「アメリカニズムの終焉」を認めたくない日本

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11月 112018

大きな話題になることはなかったが、平成バブルがはじけた1993年に佐伯啓思氏の「アメリカニズムの終焉」という名著が出版されている。氏はこの本の中で戦後一貫してアメリカ的なるもの、アメリカ文明的なるものを参照枠として思考の基軸に据えてきた日本という国の危うさを適確に指摘。すでにこの時点で現在のグローバリズムをもたらしたアメリカニズムの行き詰まりを予見していた。また、高坂正堯氏も著書「文明が衰亡するとき」のなかで、アンドレ・マルローの<一つの文明の結末を、それと意識しながら生きるのは妙なことだ。ローマの末期以来、こんなことはなかった。>という言葉を紹介している。パックスアメリカーナの終焉をはっきりと戦後の保守言論人を代表する高坂氏も意識していたのである。ところが現在、そのような冷静な思考フレームを日本のマスメディアでは、全く見ることができない状況になっている。

そこで今回は、興味深いエピソードを紹介しながら、現在の日本を呪縛しているアメリカ共同幻想について考えてみたい。

アメリカニズムの終焉

現在でも公式資料では、20188月末時点でもアメリカの金保有高は、8133トンで第2位のドイツが3369トンだからダントツの第1位である。ちなみに日本は765トンで第9位である。ところが、今から8年前(2010年1月)にパキスタン・ディリーが対外決済のために中国が米国から受け取った5600本、400トロイオンスの金塊が偽物であったという報道したことがある。

 

「中国の役人たちは驚愕した。中はタングステンであり、周りに金メッキが施されていたのである。しかももっと凄いことがある。これらの金塊は打刻されたアメリカ製であり、数年間は米国財務省金管理庫において管理されていたものだったのである。」

 

このことを調査した中国によれば、こういった金塊がすでに6、000億ドル以上、不法に売買されていることが判明したとのことである。2008年にはエチオピア中央銀行から南アフリカに送金した金塊が同じく偽物であることが判明した事件もあった。この事実関係を英国のBBCが報道している。巷間、ロスチャイルドがロンドンにおいて金の値段を実質上、決めていると言われていた歴史を踏まえると、20044月の時点で世界有数の投資銀行であるロスチャイルド・アンド・サンズ社が金を含む商品取引から撤退しているのも意味があるがはずだ。何らかの背景があって撤退したとしか考えられないのである。もちろん、閉ざされた言語空間にある日本のマスコミでこう言ったニュースが報道されることは決してない。最近では2013年に米国第七艦隊を舞台にした大規模な収賄事件(「太っちょレオナルド(Fat Loenard)」汚職事件)が日本を含む東アジアで起きている。内容はアメリカ海軍史上最大規模の汚職事件でマレーシアの建設業者が米軍からの契約を取ろうとして、米海軍の将官たちを接待し、賄賂を渡し、3500万ドル(約38億円)の契約を成立させていたというもの。日本の大手メディアは全く取り上げなかったので、多くの日本人は全く知らないはずである。 

 それでは英国BBCや海外メディアで報道されることが、どうして日本マスコミでは報道されないのだろうか。

それは戦後、日本という国が米国情報機関(CIA(中央情報局)、NSA(国家安全保障局))によるいわゆる「心理戦」によって強力なマインドコントロール下に置かれているためである。ところが2017年、反グローバリズムの政治家トランプが登場し、臨界点に達したパックスアメリカーナに急速に幕を引く動きが米国内で始まっている。そしてトランプは着々とリトリート(撤退)政策を進めるための布石を打っている。もちろん、本年6月にシンガポールで行われた米朝会談、同7月にヘルシンキで行われた米ロ会談はその流れを強力に推し進めるためのものである。政府広報であるNHKをはじめとする大手メディアは必死にこのことを隠蔽しようとしているが、「従米路線」しか外交戦略をもたない日本政府は、朝鮮半島を巡る六ヵ国協議からロシアが日本を外すように提案していることに象徴されるように徐々に蚊帳の外に置かれるような状況になってきている。現在、日本に残っている役割は世界経済を回すために世界最大の債権国として世界中にお金をばらまくキャシュディスペンサーとしての役割だけだと言っても過言ではない状況に陥っているのが現実だ。 

考えてみれば冷戦下の日本においては、GHQの民主化政策で導入された6・3・3制の戦後教育制度の中で、巧みコントロールされたマスコミ報道、ハリウッド映画、アメリカのテレビドラマによって私たち日本人は、パックスアメリカーナの共同幻想の中で温々と安眠を貪ることができた。現在、現役の日本の政治家はほとんどがその環境下で育った世代である。たしかにそれは自由主義陣営のショウインドウとしての日本に高度経済成長という果実=実利をもたらした。私たち日本人は「平和憲法」に守られながら、アメリカが行う戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争等)によって世界に冠たる経済大国になることができたのである。つまり、冷戦時代の日本という国はアメリカが行う戦争経済の最大の受益者であったということである。

振り返ってみれば、私自身も日本人なのに能や歌舞伎よりハリウッド映画の方をよっぽどよく知っている。ビビアン・リー主演の「風と共に去りぬ」は20回以上見たし、オードーリー・ヘップバーン主演の「ローマの休日」も10回以上見ている。現在まで見たハリウッド映画は、おそらく、邦画の何百倍の本数である。このように戦後のアメリカ文化の日本への浸透にはすさまじいものがある。私たちの世代は、訳もわからず、「トムとジェリー」というアニメを見させられ、「ベン・ケイシー」や「コンバット」、「パパは何でも知っている」、「奥様は魔女」というアメリカのテレビドラマの再放送をずっと見させられ、米国の中流家庭の文化的な生活に憧れを抱くように誘導されてきたのである。小学校でも授業時間内にディズニィーのアニメ映画を何回も見せられた記憶がある。「巨人の星」という人気漫画に出てくるスプリングの塊の「大リーグ養成ギブス」、まさにアメリカメジャーリーグに対する憧れそのものである。その流れがあったからこそ、私たちは、野茂、イチロー、松井秀喜のメジャーリーグでの活躍に心を躍らせたのではないか。その流れのなかで現在も、NHKは莫大な放映権料をMLBに払って衛星テレビで放送しているのである。

 ところで、上智大学の渡部昇一氏のような人々が1960年安保、1970年安保は日本にとって正しい選択だったと力説していたことがあるが、本当だろうか。

今から考えてみれば甚だ疑問である。そのために日本が独立国に近づく機会をみすみす放棄し、1980年代以降、特に85年のプラザ合意以降、莫大な国富を米国に貢ぐ道に誘導されただけではないのか。今こそ、ジョヴァンニ・アリギの「長い20世紀」のような客観的な分析が必要だろう。

長い20世紀

よくよく考えておかしなことだと思うのだが、戦後学校教育の中には、今では英語学習を小学生から積極的に取り入れているにもかかわらず、本当の意味で日本の本質(哲学、思想、宗教、文化)を教えられる機会がほとんどない。その意味では、日本の教育は独立国家としての体をなしてないと考えてもいいのではないか。

かつて岡倉天心は「アジアは一つ」と言った。日本人として、欧米に対する対抗意識をはっきり表明したわけである。もちろん、宗教、哲学の底流に流れるものが同じであるという意味で言った言葉であって、アジアを一つにまとめる哲学・思想が彼によって表明されたわけではない。 

岡倉天心が「茶の心」、つまり日本人の心をたった10項目に要約しているので紹介する。

茶の本

1.西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。 

2.いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。 

3.茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。 

4.われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から堂々とした琴をつくる必要がある。 

5.花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。 

6.宗教においては、未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。 

7.出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。 

8.数寄屋は好き家である。そこにはパセイジ(パッサージュ=通過)だけがある。 

9.茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。 

10.われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。

 

一部の日本人にはあまりも残念なことかもしれないが、戦後、我々日本人の頭の中に張り巡らされたアメリカという共同幻想が雲散霧消する(アメリカが普通の国になる)時が近づいている。多極化政策を進めるトランプによってドルが基軸通貨でなくなり、アメリカが覇権国でなくなる日が刻々と迫っているからだ。パックスアメリカーナの下で既得権を獲得した日本のイスタブリシュメントは、今もパックスアメリカーナを維持したいと懸命に抵抗を続けているが、1945年8月15日のような大転換の節目がくることを回避することはもはや、不可能に思われる。

このことは、明治維新以降、欧米金融資本によって国民国家としての道をある意味、強制的に歩ませられた日本に真の独立国になるチャンスが訪れることも意味しているのだが、もしかすると、現在の日本のエリートは独立国になる気概すらすでに奪われてしまったのかもしれない。 

おそらく、その気概を創るための新しい思想家が日本に出てくる必要があるのだろう。言うならば、その意味で二十一世紀の岡倉天心の出現が望まれる。日本、東アジア、をゆるやかにまとめていくことのできる哲学・思想を語ることのできる思想家が今、時代の要求なのである。 

「ひとことで言えば、自他ともに幸せになり、その社会を人間の望みうる理想のものとするには、日本を見習うべきだということなのである。―――もし自然が生活に必要なもの、そのすべてを与えたとしたら、そして、もしその国が国民の勤勉により、世界に例を見ないまでに発展しているとしたら、その国は外国に頼るこなしに存在できるのである。これは大きな利点である。これによって他国より来る邪悪、放蕩,軽薄、戦争、変節などに乱されることなく、国内に大きな問題も起こらず、危急の場合、外国の攻撃から身を守ることができるのである。これこそ日本が他国よりすぐれている点である。」著者の生前は出版されることのなかったケンペル著「日本誌」の一節から岩松睦夫著「緑の大回廊~森が語る日本人へのメッセージ」(1984年 東急エージェンシー)より 

(ペリーが黒船で日本を脅す前に読んでいた日本についての情報は、ケンペルの『日本誌』によっていた。シーボルトが日本にくる前に読んでいたのもケンペルの『日本誌』である。ケンペル以降に日本に来た外国人の大半は『日本誌』を読んでいる。世界的なベストセラーだった。江戸時代の日本を西洋人は上記のように理解したのである。) 

明治維新から150年、私たちはこの150年の近代史を今一度、あらゆる思い込みを捨てて冷静に振り返り、21世紀の日本のあるべき姿を考える時を迎えている。ペリー来航から165年、そろそろ米国を卒業する時を迎えていることだけは間違いないのではないか。

もうすぐ、平成時代も終わる。元号が変わるとき、まことに不思議な事に日本の歴史は大きく動き出すのである。

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