4月 022013

 戦後史を見直し、独立自尊の国を目指すべき時がきている。そのためには、私たちは、日本国憲法、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約、日米地位協定、日米原子力協定について本当の事実を知る必要がある。そして、現在、話題になっているTPPも、マスコミが報道しない本当の事を知る必要があることは言うまでもない。だが、その前に、決して、西洋のエリートがおくびにも出さないが、腹のなかで、日本人に対して抱いている観念を知らなければ、この状況を打開することなどできないだろう。私たち日本人は、高度成長後、「名誉白人」扱いされて勘違いしてきたが、西洋のエリートの根強い黄色人種に対する偏見を今一度、冷徹に見つめる時を、迎えているような気がしてならない。

「我々は西洋のエリートからこのように見られている!?」 

 

 チャールトン・ヘストン主演の「猿の惑星」というSF映画をご覧になった方も多いのではないか。実はあの映画に登場する猿たちはどうも日本人のことらしい。日本人が白人捕虜を虐げていたかのような妄想を映画化し、それをさらに妄想を広げて、今度は日本人が地球を支配してしまったらどうするという根も葉もない白人の中にある恐怖心を煽るために作られた映画だった。ご存じだろうか。

原作者はピエール・ブール(Pierre-François-Marie-Louis Boulle, 1912年2月21日 – 1994年1月30日)。彼は名作と言われている「戦場にかける橋」という早川雪州氏が出演していた白人美化プロパガンダ映画の原作者でもある。現実には、日本軍は、木製の橋を現地では築造していない。コンクリートの橋を自前で造ったようである。

また、フランシス・コッポラの有名な「地獄の黙示録」に登場するマーロン・ブランド演じるカーツ大佐のモデルはマッカーサーだということをお聞きになったことがあるだろうか。東アジアの奥地で原住民(=日本人)の王となったカーツ大佐なる狂気の人物を、本国に強制送還するか射殺してこいという物語である。



以前のレポートでも指摘させていただいたように、一部の欧米のエリート白人たちには、普通の日本人が意識していないこの日本人の独自性というものがどうにも我慢ならない。

彼らから見ると、「原始の尻尾」を引き摺っている野蛮人の日本人がハイテク技術の最先端を行っているのが許しがたいというところだろう。それは当然カラードピープル全体に向けられた根深い歴史的背景を持つ偏見でもある。20世紀、黄色人種、日本人が西洋人からどのように見られていたか。尊敬する松岡正剛氏が良い評論を書いているのでご紹介させていただく。そして現在もその本質は全く変わっていないことを我々は忘れてはならない。

*松岡正剛氏のブログより 

「黄禍論とは何か」ハインツ・ゴルヴィツァー 

Heinz Gollwitzerr : Die Gelbe Gefahr 1962 瀬野文教[訳]草思社 1999

編集/加瀬昌男・碇高明 装幀/間村俊一

 

 20世紀初頭の黄禍論(イエローペリル)が世界にまきちらした問題について、簡略に案内しておきたい。なぜなら黄禍論という前代未聞の奇怪な“イエローピープル大嫌いムーブメント”には、そもそもは中世のモンゴルとその亜流のすさまじい動向が、そのぶりかえしともいうべき20世紀初頭の汎モンゴル主義の運動が、さらには今後の日米同盟関係や日本と東アジアのグローバリゼーションとのぎくしゃくしていくだろう関係などについての、すこぶる重要な“予言”がいくつも含まれているからだ。
 本書はそういう黄禍論の近現代史を、めずらしくコンパクトにまとめた本である。ただし、その観察はあくまでも欧米側からのものなので、今夜はテキストとして本書のほかに、橋川文三の『黄禍物語』(岩波現代文庫)などをところどころとりまぜて案内する。
 ヨーロッパ、ロシア、アメリカで19世紀末から20世紀初頭にかけて、ほぼ同時に沸き上がった黄禍論は、中国人と日本人が白色人種に与えた脅威のことをいう。
 当時、3つの現象が欧米の脅威になっていた。①安価で忍耐強い黄色の労働力が白人の労働力を凌駕するのではないか。②日本製品の成功が欧米経済に打撃を与えるのではないか。③黄色の国々が次々に政治的独立を果たして近代兵器で身をかためるのではないか。
 まるで今日にも通じそうな話だが、黄禍論はそのころのアジアの力が急激に増大してきたことへの過剰な警戒から生まれた。それは中国や日本からすれば黄禍ではなくて「白禍」(ホワイトペリル)というものだった。どんなふうに黄禍論が沸き上がっていったのか、重要なのはその異常発生の背景なので、そのアタマのところを紹介しておこう。

 日清戦争が勃発した1894年、ジョージ・ナサニエル・カーソンというイギリスの政治家が『極東の諸問題』という本を世に問うた。イギリスこそが世界制覇をめざすというジョンブル魂ムキムキの本で、斯界ではこの手の一級史料になっている。
 カーソンは、イギリスがこれから世界政策上でロシアと対立するだろうから、その激突の最前線になる極東アジアについての政治的判断を早くするべきだと主張して、それには中国の勢力をなんとかして減じておくことが必要だと説いた。対策は奇怪なもので、ロシアを抑えるには中国を先に手籠めにしておくべきで、それには日本を“東洋のイギリス”にして、その日本と中国を戦わせるほうにもっていけば、きっと日本が中国に勝つだろうというものだった。「タイムズ」の編集長のバレンタイン・チロルも『極東問題』を書いて、この路線に乗った。
 カーソンやチロルの期待と予想は当たった。日清戦争で日本は勝ったのだ。しかし、これで問題が広がった。ひょっとしたら中国だけではなく、日本こそが世界の脅威になるのではないか。いや、日本は御しやすい。むしろ中国が戦争に負けたからといって中国の経済力が衰えることはないのではないか。さまざまな憶測が広まるなかでの1895年、イギリスの銀行家トーマス・ホワイトヘッドは『アジア貿易におけるイギリスの危機的状況』という講演をロンドンでぶちあげ、中国の銀本位制にイギリスの金本位制が、たじたじになっていることをこそ解決すべきだと訴えた。

 一方、こうした極東状況を横目で見ていた二人の皇帝が、まことに勝手なことに、突然にあることを示し合わせた。
 有名な話だが、“カイゼル”ことドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がロシア皇帝ニコライ2世に手紙を書いて、そこで「黄禍」という言葉を使い、ポンチ絵で黄色人種を揶揄ってみせたのだ。「黄色い連中を二人で叩きのめそうよ」というポンチ絵だった。
 これが「黄禍」という言葉の誕生の現場だが、むろん言葉だけが一人歩きしたのではなかった。実際にも、まずは日本にちょっかいを出して、牽制することにした。ドイツとロシアがフランスを誘って「三国干渉」に乗り出したのである。
 翌年、ベルリンの雑誌「クリティーク」は「黄色人種の脅威におびえる白色人種」という特集を組んだ。2年後には東アジアの経済事情を調査するドイツ委員会が結成され、むしろ伸長する日本の経済力をうまく巻き込んで利用すべきだという報告がなされた。



義和団の乱に出征するドイツの東アジア遠征軍に演説するヴィルヘルム2世>


 
  ヴィルヘルム2世の中国侵略への野望は、日清戦争後の三国干渉、日露戦争後の黄禍論となってあらわれる。ここで事態はアメリカに飛び火する。イギリスに始まった優生学がアメリカに飛び火して断種政策の拡張になっていったのと同様に、アメリカはしばしばこのように、最後尾から登場してまずは自国の情勢をまとめあげ、ついではあっというまに事態を全世界化してみせるのだ。 

すでにアメリカは移民問題に悩んでいた。アメリカがサラダボウルの国で、どんな移民も受け入れる“自由の国ユナイテッドステート・オブ・アメリカ”だというのは、今も昔も半分でたらめで、アメリカほど移民問題をたくみに国際情勢の天秤目盛として活用してきた国はない。この時代もすでに中国移民のコントロールが問題になっていて、カリフォルニアでは中国移民制限と中国人排斥の機運が高まっていた。そもそも帝国主義大好きの大統領セオドア・ルーズベルトが、中国人追放には手放しで賛成している始末だった。
 そこへジャパン・パワーの噂が次々に届いてきた。折しも多くの日本人たちがカリフォルニアに次々に移住もしていた。問題はイエロージャップらしいという声が高まってきた。とりあえずルート国務長官と高平駐米公使のあいだで日本人のアメリカ入植を自発的に縮小することになったのだが、コトはそれではおさまらない。1900年、カリフォルニア州で日本人排除法が提案された。
 加えて名門兄弟のヘンリー・アダムズとブルックス・アダムズが『文明と没落の法則』と『アメリカ経済の優位』をそれぞれ刊行して、次のようなロジックを提供した。
 ①文明化するとはすべてを集権化することだ。②集権化とはすべてを合理化することだ。③集権化と合理化を進めれば欧米の品物よりもアジアの品物のほうが安くなる。④世界は集権化と合理化に向かっている。⑤だからアジアが生き残り、これに気が付かないヨーロッパは滅びるにちがいない。⑥アメリカはここから脱出しなければならない。

 アダムズ兄弟のロジックは強力だった。すでに『海上権力史論』を世に問うて、アメリカ中で万余の喝采をもって迎えられていたアルフレッド・マハン提督は、⑥の「アメリカはここから脱出しなければならない」を達成するための、新たな方針を打ち出した。
 中国を門戸開放させ、その管理を列強が示しあわせてコントロールするべきだと言い、今後のパワーポリティックスは「北緯30度から40度のあいだ」に集中するだろうから、トルコ・ペルシア・アフガニスタン・チベット・揚子江流域の中国・朝鮮半島・日本、および南米のとくにアマゾン河流域のブラジルに注意しなければならないと力説したのだ。けっこう当たっている。
 ところが、そこへおこったのが、世界中を驚かせた日本による日露戦争勝利だったのである。イギリスがちゃっかり日英同盟を結んでいたことが、アメリカには癪のタネだった。
 1905年にカリフォルニアに反日暴動がおこり、アメリカはロシアに勝った日本と反日の対象となった日本とをどうあつかうかという二面工作を迫られた。その工作がポーツマス条約に対するアメリカの斡旋というかっこうをとらせた。
 しかしむろんのこと、アメリカはこのまま日本をほうっておくつもりはない。血気さかんな将軍ホーマー・リーはさっそく悪名高い『日米必戦論』と『アングロサクソンの時代』を書き、これからは、ロシアはきっと中国と手を結ぶだろうから、アングロサクソン連合としては中国と同盟を結び、将来における日米決戦に備えておかなくてはならないと“予言”した。
 当時、京都大学で比較宗教学を講義していた親日派のシドニー・ギューリクはさすがにこの“予言”に呆れて、急遽『極東における白禍』を執筆したが、もう焼け石に水だった。このあとアメリカの排日主義はますます強固に、ますます拡大のほうに向かっていった。



風刺画「Japonは悪魔」
日露戦争に勝利した日本がヨーロッパのキリスト教社会を守る天使に手傷を負わせた悪魔として表現されている。

 “The Yellow Terror In All His Glory”, 1899
中国人が西洋の婦人を犯して殺すというイメージを吹聴している。

 日露戦争に破れたロシアでは、かなり複雑な反応がおこっている。この国はもともと徳川日本に関心をもっていて、プチャーチンをはじめ何度も日本沿岸に出没し、折りあらば、交易や開港を迫るつもりだったのだが、それをペリーとハリスのアメリカに先を越されたわけだった。

 つまりロシアには「ロシアのアジア主義」ともいうべきものがあったのである。けれども、その外交政策がなかなか軌道にのってこない(今はなお北方領土問題がくすぶっている)。そういうロシアにとって、それを邪魔するのは仮想敵国のイギリスだった。それゆえ19世紀末、ブルンホーファーやウフトムスキーといった言論派は、たえず「ロシア・アジアの統合」というお題を掲げ、ときにはなんと、「仏教世界制覇の計画が日中韓の連合によって進むことがありうるかもしれないから、ロシアはそれに遅れをとってはならない」というような、やや誇大妄想なアジア対策を練ったりもしていた。
 それがニコライ2世のころから黄禍に走り、そうこうしているうちに日露戦争で辛酸を嘗めた。ほれほれ、だからロシアン・アジアを早く確立すべきだったじゃないかと言ったのは、ウラジミール・ソロヴィヨフの『汎モンゴル主義』だった。

 ドイツはどうか。アーリア神話や優生学や断種政策でもそうだったように、おっちょこちょいのカイゼル(ヴィルヘルム2世)こそ黄禍のお囃子の先頭を切ったものの、国全体としてはあいかわらず微妙な立場にいた。三国干渉、膠州湾占領、義和団事件への出兵までは、まだ日本をからかっていればよかった。だからドイツ財界の重鎮で社会進化論者でもあったアレクサンダー・ティレは1901年の『黄禍』では、黄色人種によって「ドイツの労働市場が水びたしになることはないだろう」とタカをくくっていた。しかし日露戦争以降、どうも雲行きがあやしくなっていく。
 アウグスト・ベーベルは中国に莫大な地下資源が眠っている以上、ドイツはこれを取りに行く列強との競争で遅れをとってはならないと警告し、フランツ・メーリングは中国や日本の脅威を防ぐには、もはやかれらの資本主義の力を社会主義に転じさせるしかないだろうと弱音を吐いた。しかしドイツの黄禍論が他の列強と異なっていたのは、やはりそこに反ユダヤ主義がまじっていったことだった。ドイツの黄禍論はしだいに民族マキャベリズムの様相を強くしていった。

「ル・ガトゥ・チノイス」(中国の分割)1899
左よりドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、フランス大統領ルーベ、ロシア皇帝ニコライ2世、日本の明治天皇、アメリカ大統領T=ルーズヴェルト、イギリス国王エドワード7世。

「ル・ガトゥ・チノイス」(中国の分割)1899
左よりドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、フランス大統領ルーベ、ロシア皇帝ニコライ2世、日本の明治天皇、アメリカ大統領T=ルーズヴェルト、イギリス国王エドワード7世。

T・ビアンコ「黄禍論―ヨーロッパの悪夢」

ざっとは、こんなふうに列強世界を黄禍論が走ったのだ。
 では、ここまであれこれのイジメを受けた日本はどうだったのかというと、黄禍論は当然、明治の日本にも衝撃を与えた。ただし、当時の日本人は黙っているわけではなかった。たとえば象徴的には鴎外、天心、漱石が反論していた。
 鴎外については、明治36年11月の早稲田大学課外講義『黄禍論梗概』の記録がのこっている。そのなかで鴎外は、黄禍論は「西洋人が道徳の根幹を誤って社会問題を生じて、商業・工業の上で競争ができないようになりそうだと、不安がっているにすぎない」と断じ、「西洋人は日本と角力を取りながら、大きな支那人の影法師を横目で睨んで恐れて居るのでございます」「所詮黄禍論というものはひとつの臆病論なのです」と言った。鴎外はジョセフ・ゴビノーの人種差別論にもかなりの批判を展開した。
 天心は『日本の目覚め』の第5章を「白禍」とし、「東洋民族が全面的に西洋を受け入れたのは問題だった。帝国主義の餌食になった」と述べ、「かれらの渇望の犠牲になってはならない」と強く訴えた。
 漱石が『それから』の代助に言わせたセリフは、まさに黄禍と白禍の問題の本質をついていた。こういうものだ。最近のニートやフリーターにも聞かせたい。

 
 
 

 



 「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。日本対西洋の関係がダメだから働かないんだ。第一、日本ほど借金をかかえて貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、いつになったら返せると思うか。そりゃ外債くらいは返せるだろう。そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底たちいかない国なんだ。それでいて一等国を以て任じている。無理にでも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじ張れるから、なお悲惨なんだ」。



ニュージーランドの風刺画「黄禍論」(1907)
アヘン吸引、貪欲、不道徳などの悪徳をふりまく蛸の姿のアジア人がニュージーランドの女性を襲っている。

パラマウント社制作「The Return of Dr. Fu-Manchu
Part Six – “The Silver Buddha”」(1929)

英国の作家サックス・ローマーが義和団の乱の影響を受けて、西欧による支配体制の破壊と、東洋人による世界征服を目指す怪人ドクター・フーマンチュー(傅満洲博士)を主人公とするスパイ小説『怪人フーマンチュー』(1916)を発表。これは“黄禍”を警告する意図で1920年代から1930年代に連続してトーキー映画化された。

  田口卯吉のように黄禍に対抗するあまり、敵のロジックをむりに日本にあてはめた例もある。田口は『日本人種論』『破黄禍論』において、なんと「日本人=アーリア人」説を説いたのだ。これが『日本開化小史』を書いて、福沢諭吉や天野為之と並び称された自由主義経済学の導入者とは、とうてい思えない。そこには「史海」の発行者であって、『国史大系』『群書類従』の編纂に当たった田口のほうの顔が強く出ていた。
 もっとも、このように日本人を優秀化するためにアーリア人やユダヤ人をその流れに牽強付会させようというめちゃくちゃな論陣は、この時期は田口だけでなく、黒岩涙香、竹越与三郎、木村鷹太郎、小谷部全一郎などにも共通していて、かつて長山靖生の『偽史冒険世界』を紹介したときにもふれておいたように、それ自体が黄禍に対する過剰防衛になっていた。小谷部は、例の「義経=ジンギスカン」説の発案者である。
 いずれにしても、当時の日本人にもたらした黄禍論の影響は、かなり面倒なものとも、危険なものともなっていったと言わざるをえない。
 橋川文三は、日本に「国体」論が浮上し、天皇唯一主義が受け入れやすくなったのも、また孫文に代表される大アジア主義が流行して日本の国粋主義者がこれに大同団結しようとしたのも、どこかで黄禍論に対する反発がはたらいていたと見た。この見方、いまこそ肝に銘じておくべき見方であろう。

 黄禍論。まことに厄介な代物だった。それは今日のアメリカのWASP主義、中国や韓国の反日感情、インドとパキスタンの憎悪劇などの厄介さを思えば、想定がつくだろう。
 しかし、ほんとうに厄介なのは、アーリア神話、ゲルマン主義、優生学、断種政策、黄禍論が、すべて一緒くたに20世紀の劈頭を荒らしまわっていたということだ。
 ぼくはこのあと、ユーラシアにおける民族の交代劇をその制覇と没落を通して案内していくつもりだが、そしてそこにイスラム主義やモンゴル主義やトルコ主義がどのような光と影をもたらしていったかを、できるだけわかりやすく、できれば順よく案内し、そこから東アジアの盟主となった中国という国がどんな民族ネクサスを演じてきたかを書くつもりだが、それにあたって、スキタイから派生したアーリアン・コメディの長期にわたった脚色劇が20世紀にまで続行していたことを、あらかじめ伝えておきたかったのである。 

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