、飛脚や駕籠(かご)、さらに宿や飲食店なども利用できます。街道がわざと曲がっているかと思えば、遠景に富士山、近景にお城というふうに、ビューポイントを設けるなどの情緒溢れる道造り、町造りを行っています。

 さらに江戸に着くと、まさに人類史上初の大公園都市です

  中央に江戸城を中心とした大公園があります。それを核心に300の武家屋敷の大公園があり、さらにそのまわりには1500もの寺院等の中公園が配置されています。市民の小さな家にも庭があります。鳥瞰図的に見れば、まさに地球唯一の地上の楽園自然都市です。町造りも合理的にしっかりしていて、大通りの門戸を占めると外部からの侵入は困難で、治安上も安心できます。

 行き交う人々は、江戸仕草の体現者であり、挨拶や話している様子も明るく、そこにいるだけで心温まります。野の鳥さえも人の肩に留まってさえずっています。一番気性の荒々しいと思われる船乗りが集まる船着き場に行ってみると、聞こえてくる言葉は、「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」ばかり。

 彼らは、日本人が自分たちのことを南「蛮」人という意味がよくわかったと手記にも書いています。

  実は、現在のUCLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)では、国際関係論で、「19世紀のパリは、江戸を見習って造った」と教えているのです。

 まさに、ゴッホが日本の浮世絵から江戸を学び、そこからヤパン・インプレッション(福沢諭吉が明治政府の意を汲んで「印象派」と意訳。実際は、日本浮世絵派あるいは「日本主義」)が生まれ、世界の市民が解放されて行ったのです。そういう意味でも、日本は世界の「雛形」だったのです。

 江戸の市民生活の素晴らしさのエピソードとして完全リサイクル有機農法を紹介します。

 現代の都会生活でもアパートやマンションの集合住宅が多いように、江戸でも「長屋」がありました。大家が50両払って代官から営業権を購入します。

 家賃はいりません。さらに「老人」や「病人」が入居人として歓迎されたと言います。住人の仕事は「用をたす」ことだったからです。

 ちなみに、当時、上下水道が完備していたのも、世界で江戸だけです。その下水道に、「トイレ」の排泄物を流すことは厳禁です。それだけ、衛生管理観念も進んでいました。下水道にトイレの排泄物を流すようになったのは、「文明開化」した明治維新以降なのです。欧米化が日本文明を劣化させた一つの例証です。

 長屋で溜められた「うんち」は、郊外の農家が買い取りに来ます。その売り上げが、現代価格で年1000万円ほどになったようです。つまり、それだけ現金を出せた農民も豊かだったのです。

 農家では、それを肥だめで微生物利用による完全有機肥料として活用しました。世界で初の完全有機リサイクル農法だったわけです。老人や病人は、消化力が落ちているので、排泄物の中に「有効成分」が多く、貴重な存在として大事にされたわけです。正月などには、わが子のように住人に大家さんがお餅などを配ったのです。

 このような市民のパラダイス国家を運営していたのが、侍たちです。彼らは、武道に励みながら、市民のために誠実にこの国を切り盛りしていました。なにせ300諸藩も、市民も一切江戸幕府に税金を納める必要はありませんでした。

 完璧な地方自治で、経済的にも独立し、幕府も各藩も、自己責任でキチンと運営しなければならなかったのです。組織・制度上からも為政者たちが、エゴの「利権」に走ることなど出来なかったのです。

 しかも彼らは、生まれたときから15才で元服するまで、「武士としてのこころ、躾、言葉、文、理」を、市民以上に藩校などで、専門の講師たちに徹底して訓育されました。優秀なものは、身分にかかわらず、他の藩校や幕府の昌平校などに藩費で留学もできました。この中には、商人や農民の優秀な子どもも選抜されていました。武士になれたのです。このように生まれたときから高度の人間教育を受け、いざというときは命さえ惜しまない世界最高の利他を体現する為政者、それが江戸時代の侍=武士だったのです。

 彼らが存在する限り、これまで植民地化した国々のように、武力で制圧することもできません。軍艦10隻持ってきても、上陸できるのはせいぜい数百人です。万単位の武士の誠の中では身動きもできません。

  この日本をいかに植民地化、つまり金融支配するか

  それには、無私の「武士道精神」「ヤマトごころ」を徹底的に排除し、個人の「利権」を基礎にする国造りに変えるしかありません。このためには、武士階級、端的にその象徴の「江戸」を完全否定しなければなりません。

 そのために、武士(薩長)でもって武士(江戸)を排除する。これが明治維新の真実です。

 こうして見ると、明治政府が極端な欧米化政策をとった本当の理由が見えてくると思います。彼らは世界金融支配者の裏からの支援を受けて、政権に就きました。世界が称賛してモデルとした江戸のパラダイス社会を徹底して否定するしか彼らの生きる道はなかったのです。

 西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。

 引き続く、東北での戊申戦争も真実は異常です。震災後、いわき市に講演に行きましたが、東北では、戦争と言えば、大東亜戦争ではなく、いまだに戊辰戦争を指します。なぜでしょうか?

 ヤマトごころ、武士道で育った日本人は、喩(たと)えまがい物の錦の御旗とわかっていても、弓矢を引くことはありません。東北の武士たち、つまり15歳以上の男子は、城に集まり武装解除の準備をしていました。街には姉妹や母、祖母たちしか残っていません。そこに上陸してきた新政府軍たちは、こともあろうに残っていた子女を強姦・陵辱・殺害そして火を放ち廃墟として行ったのです。

 この惨状を知り、死を賭して戦わざれば、もはや武士とは言えません。こうして東北の真の武士たちは、最後の15才の白虎隊まで戦って散華していったのです。この「史実」も日本ではタブーとなっています。しかし、地元の人々のこころを消すことはできません。

 彼ら「官軍」が江戸に帰り、勝った勝ったとはしゃぐのを見て江戸市民は、

 「これで日本も500年とは言わないが、300年は時代を(つまり戦国時代に)遡(さかのぼ)ってしまった。彼らは三代もしないうちに、この国をイギリスやアメリカに経済的に売ってしまうだろう」と影で嘆いていたのです。

 三代後とは、まさに現代です。完璧に世界金融支配体制の忠犬ポチ公として、国民の健康と安全とを犠牲にして、彼らに国民が背に汗して稼いだ日本円(税)を貢ぐ現代の為政者たちの姿を、当時の江戸仕草の体現者たちは予言していたのです。

 ちなみに150年前の浮世絵に、現在のスカイツリーと同じ場所・高さのタワーが描かれています。新聞でも江戸時代の予言と紹介されました。私には、友人の光明氏のような当時の霊能者が、未来の日本を見て、神を憚(はばか)らぬバベルの塔として警告しているとしか思えません。亀戸という地名は、洲が亀の甲羅のようにあるから付けられた地名です。そんな海である砂州の埋め立て地に、世界最高の高層建築物を建てるなど、東京直下型などの地震の想定内として真剣に考えたのでしょうか?

 いずれにせよ、「征服者」であった薩長主体の明治政府は、徹底して江戸を否定しました。世界の自由民主化の原点であった浮世絵の歌川派さえ解消させたのです。つまり、日本のまごころ、ヤマトごころの否定でした。それ故、極端な欧米主義に立脚するしかなかったのです。こうして、欧米人が認めていた「世界のパラダイス・江戸日本社会」を「自己否定」したのです。

 つまり出発当初から進路を誤ってしまったのです。この明治維新の暗黒面をキチンと反省せずして、日本の再生もありえないでしょう。最近でも、明治維新は素晴らしかったが、戦後のGHQの占領政策で日本はダメになった、ときめつけています。これでは、またまた元の木阿弥になってしまいます。

 明治維新の反省が全くないから、ガイアの今回の警告もまったく無視して、世界金融支配体制者に影で操られた明治政府の構造と意図を引き継ぐ現為政者たちが、引き続き原発再稼働の滅びの道をまっしぐらに進んでいるのです。彼らを見ていると、後ろから何ものかに脅されているかのように、既存の原発等利権の維持拡大に顔を暗く引きつらせながら邁進しています。それが世界金融支配体制の中の核エネルギー部門であることは論を待ちません。(引用終わり)

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