先日から、知人に勧められた、豊橋出身の西谷 修さんが監修した「自発的隷従論」を読んでいる。フランスの有名なモンテニューの夭折した友人であるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(彼は1530年に生まれ、1563年に亡くなった。)が18歳前後の書いたと言われる小論である。吃驚するのは、この本が書かれた16世半ばから400年以上の歳月を経ているにもかかわらず、現在の日本の不思議な無力感に包まれた社会状況をあまりにも適確に言い当てていることである。(以下、彼の興味深い言葉を引用)



「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P11)」



「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P13)」



「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか。(P14)」



「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P15)」



「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P15)」



圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P18)」



「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P19)」



「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P22)」



「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P27)」



人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分自身にだまされる場合が多いのだ。(P34)」



信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P34)」



「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P35)」



「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P43)」



「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(P44)」



「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P44)



人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ」(P48))



「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P49)」



「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購いたいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」



芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士、珍獣、賞牌、絵画、その他のこうしたがらくたは、古代の民衆にとって、隷従の囮、自由の代償、圧政のための道具であった。古代の圧政者、こうした手段、こうした慣行、こうした誘惑を、臣民を軛の下で眠らせるためにもっていた。こうして民衆は阿呆になり、そうした暇つぶしをよきものと認め、目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり、そんなふうにして隷従することに慣れていったのであった。(P53)」

如何だろうか。現在の高度に発達したグローバル金融資本主義社会では、メディア等を使って、あまりにも巧みに<自発的隷従状態>に誘導されてしまうのが、悲しい現実ではないだろうか。



一例を挙げるなら、現在、脱原発運動の旗手の一人になっている小出裕章氏の言動の不可思議さのなかにも「自発的隷従」の精神を垣間見ることができる。



小出氏の自発的隷従の典型が「「病気になることを納得して食べる。せめて子供を守るため、大人が率先して汚染度の高い食物を食べるべき」だという敗北主義的なあまりにも不思議な主張である。放射線管理区域にすべき所に、日本政府が、国民を住ませる決断をした以上、仕方がないというのも彼の主張だが、本当にそうだろうか。

言うまでもなく、日本国には、日本国憲法があり、国民主権、基本的人権の尊重が高らかに謳われている。年配者は、汚染地域の一次産業を守るために、放射性物質に汚染された食物を食べるべきだという主張は、どう考えても基本的人権の侵害である。また、政府が決めたから仕方がないという主張も、本来なら、国民主権が機能していない政治を問題にすべきであろう。一票の格差の問題、マスコミ報道のあり方等、議会制民主主義が機能阻害されている要因は、あまりにも多くあるように思われるが、

本当の事を書いてしまえば、原発問題を解決するお金の問題も、日本が官民合わせて米国に貸していると言われている1200兆円のお金を活用すれば、本当は何とかなるはずである。もちろん、多くの政治家は、米国が怖くて言えないだろうが、国家非常事態宣言を311の時にしていれば、すでにそれすら、できていた可能性があると思われる。

ところで、国立保健科学医療院の山口という研究員が、原発を世界中につくるために「福島の原発事故を早く抑え込んでしまって、除染をして住民が汚染を受け入れること

を発信しないといけない」と、言っていたようだが、一時、話題になった<福島エートス>とは、被曝者である福島の人々が、自ら進んで放射能の環境の中で生活することを

選んだと、いう既成事実を作って、それを世界に発信するための奇妙な活動である。

この自発的隷従の活動を世界の原子力マフィアが後押ししているわけだが、上記の小出氏の主張は、残念ながら、見事にこれに沿うものになっていることに日本人は早く、気が付くべきであろう。

おそらく、小出氏が大手のマスコミに頻繁に出演できる理由は、この辺にあるのでは、ないかと思われる。ただ、彼は、意識的にやっているのではなく、日本社会に流れている「自発的隷従の空気」に流されているだけだろう。

*参考:「食べて応援死亡と奇形続出生体実験」http://blog.livedoor.jp/home_make-toaru/archives/7712867.html



ところで、日本人をこのような自発的隷従論の世界に閉じ込めているのは、欧米のグローバルエリートと彼らに協力してお金儲けを最優先しているコンプラドールと化した日本人だが、現在、日本をコントロールしている欧米のエリートが「デフレ、縮小化する世界」のなかで、怖れているとともに、期待?もしていると言われているのが、以前、レポートでも紹介した「日本人の独自性」というものであることをご存じだろうか。

(以下、レポート「日本人の独自性」より部分抜粋)

参照:http://www.yamamotomasaki.com/archives/619



私は、日本人のユニークさは狩猟・採集を基本とした「縄文文化」が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けていることが一番大きな要因だと考える。

それを哲学者・梅原 猛氏は「森の文化」だと言っている。日本人は、「ギルガメシュ神話」のように「森の神」を殺さなかったのだ。そして、ユーラシアの穀物・牧畜文化に対して、日本は穀物・魚貝型とで言うべき大陸とは全く違うユニークな文化を形成していったのである。

世界でも稀な縄文時代という土器文化を異常に長く続けた歴史こそ、おそらく日本人のユニークさの源泉なのであろう。このような歴史を歩めた幸運が日本人の独自性を創り上げたと考えるべきだと思われる。



また、日本語を母国語とすることによる脳の使い方の違いももっと、考えるべきであろう。角田忠信博士が書いた「日本人の脳」という本はそのことを解明した画期的な本であった。

東京医科歯科大学の教授であった角田博士によると、日本人と西洋人とでは、脳の使い方に違いがあるという。すなわち、日本人の場合は、虫やある種の楽器(篠 笛などの和楽器)などの非言語音は言語脳たる左半球で処理される。もしそれが事実とするならば、欧米人が虫や楽器の音を 単なる音として捕らえるのに対して、日本人はその一部を言葉的に捕らえる、つまり意味を感じていると考えることができる。この事は日本人の認識形態、文化に取って非常に重要だ。一般的に意味、つまり、言葉を発する主体は意識体として認識される。しかしながら、日本人にとって楽器などの奏でる非言語音がその一部とは言え、言語脳を刺激して語り掛けているならば、それが人間から発せられるものでない以上、別の意識体、つまり、霊魂、神々、魔物 などの霊的意識体として感じ取られる感受性の高さに結び付くのではないか。また、その事が日本人の精神の基層を為していると考えることもできるからだ。



このことから日本語を使う日本人の脳は本来的にアニミズム的であり、多神教的であると言えよう。そして、おそらくは日本特有の言霊の概念もこの様な認識の上に成り立つ。

ところで、角田氏に拠ると幼年期を欧米で過ごし、英語やフランス語などで育った日本人は欧米型の脳に成り、日本語で育った欧米人は日本型の脳に成る。つまり、幼年期に使う言葉によって、脳の機能が決定されることになる。母国語は、脳にとってパソコンのOS(オペレーションシステム)のようなものであるらしい。

もし、日本語がその様な脳を作り出す特性を持っているとしたら、どのような異文化が流入しても、日本の根底に在る文化、精神は変化しないのか。また、この様な日本語の特質は果たしていつ頃からできたのか。博士の研究に拠ると、この日本人特有と思われたパターンが他の民族からも見付かっている。いわゆる黄色人種の中には日本型の脳はなかった。日本人に最も近いとされる韓国人にしても欧米型であった。しかし、太平洋に点在する島々の住人、つまり、その現地語を話すミクロネシアなどの人々は日本型と判断された。ポリネシアの言語もその形態の近い事から同様の脳を作ると考えられる。



実を言えば、現在、縄文人の直系の子孫と思われるアイヌの人々は遺伝的にポリネシアンに近い事が分かっている。また、哲学者梅原 猛氏が言うようにアイヌ語は縄文の言語の形態を色濃く残していると考えられている。最近の研究ではミクロネシアン、ポリネシアン、縄文人、アイヌなどは氷河期以前のモンゴロイドと言う意味で旧モンゴロイドと名付けられ分類をされている。ミクロネシア系の言語が日本型脳を作るのなら、そして縄文語から発展した日本語が日本型の脳を作るのなら、アイヌ語も日本型の脳を作ると推測できる。つまり、旧モンゴロイド系の言語は本来的にアニミズム的な多神教的な脳を産み出すと考えられる。むろん、文明を持つ以前の人類は、アルタミラの洞窟壁画を見ればわかるように旧モンゴロイドに限らず、アニミズム的な世界観を抱いていた。もちろん、自然との対話から直感を得、自然との関わり方を学ぶ能力は旧モンゴロイドの専売特許ではなかったことは言うまでもない。しかしながら、人類の多くはその様な能力を伝える言語を失った?が為に、文明の進展と共にその様な能力を失っていった。使われぬ能力が退化をするのは自然の摂理だ。



しかしながら、我々日本人の言語はその様な能力を脳に与える潜在的力を秘めている。この能力は非常に貴重であり、文明の進んだ今日こそ、改めて見直されるべきであることは言うまでもない。

日本語はおそらく、縄文語が渡来人の言語を取り入れる事で進化をした言語である。そういった変化の中でも、縄文時代からの基本的な部分、つまり、日本型の脳を基礎付ける要素:母音中心の言語であることは変わらなかった。そのために我々日本人は、縄文の心性を無意識の内に持ち続けることになったと考えてもいいのではないか。(引用終わり)



ところで、時々レポートで紹介する元外交官原田武夫氏が、小生と全く同じ発想を新刊(「世界史を動かす日本」)で述べているので、彼の注目すべき近未来シナリオとともに紹介させていただく。マスコミ報道や学校の勉強を熱心にし過ぎ、思考のフレームをガチガチに固められてしまった方には、受け入れ難い話かもしれないが、大変興味深い指摘なので、是非、ご一読いただきたい。それでは、ある意味、楽観的な彼の未来ストリーを要約してお伝えしたい。



日本・世界のここ数年間の動き(原田シナリオ)



◎ 「太陽活動の異変」→ 気候変動(特に北半球で寒冷化)→ 経済のデフレ縮小化 世界全体の景気が大きく、かつ長く落ち込み始める。それは欧州から始まり、アメリカも巻き込まれる。



*温暖化ではなく、寒冷化、 *資産運用のためのヴォラティリティ(乱高下)の創出


◎ 「デフレ縮小化」によってマーケットが動かなくなるのを恐れた米欧は、いろいろなリスクを炸裂させ始める。至るところで「戦争」「テロ」など驚くべきことが起こる。しかし、その結果、世界経済全体は、もっと低迷し始める。

Ex.中東戦争→フランス、イタリアのデフォルト→原油高、円高→第二次安倍内閣の終焉 →日本株は一旦暴落



◎ そのような中、日本だけが日銀による異次元金融緩和(インフレ誘導)をするので、元気に見える。行き場を失ったマネーが世界中から「他に投資先がなくなった」として日本に集まり、わが国は凄まじいインフレに見舞われる。 世界は「ネオ・ジャパネスク」一色となる。

異次元金融緩和はやめることができないので、さらに進める。→ 日本株上昇、円高



◎ しかし、結局はそこで生じるチャンスを日本人は使うことができず、必要なイノベーション(技術革新)は、進まない。政治も混迷し続け、結局は、資産バブルだけが進み、ハイパーインフレの懸念すら出て来る。これを危惧した日本人が銀行の窓口に駆け込む結果、金融恐慌が発生しかけ、政府が「事実上のデフォルト処理(国家債務不履行)を開始する。



Cf.東京直型地震、南海トラフ地震、富士山噴火→ 東京遷都→ 東京オリンピック返上



◎ その結果、事態は「世界もダメ、日本もダメ」という状況に一瞬なりかける。だが、事ここに及んで追い詰められた私たち日本人は、本来の姿を取り戻し始め、「日本語脳」によって新しい秩序を創り出していく。これに改めて世界が乗りかかることで「ネオ・ジャパネスクの時代」が加速し、世界は「日本の平和(パックス・ジャポニカ)という時代に突入する。

*日本からイノベーターが出てくるかがポイント→仲介者の役割を果たすインキュベーターが重要:これから最も重要なビジネスになる可能性有り

Ex.常温核融合、元素転換、超伝導、水素エネルギーの実用化、ハイテクアニミズム国家、ネイチャーテクノロジー(インセクトテクノロジー)etc



上記のような図式の大胆なシナリオを原田氏は提示している。大変な時代であるが、<平時には孤独に耐えられず、人の顔色ばかりを見ていて、容易に決断できない日本人>が明治維新より大きな危機に目を覚ますことができれば、「ジャパネスクの時代」が来る可能性があると彼は言っているわけである。

そして、日本の時代が来るか、どうかのポイントが「日本語脳」にあると指摘している。ここが以前、小生がレポートで書いたことと全く同じ意見なのである。(以下。)



「角田忠信さんの研究成果を読めば、読むほど、私は実証された「言霊」の存在を信じて疑わなくなりました。なぜなら、器としての私たち日本人の脳や肉体ではなく、「日本語」という言葉こそが私たちの精神を他のそれと区別する決定的なものを培う役割を担っていることがわかったからです。」(「世界史を動かす日本」188ページ)



「そして、もう一つ。それ自体新しい検証を経た「角田理論」よれば、「日本語」のよって育った私たち日本人の脳は、あまりにも、「左脳偏重」です。右脳を使うということがまずなかったようなのです。しかし、このことがかえって大きな意味を持ってきます。「日本人の右脳は、一体どんな役割を持っているのだろうか。」という非常に興味深い問いが浮かび上がってくるのです。」(「世界史を動かす日本」206ページ)



日本人が「自発的隷従論の世界」から抜け出し、その独自性を発揮するとき、初めて世界の新しい時代が本当に始まるのかもしれない。そしてそれは、外国勢力に魂を売ってしまったコンプラドールである日本人を表舞台から退場させる時でもある。





<参考文献>

「自発的隷従論」エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著、西谷修監修、山上浩嗣訳(ちくま学芸文庫)

「世界史を動かす日本~これからの5年を迎えるために本当に知るべきこと~」

原田武夫著(徳間書店)



「日本人の脳~脳の働きと東西文化~」角田忠信著(大修館書店)

「右脳と左脳~脳センサーでさぐる意識下の世界~」角田忠信著(小学館ライブラリー)

「奇跡の脳~脳科学者の脳が壊れたとき~」ジル・ボルト・テイラー著、竹内薫訳(新潮文庫)



「森の思想が人類を救う」梅原 猛著(小学館ライブラリー)

「森と文明の物語~環境考古学は語る~」安田喜憲著(ちくま新書)

「一神教の闇~アニミズムの復権~」安田喜憲著(ちくま新書)

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