三島由紀夫と司馬遼太郎

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7月 172012

 もし、三島由紀夫氏と司馬遼太郎氏が現在も元気に生きておられたら、2011年 3月11日以降の日本社会をどのように見られただろうか、興味深い処である。

もちろん、お二方とも現在の日本社会を肯定されるはずはないが、それぞれの個性でどのように今の日本社会を表現されたか、読んでみたい、もしくは「英霊の声」のように御霊を呼び出して聞いてみたいものである。

 そんな興味もあって、「二人は真逆の道から一つの失望にたどり着いた。」という言葉に惹かれて、松本健一氏の「三島由紀夫と司馬遼太郎」(~「美しい日本」をめぐる激突~)という本を読んでみた。



 振り返ってみれば、1970年 11月25日、水曜日、私の記憶が正しければ、大変良い天気の日だった。まだ、小学生だった私が、暗くなるまで目一杯、外で遊んで家に帰ると夕刊がきていた。その日は、日本の文豪三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、「天皇陛下万歳!」と叫んで、自裁した日だった。まだ、三島の本を読んだことのない私にも軍医だった父が、夕餉の時に新聞を読みながら、発した「三島はよくやった!」という言葉が、いまだに脳裏に残っている。不思議なことに子供だった私は、父が何を訳のわからないことを言っているんだとは、全く思わなかった。訳もわからず、そんなものなのかと納得していたのだ。

 1970年と言えば、あの堺屋太一(本名池口 小太郎)氏がプロデュースした大阪万博の年だった。小学生だった私は、町内会、学校、家族と共にこの「不思議な演し物」の見学に数回も連れていかれた。「人類の進歩と調和」というテーマに抵抗するかのような岡本太郎氏の「太陽の塔」、今では本物かどうかもわからない「月の石」、今から思えば、本当に不思議な博覧会だった。

 ところで、教科書や参考書が新品同様で、後輩に吃驚されるほど、学校の勉強が嫌いだった私は、テレビを見ることと、本を読むことで時間を潰していた情けない学生だった。もちろん、大河ドラマの原作だった司馬遼太郎氏の本も時間を潰すためによく読んでいた。そんな私が、三島由紀夫氏の文章を初めて読んだのは、十五歳の時だった。

「詩を書く少年」、「岬にての物語」を読んだ衝撃は、今でも残っている。たしか、仏文学者の渡辺一夫氏は「誤植と見間違うばかりの華麗な文体」というような、褒めているのか、貶しているのかわからない不思議な表現をしていたと思うが、私が文章の持つ不思議な魅力を三島の文章によって初めて知ることになったことだけは、確かだ。

かといって私は文学青年にはならなかった。学校の勉強があまりにつまらないので、それらの本を読んでいたというだけだった。しかし、そんな私にも忘れられない三島の言葉がある。「私の中の二十五年」というエッセイの文章である。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。

それでもいいと思っている人たちと、私はクチをきく気にもなれなくなっているのである。」

 一方、司馬遼太郎氏も1996年には、バブル経済の日本を下記のように書いていた。

「物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、右の青ネギ畑の翌年の昭和四十年に一坪四百五十万円だったものが、わずか二十二年後の昭和六十二年には、一億五千万円に高騰していた。

 坪一億五千万円の地面を買って、食堂をやろうが何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。一年も所有すればまた騰り、売る。

 こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。(中略)でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう。」 

 

 ところで、この本の中には、興味深いさまざまな指摘がある。

たとえば、司馬遼太郎の『街道をゆく』全43巻をすべて読んだ著者は、25年にわたって書き継がれたこのシリーズにおいては「天皇の物語」がほとんど無視されていることに気がつく。この連載の第1回「湖西のみち」の書かれたのが三島自決直後であったという事実を発見するとともに、「近江」紀行であるにもかかわらず、そこには大化改新を行い、近江大津京をつくった天智天皇の記述が一切ないことに注目する。

さらには、三島由起夫の死をはさんで5年間(68-72年)新聞連載された『坂の上の雲』には、日露戦争中に四度にわたって開かれ、天皇自らが「親臨」した御前会議の場面が一度も描かれていないという興味深い事実も指摘している。以下。

〈司馬にとって日露戦争は、正岡子規や東郷平八郎の副官だった秋山真之、それに沖縄の漁師など国民一人ひとりが、歴史の歯車を回わした「国民の戦争」であった。それを「天皇の戦争」にしないため、乃木伝説はもちろん、天皇の発言という事実にもふれなかったのである。

『坂の上の雲』は、「国民の戦争」を描こうとした、司馬遼太郎の仮構にほかならない〉

もちろん、秋山真之が昭和史を揺るがした出口王仁三郎の大本教の熱心な信者だったことにも一切触れていない。

 このように三島事件の衝撃は、「天皇の戦争」ではなく「国民の戦争」を描こうとしていた司馬の意思と真っ向からぶつかり、そしてその後の司馬の針路に大きな影響を及ぼしている、そのことを著者は的確に指摘している。

 その意味で、三島自決の1ヶ月後に行なわれた鶴見俊輔との対談「日本人の狂と死」も興味深い。ここで司馬は、終戦の直前、米軍の本土上陸の際には東京に向かって進軍して迎え撃て、と命じた大本営参謀に、途中、東京からの避難民とぶつかった場合の対応を尋ねる。

 すると、「その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。……『ひき殺していけ』と」。司馬は「これが、わたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点です」と語る。

松本氏は、この逸話はおそらく「大嘘つき」という褒め言葉をもらったこともある司馬遼太郎の創作ではないか、と推測しているが、「それは三島事件の衝撃のなかで作成されたものなのではないか」と考える。すなわち、三島が彼自身の「美しい天皇」像に殉ずべく、狂気を発して自決するのを見た司馬は、「戦後的なるものの擁護者たるべく、大本営参謀の『ひき殺していけ』という発言を作り出したのではないか。司馬自身が戦後神話をつくった」のではないかと読み解く。三島とはいかに対立せざるを得なかったかという構図が見事に浮き彫りにされている。

 司馬遼太郎はやがて86年から『文藝春秋』誌上に「この国のかたち」の連載を始める。

「三島さんの刺激的でラジカルな国家論に対して、普通の世間の人々の耳目を集める形で、国家というものをソフトに静かに説く。ある意味では社会の混乱を安定化、鎮静化させる役割を担って」いくことになるのだが、時評的発言においては次第に、日本の行く末に対する危機感を表明するようになる。

そして絶筆となった「風塵抄――日本に明日をつくるために」では、バブル経済に狂奔する日本を憂い、このままでは「亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう」と痛憤の思いを隠さない。この記事が新聞に掲載された96年2月12日、司馬は腹部大動脈瘤の破裂で死去する。

 後に、作家の塩野七生さんが『朝日新聞』のインタビュー記事(「塩野七生の世界」96年6月24日夕刊)の中で、「司馬先生は、高度成長期の日本を体現した作家です。代表作の表題どおり、『坂の上の雲』を眺めながらまい進してきた日本人の思いを表現した。……バブルだって、遠くから見れば、青空に白く美しく浮かんだ、坂の上の雲だった。先生の死は象徴的でもある。実に悲壮な死に方をされましたよね。日本のことを心配されて。やはり一つの時代が、明確に終わったんだと思う」と追悼している。

 

小生の考えでは、三島由紀夫と司馬遼太郎は、日本の戦後復興によって生まれた作家である。言葉を変えて言うなら、二人とも「日本経済の高度成長という時代」と寝た作家である。そのために司馬氏は、明治という国家を肯定し、戦前を否定するという独特の歴史観を高度成長時代に提供し、経済復興に邁進する日本人に対して応援讃歌を書いた。

一方、三島氏は、豊かになっていく日本人に芸術至上主義による華麗な文学空間を提供した。明晰な三島氏は、経済大国になっていこうとする国のなかで、日本人の文化が失われていく危機感を露わにしていく。そして、1970年、高度成長の一つの頂点を象徴する大阪万博の年に、自分を流行作家にした戦後という時代を全否定すると言う行動に打って出る。

「リアリズムとロマン主義」、「朱子学と陽明学」、「高杉晋作と吉田松陰」、「西郷隆盛と大久保利通」、「乃木希助と児玉源太郎」、「天皇の戦争と国民の戦争」、「「私」の文学」と「「彼」の文学」、著者の指摘する三島と司馬のアナロジーも興味深い。

 しかしながら、21世紀の日本の未来を切り拓くためには、裏で英国の強い影響を受けた明治維新、日清戦争、日露戦争、米国に屈服させられた1945年の大東亜戦争敗戦、そして、現在も米軍占領下にある日本、この近現代史をありのままに冷徹に認識して、乗り越えないかぎり、新しい日本は見えてこない段階に入っている。

三島氏が予想した空虚な経済大国の地位さえ、今のままでは危ういものとなっているのが現実ではないのか。今の日本にはそれが見えている人と見えていない人がいるようだ。そして、見えている人の中には、「自分さえ良ければいい、今さえ良ければいい」と、故意に無視している人たちもいる。

 

*参考資料

動画 「三島由紀夫、松本清張事件に迫る」

   その一http://www.youtube.com/watch?v=V5HIkId_fSY

   その二http://www.youtube.com/watch?v=LuqyZ6MmdiQ&feature=relmfu

   その三http://www.youtube.com/watch?v=7M_UeRW87yg&feature=relmfu

   その四http://www.youtube.com/watch?v=6QG5iMUa5hA&feature=relmfu

   その五http://www.youtube.com/watch?v=ypp6Bxk2iO8&feature=relmfu

この番組の企画・構成をあの松岡正剛氏がしているのも興味深い。

 

<追 記>

 ところで、現在話題になっている尖閣問題だが、石原慎太郎氏は、何のためにこの問題を大きくし、日中関係の摩擦を大きくしているのか、図りかねるところである。

文学においても三島氏が石原氏の作品を正当に評価したにもかかわらず、褒められた側の石原氏には三島氏の肉体的コンプレックスを見透かしたような発言が多く、文学評価とは全く違う週刊誌ネタのようなもので、三島氏を貶していたことが思い出される。

はっきり言ってしまえば、三島氏は世界にその名を知られて作家だが、石原慎太郎氏は、世界的に名前を知られた作家ではない。文学的才能では比較にもならないというのが客観的現実だろう。

 現在、米国が、お金を一番借りているのが、日本と中国である。極端な言い方をすれば、日本と中国が、世界地図からなくなってしまえば、借金をアメリカは返す必要がなくなるのである。日中の摩擦が激化すればするほど、分断統治を目指すアメリカにとっては都合が良い。このぐらいのことを、かつて「ノーと言える日本」を書いた石原氏が理解していないはずはない。石原氏は、明らかにわざと今回の騒ぎをおこしているのである。そのことによってどんな利益が米国から石原氏に供与されるのか、たぶん、息子の石原伸晃氏のことを考えてアメリカのご機嫌を取っているのかもしれない。先般、本の紹介をした元外交官の孫崎 亨氏が、ツィーターで的確な指摘をしているので、紹介させていただく。以下。

「石原は似非愛国主義

 

石原批判:尖閣購入をぶち上げることによって、石原知事は英雄的扱いを受けている。待って欲しい。尖閣諸島は本来東京都と何の関係もない。彼は東京都と関係ある所でどうしているのか。そこで「愛国的」に振る舞っているか。

豊下楢彦氏は世界8月号で〈「尖閣購入」問題の陥穽〉を発表。尖閣の考察は素晴らしいがここでは石原氏に絞りたい。東京都の米軍横田基地の存在である。 

『東京新聞』は「横田基地は必要なのか」と題する長文の社説(513日付)において、現在の同基地が、輸送機とヘリがわずかに発着するだけの「過疎」の状況である一方で、18県の上空を覆う横田空域が「米軍の聖域」になっている現状を指摘し、「首都に主権の及ばない米軍基地と米軍が管理する空域が広がる日本は、まともな国といえるでしょうか」と問いかけた。

 

まさに石原流の表現を借りるならば、「独立から60年も経って首都圏の広大な空域が外国軍の管制下にあるような国なんか世界のどこにあるんだ」ということであろう。しかし、この威勢のよい啖呵の矛先は、13年前に「横田返還」を公約に掲げて都知事に就任した石原氏当人に向かうことになる。石原氏は横田基地の即時返還を米国に正面から突きつければ良いのではないか。

 

1972年の沖縄返還に際し米国は“沖縄と一緒に尖閣諸島の施政権は返還するが、主権問題に関しては立場を表明しない”との方針を決定。日中間で領土紛争が存在すれば、沖縄の本土への返還以降も“米軍の沖縄駐留は、より正当化される”という思惑。尖閣諸島の帰属に関するニクソン政権の“あいまい”戦略は日中間に紛争の火種を残し、米軍のプレゼンスを確保する狙い。

 

この構図は北方領土と同じ。日本とソ連が領土問題で紛争状態の永続化することが米国のメリットと判断。尖閣諸島の帰属問題で米国が「あいまい」戦略をとり、日本と中国が争う状況は米国に両国が弄ばれている姿。

 

石原氏は講演で渡米する前に“向こうで物議を醸してくる”と述べた。それなら、1970年代以来の尖閣問題の核心にある米国の“中立の立場”について、なぜ“物議を醸す”ことをしなかったか。東京都管轄の横田の返還を米国からとれず、尖閣に火をつけ政治的利益を計る石原は似非愛国主義者。」(引用終わり)

 

 孫崎享氏は、著書『不愉快な現実』『日本人のための戦略的思考入門』『日米同盟の正体』で「ジャパンハンドラーのジョセフ・ナイが『東アジア共同体で米国が外されていると感じたならば恐らく報復に出ると思います。それは日中両国に高くつきますよ』」と直接恫喝していることを指摘している。また、北方領土問題では在日英国大使館や米国のジョージ・ケナンが日ソ間の領土紛争を作り出して両国を対立させることを1940年代後半に提案していたことにも触れている。

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