原子力の平和利用キャンペーンと第五福龍丸事件
1954年3月1日,米国は南太平洋ビキニ環礁で,水爆ブラボーの爆発実験を行った。この実験で放出された死の灰が,近くで操業中のマグロ延縄漁船に降りそそぎ,乗組員23人が被爆する第五福龍丸事件が起き、激しい反米世論と放射能パニックを日本で引き起こすことになる。そこで、多くの日本人が,アメリカの原子力平和利用計画に疑いを強めるような状況を打開するために原子力の平和利用キャンペーンが読売新聞、日本テレビを舞台に強力に展開されていく。それは「原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには,原子力の平和利用を大々的に歌い上げ,希望を与える他はない」という米国のアドバイスによって始まったものであった。このことは、NHKの現代史スクープドキュメント「原発導入のシナリオ-冷戦下の対日原子力戦略-」と言う番組のなかで明らかにされている。そして、読売新聞の正力松太郎氏によって「原子力平和利用展覧会」が1955年11月東京の日比谷公園で開催され、以後日本全国を巡回。展覧会では、実物大原子炉模型、電光式原子核反応解説装置、工業・医療・農業へのアイソトープ利用、マジックハンド、原子力飛行機・原子力船・原子力列車等が展示され、原子力の平和利用の夢を多くの国民に広報することに成功した。また、当時日本では慢性的な電力不足の解決のために大型ダムが次々に作られていたが、しだいに建設費が高騰し,水力発電の発電量は限界に近づいていた。当時は、火力発電所のコストが高く,将来の石炭不足も予想されていた。経済界は新たなエネルギー源を模索していたこともあり、水力や火力より原子力発電のほうが経済的であると米国の作り出したデータに飛びつくことになる。その安全性についても原子力から出る死の灰も,食物の殺菌や動力機関の燃料に活用できるという説明がまことしやかにされているぐらい、科学的知見は一般にはなかった。
日本での原発開始
第五福龍丸事件から1年3ヶ月後の1955年6月21日,「日米原子力協定」がワシントンで仮調印。この協定により,日本に濃縮ウランが初めて供給された。半年後,読売新聞の正力松太郎氏は原子力担当大臣として,第3次鳩山内閣に入閣。正力は,アイゼンハワー大統領に向けて「原子力平和利用使節団の来日が,日本でも原子力に対する世論を変えるターニング・ポイントになり,政府をも動かす結果になりました。この事業こそは,現在の冷戦におけるわれわれの崇高な使命であると信じます」という手紙を書いている。茨城県東海村の原子炉完成式の日には、500 人が参列して原子力センターの出発を祝い、正力国務大臣が歴史的なスイッチを入れた。1957年8月8日,米国から輸入された東海村の原子炉が臨界に達し、日本の原子力開発がスタートした。しかし,日本で原子力による電力の供給が始まるのは,ほぼ10年後の昭和41年のことであった。アメ リカは1958年までに39カ国と原子力協定を結び,ソビエトに対抗。この協定により核物質の軍事転用は禁止された。それは各国が米ソの核兵器ブ ロックのなかに,組みこまれていくことも意味していた。
*東愛知新聞に投稿したものです。