欧米が創り出したおとぎ話?

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6月 252014

もうだいぶ前のことだが、配偶者に勧められてパトリック・ジュースキントの「香水~ある人殺しの物語~」という小説を読んだことがある。舞台は18世紀のフランスのパリ。町は汚濁と猥雑にまみれ、至るところに悪臭が立ちこめている。あまりにも不衛生で、貧しいヨーロッパの大衆の生活が見事に描写されていた小説だった。その後、この小説が映画化されたので見たが、主人公の出生シーンはなかなか衝撃的だった。腐った魚やらゴミやらが回りに悪臭を放っている下町のとある魚屋の女性が主人公:ジャン=バティスト・グルヌイユのヘソの緒を自身で、包丁で切り落とし、そのまま、ゴミ溜めに捨ててしまう場面を映画は忠実に再現していたからだ。





ところで、16世紀の「大航海時代」以降、アフリカ、アジア、北アメリカ、南アメリカの人たちから大規模な略奪を重ねたヨーロッパ人が、近現代史、200年の勝利者であったために西洋に対して、私たち日本人はあまりにも美しい誤解を巧みに植え付けられたまま、現在に至っているようだ。そろそろ冷静にありのままの事実を直視すべき時であろう。



以前のレポートでも紹介させていただいたが、ヨーロッパが200年にわたる略奪、殺戮をほしいままにしていた1820年においても、まだ、アジアの方が豊かだったのである!

1820年において中国、インド、東南アジア、朝鮮、日本からなるアジアの所得は、世界の58%を占めていた。その後、19世紀におけるヨーロッパの産業革命、20世紀に入ってアメリカの工業化が進むことによって、1950年には、ヨーロッパとイギリスとイギリスの4つの旧植民地(アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)が世界所得の56%を占める一方、アジアのシェアは、19%までに落ち込んだ。ところが、この頃からアジアは成長し始め、1992年の段階で、39%までに回復。2025年には、57%に達し、200年ぶりにかつての地位を取り戻すことが予想されている。(「アジア経済論」原洋之介編NTT出版、「近代中国の国際的契機」東京大学出版会)



そこで今回は、21世紀の新しい時代に備えて私たち日本人が目を覚ますための本を紹介したい。「ものぐさ精神分析」という本で一世を風靡した岸田 秀氏の「日本がアメリカを赦す日」(毎日新聞社)である。有名な政治学者である京極純一氏がこの本の書評を書いていたので、まず初めに紹介させていただく、以下。

<歴史における正義とは何か>



著者の岸田秀先生は精神分析の専門家で著書が多い。このたび、「日本とアメリカの歴史の、これまたそのごく一部にほんのちょっぴり触れただけ」と謙遜(けんそん)する新著『日本がアメリカを赦(ゆる)す日』が毎日新聞社から出版された。読み易く、分かり易いことは、これまでの著書と同様で、ご一読をおすすめしたい。



表題が示すように、この本は、日米関係150年の歴史を資料に、日本人とアメリカ人の生活心理と相互交流の実際を、精神分析の角度から、的確に解説した、面白い読みものである。

この書物の冒頭、1853年、ペリー艦隊来航の後、「近代日本はアメリカの子分として出発しました。」と著者は説明する。その後の「日本は屈辱感、敗北感、劣等感に呻(うめ)きつづけてきました。その屈辱感から逃れるためには、日露戦争は日本民族の優秀さのゆえに勝ったのだという、この神話を是が非でも信じる必要がありました。のちの日米戦争惨敗の原因は、この神話です。」



ところで、日本の相手役であるアメリカ側は、「自分が相手のプライドを傷つけたことに鈍感で無神経です。自分以外の人間の行動におけるプライドという動機が見えません。」



その上、「近代日本は、外国を崇拝し憧憬する卑屈な外的自己と、外国を嫌い憎む誇大妄想的な内的自己に分裂して」いた。そして、日米お互いに相手の神経を逆撫でするとき、「アメリカは意識的、意図的に日本をイライラさせ、日本はつい気づかずにアメリカをイライラさせた。」「真珠湾奇襲に対するアメリカのすさまじい怒りは、アメリカ人の主観としては、恩知らずの裏切り者に対する善意の恩人の怒りでした。」「さらに深い理由、第一の根本的理由は、僕(著者)によれば、アメリカの歴史、インディアン虐殺の歴史にあります。アメリカ人は無意識的に日本人をインディアンと同一視していると考えられます。人間は自分が犯し、かつごまかした悪事と似たような悪事を他人が自分に対して犯すと、激しく非難するものです。罪悪感を外在化するためです。」「アメリカにとっても、日米戦争はやる必要のなかった戦争でした。」「日本は敗戦後から今に至るまでずうっとアメリカの属国で、その占領下にあります。」



「現在の日本人の平和主義は、平和主義でなく、降伏主義、敗北主義です。」「一種のマゾヒズムでしょうね。」「現状では、日本の平和主義は偽善でしかない。」



生活と文化については「一般性とか普遍性の面でアメリカ文化のほうが日本文化より上だ。」日本文化の基盤は「和」と「世間の眼」に基づく「一種の性善説」の人間観である。しかも、「言語化されていないため、外国人との関係を築くのが難しい。」「が、捨てることもできない。どこでも日本人ムラができる。」

アメリカは「おのれを普遍的正義の立場、善悪の絶対的判定者の立場におき、それに従わざるを得ないような無条件降伏に敵を追い込んでおいて、敵を裁くのが好き」である。

アメリカは「インディアン虐殺を正当化」する「正義の国」とされ、「強迫神経症の患者で、反復強迫の症状を呈している。」「今日の日本の繁栄は、インディアン・コンプレックスに苦しむアメリカ人の精神安定のために必要だったのです。」日本の繁栄は「アメリカ文化の普遍性の夢がついに実現した物語でした。」



アメリカと日本の社会と文化の特性をよく心得た解説書、実際生活の中で参考になる事柄の多い有用な手引書としておすすめしたい。

「毎日新聞2001年4月8日」(引用終わり)

ところで、著者の「アメリカの子分としての近代日本」という分析は、多くの日本人のプライドを傷つけるかもしれない。しかしながら、現実を冷徹に認識できなければ、現実を変える対処法を見つけることは、できないことを肝に銘じるべきだろう。特に日本は敗戦後から今に至るまですっとアメリカの属国で、その占領下にあることを冷静に認識していないと、米国から要求のあった集団自衛権、TPP等の問題を安易に捉えることになり、これから大変なことになるだろう。米国覇権に陰りが見える時代に入った今、読み返してみる価値は十分にある。



もう、1冊は「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」というこれも同じく岸田氏の本である。この本は、大論争を欧米に巻き起こした英国人歴史学者マーティン・バナールの「黒いアテナ」の解説を主に岸田氏が独自の見解を述べるユニークなものになっている。山川出版の世界史の教科書とあまりに内容がかけ離れていることに吃驚される方も多いと思われるが、著者は、現在、一般に流布している世界史は、西洋人が自分たちを優位に立たせるために作ったプロパガンダ、コマーシャルだと言っているのだから、全く立場が違うわけだ。



以下、本書から引用。(208ページ)

<ヨーロッパ中心主義の悪魔的魅力>



アーリア主義を頂点とする、ヨーロッパ人しか文明をつくれないとか、ヨーロッパ文明は最高の普遍的文明であるとか、ヨーロッパ民族は世界を支配すべき優秀民族であるとかの近代ヨーロッパ中心主義の思想をヨーロッパ民族がつくった動機は、ほかの諸民族に対する嫉妬と劣等感である。隠蔽されているというか、あまり認識されていないようであるが、世界の各民族がそれぞれ主として自分たちの土地の産物で暮らしていた近代以前においては、土地が痩せていて気候条件にも恵まれなかった(もちろん、不利な条件はそれだけではなかったが)ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん貧しい民族であった。もうとっくに嘘がバレているが、いわゆる「未開人」が貧しく惨めな野蛮生活を送っていることを「発見」したのは、近代ヨーロッパ人の探検家たちであった。ところが、いわゆる「未開人」を貧しく惨めな生活に追い込んだのは近代ヨーロッパ人であって、そのような「発見」はこのことを隠すために必要だったのである。



近代ヨーロッパ人は、世界の情勢を知るにつれ、ますます他民族への嫉妬に駆られ、劣等感に苦しめられ、そして、貧しさに苛まれて、どこかほかにいいところがあるような気がして故郷のヨーロッパに安住できず、難民あるいは出稼ぎ人となって世界各地に押し出されてゆくようになった。そして追い詰められた者の強さで必死にがんばったのであった。ヨーロッパ中心主義の歴史観では、「大航海」時代のヨーロッパ人は、冒険心に富み、進取の精神に満ち溢れ、あらゆる危険をものともせず、未知の世界の果てまで余すところなく探求して飽きなかった勇敢な人たちだったことになっているらしいが、それは自己粉飾である。なかには、そういう者もごく一部いたかもしれないが、故郷のヨーロッパをあとにした者の大部分が飢餓や宗教的、人種的迫害から必死に逃れようとした難民であった。地球規模で言えば、近代はヨーロッパに大量の難民が発生した時代であった。故郷で何とか過不足なく暮らしてゆけている者がどうして故郷を捨てて見知らぬ土地へ逃げてゆきたいと思うであろうか。



その結果、必然的に、ヨーロッパ以外の世界の各地でヨーロッパ民族と他の諸民族とがぶつかることになった。ヨーロッパ民族と他の諸民族との争いは、貧しく惨めな家に生まれ、そのため、いじけて意地悪ですれっからしで疑い深く、せこい性格に育ち、争いの絶えない厳しい環境のなかで場数を踏んでいるために喧嘩が滅法強く、暴れん坊で、家にいたたまれず飛び出してきて帰るところのない餓鬼と、お金持ちの裕福な両親のもとに生まれ(自然に恵まれ)、可愛がられてのんびりした性格に育って、人の悪意というものをあまり知らず、のほほんとわが家で豊かに暮らしていたお坊ちゃん(中略)との争いであった。

勝負は初めから決まっていた。この争いの最も典型的な例は、十六世紀初め(1531~1533年)のスペイン王国のごろつきピサロとインカ帝国の皇帝アタウァルパとの争いであった。要するに、ヨーロッパ人と比べれば裕福に暮らしていた他の諸民族の多くは、無警戒だったということもあって、手もなくやられてしまったのであった。それ以来、貧富は逆転し、ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん豊かな民族となった。



そのときに、惨めで劣悪な過去を隠蔽し、立派な過去を捏造しようとするヨーロッパ人の大掛かりな企てが始まった。その結果できあがったのがヨーロッパ中心主義の思想であり、ヨーロッパ製世界史である。それは近代ヨーロッパ人の他の諸民族に対する嫉妬と劣等感に基づく何かに駆り立てられたような残忍さ(中略)、すでにヨーロッパ内の少数民族を相手に習得していた技術を応用した他の諸民族の支配と搾取を正当化し、それに伴う罪悪感をごまかすということを動機として形成された思想であった。

ローマ人から蛮族と呼ばれていた古代ヨーロッパを古代ギリシアにすり替え、あまり自慢にならない中世の「暗黒時代」をすっ飛ばし、近代ヨーロッパ文明を栄光ある古代ギリシア文明の直系の子孫とする歴史の捏造もこの思想の一環であった。それは、卑賤から身を起こして成り上がった一家が滅亡した昔の名家の系図を買い、過去を隠してその末裔と称するようなものであった。だから、「お家復興」というか、再生、すなわちルネサンスと称したのである。」              (引用終わり)



亡くなった小田実氏がマーティン・バナールの「黒いアテナ」の書評を書いているので、紹介する、以下。

『黒いアテナ』の鮮烈な主張



昔はよく現代のギリシア人が「黒い」のは、金髪、白い肌、長身、長脚のギリシア彫像の栄光の時代のあと、ギリシアの周囲の蛮族(英語のバーバリアンということばは、ギリシア語の「バルバロス」から来ている。すなわち、文明人のギリシア人の耳にはバルバルとしか聞こえないわけの判らないことばをしゃべる連中はそれだけで野蛮人だ。そういうことになった)と混交、混合し、さらには蛮族中の蛮族のトルコ人の支配を長期間にわたって受けたからだと言われたものだ。最近はそうでもなくなって、あれは昔からそうだったのだと言われるようになって来ていたが、それをまちがいなくそうだと強力に主張した一書が近年になって現れた。それが、この1987年に第1巻が世に出たマーティン・バナールの『黒いアテナ』だ。彼はそう証拠を集めて主張しただけではなかった。元来が本質的に「黒いアテナ」だったのを「白いアテナ」に変えたのは1785年に始まるドイツを中心とした「ヨーロッパ、西洋」の歴史の「偽造」だと、これもまた強力、鮮烈に主張した。



ギリシア語の語彙に見られる西セム系、エジプトのルーツ



この本のことをここで長々と説明するつもりはない。すべては『黒いアテナ』自体を読めば判ることだ。ただ、ここで私なりにまとめ上げた紹介を少し書いておけば、バナールは、今はアメリカ合州国のコーネル大学の教授だが(それともすでに引退しているかも知れない、それほどの年齢だ)、もともとはイギリスのケンブリッジ大学で中国学を勉強し、教えもしていたイギリス人の70歳に近い年の学者だ。若いときには、ベトナム反戦運動に参加し(そのころ、ひょっとしたら、私は彼に会っていたかも知れない)、同時に当時イギリスでは事実上何の研究もされていなかったベトナムを研究、日本史も勉強した。両者ともに、混合しながら、同時に独自に文明をつくり出していて、それはのちのギリシア研究のいい「モデル」になった(そう彼は『黒いアテナ』第1巻の「はしがき」で書いている)。

そのあと、同じ「はしがき」のなかでの彼自身のことばを引用して言えば、「世界の危険と興味の中心となる焦点はもはやアジアではなくて東地中海になった」と彼には見えて来て、そちらに研究対象を移し、ヘブライ語(彼には少しユダヤ人の血が入っている、そう彼は言う)、エジプト語を学び、さらにギリシア研究に至って、彼は重大な「発見」を二つする。ひとつは、ギリシア語の語彙の半分はインド・ヨーロッパ語系のものだが、あと25パーセントは西セム語系(ヘブライ語――古来のユダヤ人言語もそこに入る)、20―25パーセントはエジプト語だという「発見」だ。しかし、なぜかくも混交が起こったのか。それはかつて古代ギリシアがエジプトと西セム語系言語をもつ古来のユダヤ人の国フェニキアの植民地だったからだ――これがバナールの第二の「発見」だが、そうだとすれば、当然、古代ギリシアには、フェニキアのユダヤ人要素とともに、「黒い」アフリカの一部のエジプトもギリシアの構成要素のなかに入って、古代ギリシアは「白いアテナ」ではなくなり、「黒いアテナ」、そうとしか考えられないものになる。そうバナールは強力に主張する。



西欧による歴史の「偽造」



これだけでも大問題になって論争がまきおこって不思議はないが、もうひとつ、彼は重大な主張を、証拠を集めてやってのけた。それは、さっき述べた歴史の「偽造」である。それは大航海時代以来、侵略と植民地支配で世界の中心にのし上がって来た「ヨーロッパ、西洋」が、ことにそのなかで新興勢力のドイツが牽引力になって、近代になって自分たちの文明を古代ギリシアに始まるものとして、ここ200年のあいだに元来が「黒いアテナ」だったはずの古代ギリシアを、「白い」自分たちの先祖であるのにふさわしく「白い」アテナに「偽造」してのけたというのだ。この本の副題は「古典文明のアフロ・アジア的ルーツ」だが、その第1巻(これが1987年にまず出版された)にさらにもうひとつつけられた副題は「古代ギリシアの偽造 1785年―1985年」とまさに激しい。また、きびしい。



『黒いアテナ』をめぐる論争



これでこの本が「ヨーロッパ、西洋」で問題にならなかったら不思議である。案の定、大論争がまき起こり、それはまだ続いている。「聖書以来、東地中海についてのもっとも論議された本」と評した学者もいるし、「好むと好まざるとにかかわらず、バナールの事業は、ギリシア文明の起源と古代エジプトの役割についての次の世紀における認識を深いところで示している」と言った学者もいる。そして、この二つの発言を紹介しているのは『大学における異端』と題した、これまでの『黒いアテナ』にかかわっての論争を「肯定」「否定」あわせてまとめて紹介した本だが、こうした本が出版されていることだけでも、論争の規模の大きさと激しさが判るだろう。「賛否」両論半ばと言いたいが、マーティン・バナール自身が書いているように、「否」が「賛」より多いようだ。そして、「否」が古代ギリシア研究の専門家に多くて、「賛」は私自身をふくめて、この本をこれから読もうとしている読者のような専門家でない知識人――「知的大衆」に多いと、これもバナール自身が書いていた。



バナールによるパラダイム転換



こうした事態にあって、よく使われるのは、研究、本の質の理由だ。質が劣っているので、この研究、本はわが図書館には置かない――これがよく使われる理由だが、この質の問題でいつでも出て来るのは、専門家が見てどうかという問題だ。

私にはバナールの学識、あるいは、逆にバナールを「アマチュア」とこきおろすレフコビッツの「専門家」としての学識を判定する能力はないが、私にはバナールの学識、そして、研究それ自体は決して「アマチュア」程度のものとは思えない。しかし、たとえ、彼が「アマチュア」だとしても、バナール自身が主張するように、トロイの遺跡をみごとに発掘してみせたハインリッヒ・シュリーマンは言うに及ばず、クレタ線文字Bをギリシア語としてこれまたみごとに解読してみせたマイケル・ベントリスも偉大な「アマチュア」だった。シュリーマンの本業が企業家なら、ベントリスは建築家だ。

バナールは『黒いアテナ』第1巻の「序文」の冒頭に、科学における「パラダイム」転換の必要を説いたトーマス・クーンのことば、「新しいパラダイムの根本的な発案をなしとげる者は、たいてい常に、彼らがパラダイムを変えるその領域において非常に若いか、非常に新しいか、そのどちらかである」を引用したあと、中国研究を長年して来た自分が今『黒いアテナ』でしていることは、厳密な意味でのパラダイム転換ではないとしても、それと同じように根本的なことだと述べていた。私も彼のことばに同意する。

(引用終わり)



どう判断されるかは、別にしてあまりにも興味深い指摘である。

ここで、私たちが忘れてはならないのは、ジョージ・オーウェルの次のことばである。



「過去を支配する者は未来を支配する。そして現在を支配する者は過去を支配する」

(『一九八四年』)





*ところで、日本では宮司の三島敦雄氏が1927年に「天孫人種六千年史の研究」を刊行し、シュメル人と日本人を結び付ける歴史学説を唱えたことがある。この書は100万部近くの超ベストセラーになったが、1945年の敗戦後、GHQはこの本を一冊残らず探し出して没収、焼却した。ご存じだろうか。

このように歴史は勝者によって作られていくのである。

先日から、知人に勧められた、豊橋出身の西谷 修さんが監修した「自発的隷従論」を読んでいる。フランスの有名なモンテニューの夭折した友人であるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(彼は1530年に生まれ、1563年に亡くなった。)が18歳前後の書いたと言われる小論である。吃驚するのは、この本が書かれた16世半ばから400年以上の歳月を経ているにもかかわらず、現在の日本の不思議な無力感に包まれた社会状況をあまりにも適確に言い当てていることである。(以下、彼の興味深い言葉を引用)



「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P11)」



「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P13)」



「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか。(P14)」



「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P15)」



「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P15)」



圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P18)」



「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P19)」



「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P22)」



「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P27)」



人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分自身にだまされる場合が多いのだ。(P34)」



信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P34)」



「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P35)」



「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P43)」



「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(P44)」



「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P44)



人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ」(P48))



「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P49)」



「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購いたいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」



芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士、珍獣、賞牌、絵画、その他のこうしたがらくたは、古代の民衆にとって、隷従の囮、自由の代償、圧政のための道具であった。古代の圧政者、こうした手段、こうした慣行、こうした誘惑を、臣民を軛の下で眠らせるためにもっていた。こうして民衆は阿呆になり、そうした暇つぶしをよきものと認め、目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり、そんなふうにして隷従することに慣れていったのであった。(P53)」

如何だろうか。現在の高度に発達したグローバル金融資本主義社会では、メディア等を使って、あまりにも巧みに<自発的隷従状態>に誘導されてしまうのが、悲しい現実ではないだろうか。



一例を挙げるなら、現在、脱原発運動の旗手の一人になっている小出裕章氏の言動の不可思議さのなかにも「自発的隷従」の精神を垣間見ることができる。



小出氏の自発的隷従の典型が「「病気になることを納得して食べる。せめて子供を守るため、大人が率先して汚染度の高い食物を食べるべき」だという敗北主義的なあまりにも不思議な主張である。放射線管理区域にすべき所に、日本政府が、国民を住ませる決断をした以上、仕方がないというのも彼の主張だが、本当にそうだろうか。

言うまでもなく、日本国には、日本国憲法があり、国民主権、基本的人権の尊重が高らかに謳われている。年配者は、汚染地域の一次産業を守るために、放射性物質に汚染された食物を食べるべきだという主張は、どう考えても基本的人権の侵害である。また、政府が決めたから仕方がないという主張も、本来なら、国民主権が機能していない政治を問題にすべきであろう。一票の格差の問題、マスコミ報道のあり方等、議会制民主主義が機能阻害されている要因は、あまりにも多くあるように思われるが、

本当の事を書いてしまえば、原発問題を解決するお金の問題も、日本が官民合わせて米国に貸していると言われている1200兆円のお金を活用すれば、本当は何とかなるはずである。もちろん、多くの政治家は、米国が怖くて言えないだろうが、国家非常事態宣言を311の時にしていれば、すでにそれすら、できていた可能性があると思われる。

ところで、国立保健科学医療院の山口という研究員が、原発を世界中につくるために「福島の原発事故を早く抑え込んでしまって、除染をして住民が汚染を受け入れること

を発信しないといけない」と、言っていたようだが、一時、話題になった<福島エートス>とは、被曝者である福島の人々が、自ら進んで放射能の環境の中で生活することを

選んだと、いう既成事実を作って、それを世界に発信するための奇妙な活動である。

この自発的隷従の活動を世界の原子力マフィアが後押ししているわけだが、上記の小出氏の主張は、残念ながら、見事にこれに沿うものになっていることに日本人は早く、気が付くべきであろう。

おそらく、小出氏が大手のマスコミに頻繁に出演できる理由は、この辺にあるのでは、ないかと思われる。ただ、彼は、意識的にやっているのではなく、日本社会に流れている「自発的隷従の空気」に流されているだけだろう。

*参考:「食べて応援死亡と奇形続出生体実験」http://blog.livedoor.jp/home_make-toaru/archives/7712867.html



ところで、日本人をこのような自発的隷従論の世界に閉じ込めているのは、欧米のグローバルエリートと彼らに協力してお金儲けを最優先しているコンプラドールと化した日本人だが、現在、日本をコントロールしている欧米のエリートが「デフレ、縮小化する世界」のなかで、怖れているとともに、期待?もしていると言われているのが、以前、レポートでも紹介した「日本人の独自性」というものであることをご存じだろうか。

(以下、レポート「日本人の独自性」より部分抜粋)

参照:http://www.yamamotomasaki.com/archives/619



私は、日本人のユニークさは狩猟・採集を基本とした「縄文文化」が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けていることが一番大きな要因だと考える。

それを哲学者・梅原 猛氏は「森の文化」だと言っている。日本人は、「ギルガメシュ神話」のように「森の神」を殺さなかったのだ。そして、ユーラシアの穀物・牧畜文化に対して、日本は穀物・魚貝型とで言うべき大陸とは全く違うユニークな文化を形成していったのである。

世界でも稀な縄文時代という土器文化を異常に長く続けた歴史こそ、おそらく日本人のユニークさの源泉なのであろう。このような歴史を歩めた幸運が日本人の独自性を創り上げたと考えるべきだと思われる。



また、日本語を母国語とすることによる脳の使い方の違いももっと、考えるべきであろう。角田忠信博士が書いた「日本人の脳」という本はそのことを解明した画期的な本であった。

東京医科歯科大学の教授であった角田博士によると、日本人と西洋人とでは、脳の使い方に違いがあるという。すなわち、日本人の場合は、虫やある種の楽器(篠 笛などの和楽器)などの非言語音は言語脳たる左半球で処理される。もしそれが事実とするならば、欧米人が虫や楽器の音を 単なる音として捕らえるのに対して、日本人はその一部を言葉的に捕らえる、つまり意味を感じていると考えることができる。この事は日本人の認識形態、文化に取って非常に重要だ。一般的に意味、つまり、言葉を発する主体は意識体として認識される。しかしながら、日本人にとって楽器などの奏でる非言語音がその一部とは言え、言語脳を刺激して語り掛けているならば、それが人間から発せられるものでない以上、別の意識体、つまり、霊魂、神々、魔物 などの霊的意識体として感じ取られる感受性の高さに結び付くのではないか。また、その事が日本人の精神の基層を為していると考えることもできるからだ。



このことから日本語を使う日本人の脳は本来的にアニミズム的であり、多神教的であると言えよう。そして、おそらくは日本特有の言霊の概念もこの様な認識の上に成り立つ。

ところで、角田氏に拠ると幼年期を欧米で過ごし、英語やフランス語などで育った日本人は欧米型の脳に成り、日本語で育った欧米人は日本型の脳に成る。つまり、幼年期に使う言葉によって、脳の機能が決定されることになる。母国語は、脳にとってパソコンのOS(オペレーションシステム)のようなものであるらしい。

もし、日本語がその様な脳を作り出す特性を持っているとしたら、どのような異文化が流入しても、日本の根底に在る文化、精神は変化しないのか。また、この様な日本語の特質は果たしていつ頃からできたのか。博士の研究に拠ると、この日本人特有と思われたパターンが他の民族からも見付かっている。いわゆる黄色人種の中には日本型の脳はなかった。日本人に最も近いとされる韓国人にしても欧米型であった。しかし、太平洋に点在する島々の住人、つまり、その現地語を話すミクロネシアなどの人々は日本型と判断された。ポリネシアの言語もその形態の近い事から同様の脳を作ると考えられる。



実を言えば、現在、縄文人の直系の子孫と思われるアイヌの人々は遺伝的にポリネシアンに近い事が分かっている。また、哲学者梅原 猛氏が言うようにアイヌ語は縄文の言語の形態を色濃く残していると考えられている。最近の研究ではミクロネシアン、ポリネシアン、縄文人、アイヌなどは氷河期以前のモンゴロイドと言う意味で旧モンゴロイドと名付けられ分類をされている。ミクロネシア系の言語が日本型脳を作るのなら、そして縄文語から発展した日本語が日本型の脳を作るのなら、アイヌ語も日本型の脳を作ると推測できる。つまり、旧モンゴロイド系の言語は本来的にアニミズム的な多神教的な脳を産み出すと考えられる。むろん、文明を持つ以前の人類は、アルタミラの洞窟壁画を見ればわかるように旧モンゴロイドに限らず、アニミズム的な世界観を抱いていた。もちろん、自然との対話から直感を得、自然との関わり方を学ぶ能力は旧モンゴロイドの専売特許ではなかったことは言うまでもない。しかしながら、人類の多くはその様な能力を伝える言語を失った?が為に、文明の進展と共にその様な能力を失っていった。使われぬ能力が退化をするのは自然の摂理だ。



しかしながら、我々日本人の言語はその様な能力を脳に与える潜在的力を秘めている。この能力は非常に貴重であり、文明の進んだ今日こそ、改めて見直されるべきであることは言うまでもない。

日本語はおそらく、縄文語が渡来人の言語を取り入れる事で進化をした言語である。そういった変化の中でも、縄文時代からの基本的な部分、つまり、日本型の脳を基礎付ける要素:母音中心の言語であることは変わらなかった。そのために我々日本人は、縄文の心性を無意識の内に持ち続けることになったと考えてもいいのではないか。(引用終わり)



ところで、時々レポートで紹介する元外交官原田武夫氏が、小生と全く同じ発想を新刊(「世界史を動かす日本」)で述べているので、彼の注目すべき近未来シナリオとともに紹介させていただく。マスコミ報道や学校の勉強を熱心にし過ぎ、思考のフレームをガチガチに固められてしまった方には、受け入れ難い話かもしれないが、大変興味深い指摘なので、是非、ご一読いただきたい。それでは、ある意味、楽観的な彼の未来ストリーを要約してお伝えしたい。



日本・世界のここ数年間の動き(原田シナリオ)



◎ 「太陽活動の異変」→ 気候変動(特に北半球で寒冷化)→ 経済のデフレ縮小化 世界全体の景気が大きく、かつ長く落ち込み始める。それは欧州から始まり、アメリカも巻き込まれる。



*温暖化ではなく、寒冷化、 *資産運用のためのヴォラティリティ(乱高下)の創出


◎ 「デフレ縮小化」によってマーケットが動かなくなるのを恐れた米欧は、いろいろなリスクを炸裂させ始める。至るところで「戦争」「テロ」など驚くべきことが起こる。しかし、その結果、世界経済全体は、もっと低迷し始める。

Ex.中東戦争→フランス、イタリアのデフォルト→原油高、円高→第二次安倍内閣の終焉 →日本株は一旦暴落



◎ そのような中、日本だけが日銀による異次元金融緩和(インフレ誘導)をするので、元気に見える。行き場を失ったマネーが世界中から「他に投資先がなくなった」として日本に集まり、わが国は凄まじいインフレに見舞われる。 世界は「ネオ・ジャパネスク」一色となる。

異次元金融緩和はやめることができないので、さらに進める。→ 日本株上昇、円高



◎ しかし、結局はそこで生じるチャンスを日本人は使うことができず、必要なイノベーション(技術革新)は、進まない。政治も混迷し続け、結局は、資産バブルだけが進み、ハイパーインフレの懸念すら出て来る。これを危惧した日本人が銀行の窓口に駆け込む結果、金融恐慌が発生しかけ、政府が「事実上のデフォルト処理(国家債務不履行)を開始する。



Cf.東京直型地震、南海トラフ地震、富士山噴火→ 東京遷都→ 東京オリンピック返上



◎ その結果、事態は「世界もダメ、日本もダメ」という状況に一瞬なりかける。だが、事ここに及んで追い詰められた私たち日本人は、本来の姿を取り戻し始め、「日本語脳」によって新しい秩序を創り出していく。これに改めて世界が乗りかかることで「ネオ・ジャパネスクの時代」が加速し、世界は「日本の平和(パックス・ジャポニカ)という時代に突入する。

*日本からイノベーターが出てくるかがポイント→仲介者の役割を果たすインキュベーターが重要:これから最も重要なビジネスになる可能性有り

Ex.常温核融合、元素転換、超伝導、水素エネルギーの実用化、ハイテクアニミズム国家、ネイチャーテクノロジー(インセクトテクノロジー)etc



上記のような図式の大胆なシナリオを原田氏は提示している。大変な時代であるが、<平時には孤独に耐えられず、人の顔色ばかりを見ていて、容易に決断できない日本人>が明治維新より大きな危機に目を覚ますことができれば、「ジャパネスクの時代」が来る可能性があると彼は言っているわけである。

そして、日本の時代が来るか、どうかのポイントが「日本語脳」にあると指摘している。ここが以前、小生がレポートで書いたことと全く同じ意見なのである。(以下。)



「角田忠信さんの研究成果を読めば、読むほど、私は実証された「言霊」の存在を信じて疑わなくなりました。なぜなら、器としての私たち日本人の脳や肉体ではなく、「日本語」という言葉こそが私たちの精神を他のそれと区別する決定的なものを培う役割を担っていることがわかったからです。」(「世界史を動かす日本」188ページ)



「そして、もう一つ。それ自体新しい検証を経た「角田理論」よれば、「日本語」のよって育った私たち日本人の脳は、あまりにも、「左脳偏重」です。右脳を使うということがまずなかったようなのです。しかし、このことがかえって大きな意味を持ってきます。「日本人の右脳は、一体どんな役割を持っているのだろうか。」という非常に興味深い問いが浮かび上がってくるのです。」(「世界史を動かす日本」206ページ)



日本人が「自発的隷従論の世界」から抜け出し、その独自性を発揮するとき、初めて世界の新しい時代が本当に始まるのかもしれない。そしてそれは、外国勢力に魂を売ってしまったコンプラドールである日本人を表舞台から退場させる時でもある。





<参考文献>

「自発的隷従論」エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著、西谷修監修、山上浩嗣訳(ちくま学芸文庫)

「世界史を動かす日本~これからの5年を迎えるために本当に知るべきこと~」

原田武夫著(徳間書店)



「日本人の脳~脳の働きと東西文化~」角田忠信著(大修館書店)

「右脳と左脳~脳センサーでさぐる意識下の世界~」角田忠信著(小学館ライブラリー)

「奇跡の脳~脳科学者の脳が壊れたとき~」ジル・ボルト・テイラー著、竹内薫訳(新潮文庫)



「森の思想が人類を救う」梅原 猛著(小学館ライブラリー)

「森と文明の物語~環境考古学は語る~」安田喜憲著(ちくま新書)

「一神教の闇~アニミズムの復権~」安田喜憲著(ちくま新書)

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