忖度(そんたく)の顛末

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6月 162017

現在、「忖度(そんたく)」という言葉が猛威を振るっています。かつて評論家の山本七平氏が「「空気」の研究」という本を書きました。その本のなかで山本氏は、太平洋戦争末期、日本軍の参謀は制空権を奪われた沖縄に戦艦大和を出撃させるのは、あまりにも無謀な作戦だと理解していたにもかかわらず、陸軍の総攻撃に呼応するためには、簡単には引き下がれないという精神論に支配された会議の「空気」に圧倒され、非合理な命令を下してしまった等の興味深い事例を紹介しながら、時に合理的な判断を簡単に退けてしまう日本社会における「空気」の危険性を解き明かしました。現代でもKY:「空気が読めない」という言葉に象徴されるように日本社会においては「空気」の目に見えない不思議な力は存在しています。ところで、場の空気を「読む」行為に止まらず、「推し測る」行為である「忖度」の影響力は、空間を超えて、離れた集団や直接かかわりのない人物にも向けられます。その意味で「空気」より影響力が大きいと言えます。それでは、今回のような過剰な忖度が霞が関で生まれた原因は、どこにあるのでしょうか。

それは「政治主導」と言う言葉が、新自由主義改革を提唱している財界のシンクタンクである「新しい日本をつくる国民会議」が創り出した行財政改革の流れのなかで与野党の政治家の合言葉になることによって始まったものです。これが2001年の公務員制度改革大綱につながっていきます。そして、「縦割り行政の弊害を除去し、各省庁の主だった人事を政治(選挙で選ばれた政治家)がコントロールすべきだ」ということで、20145月に<静かな革命>とも言われた内閣人事局が新設されました。その結果、官邸が各省庁の審議官級以上の約600人の幹部人事を管理コントロールできるようになり、事務次官以下が事務方の人事、序列を決めることができなくなりました。そのために何をやってもそんなに給与が上がるわけではなく、人事異動だけが楽しみな国家官僚たちは、総理官邸通いを足しげく始めるようになったというわけです。そこから今回報道されているような過剰な忖度が生まれていきました。

 

ところで、日本国憲法第151項では、「公務員を選定し、罷免することは国民固有の権利である」とし、第2項では「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定しています。戦前の憲法では、官吏は天皇に身分的に隷従し、天皇とその政府だけに奉仕する<一部の奉仕者>でした。また、戦後の公務員制度は、米国の<猟官主義>から、党派的立場によってではなく、公務の担い手としての客観的な能力や資格をそなえているかどうかを基準に公務員を任用する<成績主義>への転換を踏まえた米国の公務員制度にならってつくられたことも忘れてはなりません。その意味では内閣人事局による官僚人事のコントロールについては、米国の公務員制度が猟官制から成績主義に転換していった歴史にむしろ逆行する面があること、また現在、世界的にも新自由主義、新保守主義の思潮が時代の趨勢に合わなくなり、退潮状況にあることも併せて考える必要があります。そして、ここが重要な処ですが、現在の小選挙区比例代表制の下の選挙では、得票率が50%を超えないでも80%近い議席が獲得できることです。事実、2009年の選挙では民主党が47%の得票率で74%の議席を獲得し、2013年の選挙では自民党が43%の得票で79%の議席を獲得しています。この状況下での政治主導は公務員を一部の奉仕者にしてしまう危険性を抱えています。

何れにしろ、過剰な忖度を期待する官邸の空気が「黙して語らず」がルールであるはずの国家官僚から「現在の政治主導は、本来あるべき公正な行政を歪めている」という反論を引き出したことを、もっと政治家も国民も真摯に受け止める時を迎えています。

*東愛知新聞に投稿したものです。

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