七夕に降る雨のことを「催涙雨」と言う。
織姫と彦星が雨によって会うことのできない悲しみの涙だと想っていたが、本当の意味はどうも違うようだ。
七夕の朝に降る雨には、会えなかった一年分の「嘆きの涙」
七夕の昼、夕方に降る雨には、再会した「喜びの涙」
夜、明け方に降る雨には、また、別れなければならない「悲しみの涙」
このように「催涙雨」には、いろいろな意味があるということらしい。
こんなことを書いたのは、物事の事象には、いろいろな見方があるわけだが、若いときには、よほどの運に恵まれない限り、そのことを知ることができないということを考えていたからだ。
たとえば、「催涙雨」についても、雨が降って愛し合う二人が会うことができないという意味しか若いときには知らなかった。
これは私たちが暮らしている社会についても言えることで、学校で習った社会科の勉強と、マスメディアが流す情報、働いている、所属している会社、組織社会のなかで学んだことだけでは、本当の人間が生きる社会の実相を知ることはとても難しい。
今、私たちは明治維新に匹敵する大転換の時代をおそらく、生きているのだが、テレビのニュースを見ていても、毎日の新聞を見ていてもそのことに気が付くことはできない。
あのベルリンの壁が崩壊した時も、一年前にそのことを予見していた人は、ほとんどいなかったのが、現実だ。でも壁は壊され、東ドイツという国は崩壊してしまったのだ。
現在、日本銀行、年金資金を使って株価を吊り上げ、その裏で実質賃金は下がり、社会保険等の国民負担率は上がっているのに、都合のいい話だけを表に出して経済を良くしたと誇らしげに語る政治家たちがメインロードを闊歩している。
アメリカの大統領になったトランプ氏は、もう、日米安保を破棄したいと言い始めているにもかかわらず、辺野古埋立てを進めようと必死に基地利権にしがみついているのが、日本のエスタブリシュメントだ。
思い返せば、トランプ氏は、大統領に当選する前から「日米安保はいらない、自分の国は自分で守るべきだ」と言っていたから、現在、表に出てきた発言は本音だろう。
もちろん、意図的なリークであることは言うまでもない。
それでも、そんなことは有り得ないと、日本の支配層は高を括っているようにしか見えない。
考えてみれば、戦後の日米安保体制というものは、冷戦構造を基にできたものだ。
前提条件が変わった時点でその仕組みは役割を終えたと考えるのが自然だ。
思い返せば、1980年代半ば過ぎのバブル時代、不思議な程、多くの日本人は楽天的だった。
あの時、この繁栄が20年、30年続くと多くの日本人は思っていたはずだ。
高級ディスコで踊り狂っていた紳士淑女の姿が目に浮かぶ。
想えば、俵 万智さんの「サラダ記念日」が出版されたのが、この時期であった。
<『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日>
この歌を読み返すと不思議な明るさと脳天気だった自分自身と日本人の姿が甦ってくる。
すべては変わってしまったのだ。
そして今、時代の転換点が訪れようとしている。