脱原発は可能か(2)

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11月 042017

原子力潜水艦ノーチラスから原子力発電所へ

 

第二次世界大戦後、マンハッタン計画に費やした20億ドル以上の開発費回収のため、米軍とパートナー企業は、広島と長崎を破壊した原爆の技術エネルギーの方向転換をはかっていく。ここから潜水艦の推進電力を従来の電池から原子力発電装置に変える目標が生まれ、原子力潜水艦開発が急務の課題となっていった。フクシマ第一で事故を起こしたマーク1のプロトタイプの設計は、核分裂から生じる熱で動く沸騰水型原子炉用のウエスティングハウス社の提案を受け入れた時点で具体化し、1954年、海軍将校ハイマン・Gリッコーヴァーが率いる技術者集団が開発に成功。このウエスティングハウス社が持つ特許は、福島第一原発の三機の崩壊している原子炉の製造業者であるゼネラルエレクトリックによって購入された。このGEの設計図を用いて東芝と日立は、他の原子炉を組み立てることになる。ところで現在、数百稼動している原子炉のうち、32基がいまだに、リッコーヴァー海軍大将によって開発されたマーク1のプロトタイプである。米国でも現在稼動中の103基の原子力発電所のうち、23基のマーク1原子炉がまだ、残っている。このマーク1は1970年代から冷却システムの外部電力の故障に対する脆弱さ、格納容器の能力不足を含む様々な構造的問題を原子力産業内部の技術者から指摘されていた。また、第二次世界大戦後、推進された原子力エネルギーの性急な開発については、相対性理論のアインシュタイン、原爆の開発責任者だったオッペンハイマー、アメリカ原子力委員会の初代事務局長になったキャロル・L・ウィルソンが反対していたことも忘れてはならないところである。特にマンハッタン計画の中心的人物であったオッペンハイマーは、戦後、大きな良心の葛藤を抱え、日本の賢人、山本空外にその苦悩を打ち明けていることも多くの日本人が知らない原爆開発史の裏面である。このことについて、アインシュタインは「原子の分裂によって、我々の思考方法以外のすべてが変化した」という名言を残している。

 そして、1949年にはソ連が原爆の開発に成功し、1953年には水爆の開発に成功。核戦争が人類の差し迫った恐怖となった。この年の1953128日、米国のアイゼンハワー大統領が国連で「原子力を平和に」という有名な演説で「アメリカの願いは、人間の素晴らしい発明の才が、人間の死のために捧げられるのではなく、人間の生のために捧げられるようなやり方を見出すことだ」と宣言。そのことにより民生用原子炉の開発がペンシルバニア州シッピングボートで急速に進み、1957年地上用民生原子炉(マーク1)が完成し、このリッコーヴァー海軍大将によって進められた地上用プロジェクトによって、シッピングボートは、1960年代半ばまで何百人もの技術者の原子炉技術の学校として機能し、その時以来、その原子炉の設計は、米国で製造された民生原子炉の四分の三以上と多くの外国のモデルとなった。米国の外交政策の主要なテーマとなったこのビッグプロジェクトは、アメリカの同盟国、潜在的同盟国を米国に本拠地を置く大企業の工業的サイクルや米国を本拠地とする金融体制よって運営される金融サイクルに組み込む絶好の機会を提供。つまり、米国の大企業に特殊権益を与え、広範囲な国際ネットワークを築かせることになった。このようにしては冷戦下の米国の覇権の安定が築かれていくことになる。

*東愛知新聞に投稿したものです。

脱原発は可能か(1)

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11月 032017

2013年8月、小泉純一郎元総理は、原発の使用済み核燃料を10万年、地中深く保管して毒性を抜くという施設であるフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」を視察した。人類史上、それほどの歳月に耐えた構造物は存在しない。10万年どころか、100年後の地球と人類のありようさえ、想像を超えているのに、現在の知識と技術で超危険物を埋めることが許されるのか。その思いから小泉元総理は、脱原発の決意を固めたとも言われている。小泉氏も指摘しているが、原発は「トイレなきマンション」である。どの国も核廃棄物最終処分場(=トイレ)を造りたいが、危険施設だから引き受け手がない。「オンカロ」は世界で唯一、着工された最終処分場で、2020年から一部で利用が始まる。その特殊なトイレを小泉氏は見学してきたわけだ。

 今回は、原子力爆弾、核兵器の開発から始まる20世紀の原子力産業の歴史を簡単に振り返り、小泉氏が唱える脱原発について考えてみたい。 

すべてはマンハッタン計画から始まった 

英国の哲学者バートランド・ラッセルは、人類の歴史を近代へと進化させるのに貢献した偉業として、ダーウィンによる進化論、アインシュタインによる相対性理論と並んで、フロイトによる潜在意識の証明を挙げている。このアインシュタインの相対性理論が人類に原子力という魔法の力をもたらした。193812月、ドイツの小さな実験室で化学者オットー ハーンは、ウランの原子核に中性子を衝突させ、割れるはずのない原子核を分裂させることに成功した。これが「核分裂」だと最初に気づいたのは女流物理学者リーゼ・マイトナーだった。著名な物理学者フェルミはこの核分裂を連続的におこせば、莫大なエネルギーが取り出せるかもしれないと考えた。核分裂のさいに、23個の中性子が放出され、それが隣のウラン原子核に衝突し、次々と核分裂を起こす。核分裂の回数が多いほど放出するエネルギーも大きいので、「核分裂の連鎖莫大なエネルギーが放出」と考えたのである。1942122日、フェルミらは、シカゴ大学の粗末な原子炉で、核分裂を連鎖的におこすことに成功。歴史上初めて、人間の手によって原子の灯がともったのである。このささやかな実験が、広島と長崎に投下された原子爆弾の起源となった。一方、ハンガリー人の学者レオ シラードも、オットー ハーンの実験から、核分裂が原子爆弾につながることを予見。もし、ドイツが原子爆弾の製造に成功すれば、世界は破滅するかもしれない。そこで、有名なアインシュタイン博士の名を借りて、米国大統領ルーズベルトに、原子爆弾の開発を進言。ここから現在の貨幣価値で2兆円、当時の日本の一般会計の約35倍の約20億ドルを費やしたマンハッタン計画が19426月に始まり、この計画で製造された原子爆弾が広島と長崎に投下された。なんと1発1兆円の爆弾だったのである。さらに広島と長崎が受けた損害、失われた35万名の人命を考えれば、人類が被った被害は計り知れない。実際、このプロジェクトを統括したオッペンハイマーは「われは死神なり、世界の破壊者なり」というバガヴァッド・ギーターの言葉を残している。ここから、第二次世界大戦後の原子力の平和利用キャンペーンとともに原子力発電所の歴史が始まっていくことになる。

*東愛知新聞に投稿したものです。

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