脱原発は可能か(7)

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11月 092017

脱原発を真剣に考えることの意味

 

歴史を振りかえってみれば、1986年のチェルノブイリ原発事故はソビエト連邦の為政者に対する国民の信頼を大きく揺るがすことにつながり、ソ連の崩壊を加速させたことは間違いない。しかしながら、福島第一の原発事故は、日本においては、当時政権を担当していた民主党の危機管理能力に疑問がついただけで戦後、日本の歩みとともにあった原発導入の歴史について根本的に総括されることはなく、戦後日本が「反核の平和国家」を目指しながら、米国と安全保障条約を結び、その「核の傘」のなかに入り、「核の平和利用」によって高度経済成長を遂げ、裏では潜在的核保有国を目指していた矛盾に目が向けられることはなかった。現在、冷戦が終了し、アメリカの国力の低下が著しいなか、そろそろ、この矛盾を解決するためには冷戦を前提にした日米安保条約に代わる安全保障システムを構築し、原発に依存しない経済の仕組みを考えるべき時期を迎え始めている。このように脱原発を真剣に考えることは、冷戦時代が終わったことにどのように対応するのかと、いうような根本的な問題に向き合うことが求められることでもある。

現実にドイツやデンマークのような海外の国々ではエネルギー政策を転換させ、再生可能エネルギーによる発電を成功させている。そして、2011311日の東日本大震災によって福島第一原子力発電所の事故が発生し、政府や東京電力が事故対応にあたったが、たしかに日本全体が原子力発電の安全神話を信じ切っていたためかもしれないが、政府、東京電力は適切な対応を行うことができず、原子力災害の被害が拡大することになった。危機管理能力のないことが明らかになるとともに原発の安全神話は完全に否定されたと言っても過言ではない。このような状況であるにも関わらず、現在の第2次安倍内閣は、原子力発電をベース電源とする方針を打ち出し、原発再稼動を前提としたエネルギー政策を進めようとしている。あまりにも危険なギャンブルに日本人全体の命を賭けていると言わざるを得ない。私たちは、もう、ある意味、幸福だった高度成長時代の鉄腕アトムのアニメーションが世の中を席巻した時代には戻ることはできない。今ほど、現実を直視することが求められている時はないはずだ。

 

終わりに、私たちが使っている沸騰水型原子炉の開発技術者であるリッコーヴァー海軍大将が、1982年、議会委員会でのプレゼンテーションで、興味深い回想をしているので紹介する。

 

「原子力利用の話に戻りますと生命を可能にすべく、自然が破壊しようとして来たものを、我々は作り出しているのです。(略)放射線を創り出す毎に特定の半減期、場合によっては何十億年のものを生み出しているのです。人類は自滅すると思いますし、この恐ろしい力を制御し、廃絶しようとすることが重要です。(略)放射性物質を生み出す以上、原子力にそれだけの価値があるとは思いません。そこで皆様は、なぜ私が原子力推進の艦船を作ったのかと質問されるでしょう。あれは必要悪です。できれば全部沈めたいと思っています。これで、皆様のご質問にお答えできているでしょうか?」

*東愛知新聞に投稿したものです。

脱原発は可能か(6)

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11月 082017

今なおも続く緊急事態

 

マスコミが2020年への東京オリンピックで盛り上がっているため、2011311日に政府が発出した「原子力緊急事態宣言」が、現在も解除されていないことを多くの国民は忘れかけている。

現在、東日本大震災から6年が経過したものの、福島第一原発については、廃炉措置、避難住民の帰還、除染、健康管理、賠償等の課題が山積している。3040年後を目標とする廃炉完了に向けて作業員の安全衛生を確保しつつ、着実な取組が求められている。特に、燃料デブリ(核燃料等が原子炉内で融けて固まったもの)の取出しは、極めて困難で実際には見通しすら、立っていない。そして現在も、10万人近い住民が避難を余儀なくされており、除染や汚染廃棄物処理もとても順調に進んでいるとは言えない。また、住民の不安を取り除くためには、健康管理や損害賠償の着実な実行が求められているが、これも順調に進んでいないのが実情である。ところで、昨年、経済産業省が試算した見積もりでは廃炉・損害賠償費用は215千億円を超えるとされている。しかしながら、この数字もあくまでも見積もりであり、これからどれだけ増えていくのかも予断を許さない。つまり、原発リスクコストは莫大でとても民間企業では、負担できるものではないということが事実として明らかになったということである。

 

日本の原子力行政を拘束している「日米原子力協定」

 

2018年7月には現行日米原子力協定の30年の有効期間が到来しようとしているが、何が書いてあるのだろうか。この日米原子力協定は、その名の通り、原子力分野での協力を目的としているが、あわせて米国が供給する核燃料及び原子力資機材に対して、核不拡散の観点から米国が規制をかけるためのものである。日米原子力協定は「核不拡散協定」ともいわれるくらい、後者のウエイトが高い。また、日本政府の独自の行動を拘束する側面も強く、第12条の4項には「どちらか一方の国がこの協定のもとでの協力を停止したり、協定を終了させたり、<核物質などの>返還を要求するための行動をとる前に、日米両政府は、是正措置をとるために協議しなければならない。そして要請された場合には他の適当な取り決めを結ぶことの必要性を考慮しつつ、その行動の経済的影響を慎重に検討しなければならない。(Shall carefully consider)」と、明記してある。つまり、米国の了承がないと、原発をやめるような行動をとることはできないことも意味しているのである。20139月、当時の野田内閣が<2030年代に原発稼動ゼロを目指すエネルギー戦略>を米国の強い懸念によって閣議決定できなかったのは、その典型的な出来事であった。最高裁判所が有名な砂川判決で高度に政治性のある国家行為に対しては、憲法判断をしないという統治行為論を持ち出し、憲法判断を停止した日本においては<安保法体系>と<憲法法体系>の二つが現実には存在している。そのために安全保障に関連する日米原子力協定も、日米地位協定のように日本国憲法の上位法体系に位置づけられることになっている。ここにも日本の原子力行政の難しさがある。

*東愛知新聞に投稿したものです。

脱原発は可能か(5)

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11月 072017

原発建設は地元への利益誘導や過疎地への所得の再分配政策に

 

 19727月に「日本列島改造論」を掲げて田中角栄首相が登場すると、原子力政策は決定的な変質をしていくことになる。列島改造のために制定された電源三法(電源開発促進法、電源開発促進対策特別会計法、発電施設周辺地域整備法)は、過疎地への原発誘致が完全に利権として定着するシステムだった。かつて外務大臣の河野太郎氏は「自民党の原発関係の勉強会や部会には原発を誘致した地元の議員しか来ていないため、エネルギー政策の議論をついぞしたことがない」と正直に語っていた。つまり、日本の原子力政策は、表のエネルギー政策という面のほかに地方への利益誘導や過疎地への所得再分配政策という裏面を合わせもつ形で、311まで強力に推進されてきたのである。その結果、地震列島である日本は、アメリカ、フランスに続いて、「55基」(世界第3位、廃炉を差し引くと50基)もの原発を持つことになったのである。

 

福島第一原発における核惨事

 

2011年311日の東北地方太平洋沖地震による地震と津波の影響により、東京電力の福島第一原子力発電所で炉心溶融(メルトダウン)など一連の放射性物質の放出をともなった国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7(深刻な事故)に分類される原発事故が起きた。日本という国においては1945年の広島、長崎に続く三番目の核惨事であった。もう一度、詳細に振り返ってみると、次の通りである。平成232011)年3111446分に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で、福島第一原発は送電鉄塔が倒壊し、外部電源を喪失した。さらに、1535分頃の津波によって非常用ディーゼル発電機も機能しなくなり(全交流電源喪失)、運転中の13 号機では、原子炉内の核燃料を冷やす機能が次第に失われていった。消防車による原子炉への代替注水、注水に必要な原子炉減圧、原子炉格納容器ベント(原子炉格納容器内の気体を一部外部に放出し、圧力を下げる緊急措置)の実施も試みられたが、間に合わず、炉心損傷が進行。溶融燃料の一部は原子炉圧力容器を貫通し、原子炉格納容器の底部に落下した。また、原子炉格納容器も破損。さらに、炉心損傷に伴い、発生した水素が圧力容器・格納容器から原子炉建屋内に漏れ出し、312日に1号機で、14日に3号機で、それぞれ水素爆発が発生、原子炉建屋が崩壊した。3号機に隣接する4号機でも、3号機から水素が流れ込み、15日に水素爆発が発生し、原子炉建屋が損壊した。1号機と3号機の水素爆発で、作業員及び自衛隊員計16人が負傷。また、福島第一原発からの放射性物質は、主に312日から15 日にかけて放出され、風に乗って南西や北西の方角へと広まり、福島第一原発から60km 離れた福島市でも高い空間線量率が計測された。首都圏でも、大気中や土壌などから放射性物質が検出され、その影響は食品や水道水などに広範囲に及んだ。一方、原子炉へ注水した水が、高濃度汚染水となって原子炉格納容器から漏れて、原子炉建屋及びタービン建屋の地下にたまり、その一部が海洋に流出するという問題も発生した。

*東愛知新聞に投稿したものです。

脱原発は可能か(4)

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11月 062017

原子力の平和利用キャンペーンと第五福龍丸事件

 

1954年31日,米国は南太平洋ビキニ環礁で,水爆ブラボーの爆発実験を行った。この実験で放出された死の灰が,近くで操業中のマグロ延縄漁船に降りそそぎ,乗組員23人が被爆する第五福龍丸事件が起き、激しい反米世論と放射能パニックを日本で引き起こすことになる。そこで、多くの日本人が,アメリカの原子力平和利用計画に疑いを強めるような状況を打開するために原子力の平和利用キャンペーンが読売新聞、日本テレビを舞台に強力に展開されていく。それは「原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには,原子力の平和利用を大々的に歌い上げ,希望を与える他はない」という米国のアドバイスによって始まったものであった。このことは、NHKの現代史スクープドキュメント「原発導入のシナリオ-冷戦下の対日原子力戦略-」と言う番組のなかで明らかにされている。そして、読売新聞の正力松太郎氏によって「原子力平和利用展覧会」が195511月東京の日比谷公園で開催され、以後日本全国を巡回。展覧会では、実物大原子炉模型、電光式原子核反応解説装置、工業・医療・農業へのアイソトープ利用、マジックハンド、原子力飛行機・原子力船・原子力列車等が展示され、原子力の平和利用の夢を多くの国民に広報することに成功した。また、当時日本では慢性的な電力不足の解決のために大型ダムが次々に作られていたが、しだいに建設費が高騰し,水力発電の発電量は限界に近づいていた。当時は、火力発電所のコストが高く,将来の石炭不足も予想されていた。経済界は新たなエネルギー源を模索していたこともあり、水力や火力より原子力発電のほうが経済的であると米国の作り出したデータに飛びつくことになる。その安全性についても原子力から出る死の灰も,食物の殺菌や動力機関の燃料に活用できるという説明がまことしやかにされているぐらい、科学的知見は一般にはなかった。

 

日本での原発開始

 

 第五福龍丸事件から1年3ヶ月後の1955年6月21日,「日米原子力協定」がワシントンで仮調印。この協定により,日本に濃縮ウランが初めて供給された。半年後,読売新聞の正力松太郎氏は原子力担当大臣として,第3次鳩山内閣に入閣。正力は,アイゼンハワー大統領に向けて「原子力平和利用使節団の来日が,日本でも原子力に対する世論を変えるターニング・ポイントになり,政府をも動かす結果になりました。この事業こそは,現在の冷戦におけるわれわれの崇高な使命であると信じます」という手紙を書いている。茨城県東海村の原子炉完成式の日には、500 人が参列して原子力センターの出発を祝い、正力国務大臣が歴史的なスイッチを入れた。1957年8月8日,米国から輸入された東海村の原子炉が臨界に達し、日本の原子力開発がスタートした。しかし,日本で原子力による電力の供給が始まるのは,ほぼ10年後の昭和41年のことであった。アメ リカは1958年までに39カ国と原子力協定を結び,ソビエトに対抗。この協定により核物質の軍事転用は禁止された。それは各国が米ソの核兵器ブ ロックのなかに,組みこまれていくことも意味していた。

*東愛知新聞に投稿したものです。

脱原発は可能か(3)

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11月 052017

原発建設の主要な動機は核兵器製造に必要なプルトニウムの確保

 

 国際ニュースを見ていれば、大量破壊兵器としての原子爆弾の設計・製造という事業と公共消費向けの発電のために核燃料を使用する事業との一体性は、北朝鮮、インド、パキスタン、イスラエルにおける核開発の国際論争がそれらの国々がまず、原子炉の導入に動くことによって始まることを思い浮かべれば、すぐにわかることである。事実、日本の外務省が1969年に作成した「我が国の外交政策大綱」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku_hokoku/pdfs/kaku_hokoku02.pdf

には、「核兵器は当面保有しないが、核兵器を作るだけの技術力と経済力は保持する」との方針が明記されている。おそらく、それは不動の方針としてずっと現在まで続いている。考えてみれば、原子力発電所の立地する自治体には、さまざまな名目で補助金や交付金が出ていて、その分を含めれば、原子力発電のコストはかなり高いものになるが、潜在的核保有国であるためのコスト:防衛コストと考えれば、仕方がないということになる。問題は原発をエネルギー問題としてしか、政府が国民に語らないので民主主義国家日本で、多くの国民がそのことを知らないことである。しかしながら、311以降、大手メディアでもこの本質の部分が出てきた。201197日の読売新聞は「日本はプルトニウムを利用することが許されていて、日本の原子力発電は潜在的な核抑止力となっている。だから、脱原発してはいけない」と書くまでに到っている。

 

原子力エネルギー産業の日本への輸入

 

今日では、日本への原子力の導入が、米国公文書館の公開された外交機密文書を綿密に研究した有馬哲夫早稲田大学教授の「日本テレビとCIA 発掘された正力ファイル」「原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史」等の一連の著作によってテレビと反共主義を伴う冷戦下における心理戦そのものだったことまで明らかになってきた。ご存じのように米ソ冷戦が始まることによって、米国は日本の占領政策を非軍事化、民主化政策から、日本を共産主義の防波堤にする、いわゆる逆コース政策に転換。その結果、廃止した特別高等警察に代わり公安警察を設置(秘密警察復活)、日本の限定的再軍備を容認するロイヤル答申(再軍備準備)等の政策が次々と採られていった。このことは同時に戦前の日本の財閥を基盤とする生産と権力の基盤を復活させることも意味していた。上記の有馬哲夫氏は、「日本テレビは、娯楽やコマーシャルの道具として計画されたわけではなかった。プロパガンダと軍用通信手段として計画されたのだ。日本テレビの設立は反共産主義の軍事プロパガンダ・ネットワークを作るCIAの作戦の隠れ蓑だった。計画を立てたのは正力ではなく、アメリカだった。アメリカは正力がネットワークを作るのを助けたのではない。アメリカはそれを作るために正力を利用したのだ」と明記している。その結果、1960年代末までCIAUSIA(アメリカ合衆国情報庁)が提供したTV番組に日本のゴールデンタイムは占拠されることになった。

*東愛知新聞に投稿したものです。

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